エステル記講解その2  2011/06/26
『見えざる神の御手』

エステル記2:1-23

 今晩は、エステル記2章を通して、人間たちの織りなす歴史の背後に、確かに導かれていく生ける神の御手の確かさについて、ともに教えられてまいりたいと思います。

(1)王妃選びのはじまり
 前回からエステル記を繙きはじめましたが、そこで申し上げたエステル記の特色の一つは、この書の中に一度も神が登場して来ないということでした。神が登場しない、神の名が記されない書物が聖書に収められてよいのか、そんな疑問は古くからあったのでしょう。膨大な聖書の注解を記していった古代教会の教父たちも、7世紀まではエステル記についての注解を書くことをしなかったとも言われます。しかしそこによく目を凝らして見ると、生きておられる神の見えざる御手が確かに働いている様を認めることができるのです。
 今日の2章には、本書の主人公であるユダヤ人の娘エステルが登場してくるまでのいきさつが記されます。1節から4節。「この出来事の後、アハシュエロス王の憤りがおさまると、王は、ワシュティのこと、彼女のしたこと、また、彼女に対して決められたことを思い出した。そのとき、王に仕える若い者たちは言った。『王のために容姿の美しい未婚の娘たちを捜しましょう。王は、王国のすべての州に役人を任命し、容姿の美しい未婚の娘をみな、シュシャンの城の婦人部屋に集めさせ、女たちの監督官である王の宦官ヘガイの管理のもとに置き、化粧に必要な品々を彼女たちに与えるようにしてください。そして、王のお心にかなうおとめをワシュティの代わりに王妃としてください。』このことは王の心にかなったので、王はそのようにした」。酔いから醒め、憤りが収まった王のうちには、王妃ワシュティを失った寂しさや、ワシュティへの自らが下した仕打ちについての後悔の思いが行き来していたのかも知れません。しかし一度追い出した妻を取り戻すことはもうできない中で、王の心中を察したしもべたちによる新しい王妃選びが始まるのでした。

(2)モルデカイとエステル
 そのようなタイミングでユダヤ人モルデカイと、そのいとこであり養女でもあったエステルが登場してきます。5節、6節。「シュシャンの城にひとりのユダヤ人がいた。その名をモルデカイといって、ベニヤミン人キシュの子シムイの子ヤイルの子であった。このキシュは、バビロンの王ネブカデネザルが捕らえ移したユダの王エコヌヤといっしょに捕らえ移された捕囚の民とともに、エルサレムから捕らえ移された者であった」。このようにモルデカイは捕囚の民の子孫として、バビロン時代から祖国を遠く離れた捕囚の地で生きてきた離散のユダヤ人でした。彼の存在がある意味でエステル以上に、この書の中での主の見えざる御手を表すものともなるのです。
 さらに7節でエステルが登場します。「モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。このおとめは、姿も顔だちも美しかった。彼女の父と母が死んだとき、モルデカイは彼女を引き取って自分の娘としたのである」。このエステルの美しさは、単に外見上のことだけでなく、むしろ彼女の内面の表れであったと言えるでしょう。異国の地に生まれ育ち、両親とも死別して、いとこのモルデカイに育てられた少女エステル。そこには、彼女が生きる中で味わってきた日と知れない様々な苦しみ、悲しみ、忍耐、そのようなものがない交ぜになって、彼女のよき品性を作り出し、それが外側に美しさとなって現れていたのだろうと思うのです。それゆえに、9節にあるように王の宦官ヘガイがエステルに目を留めることになり、彼女は王宮に召し入れられ、特別の好意を得るようになるのでした。

(3)見えざる神の御手
 さらに王妃選びから実に三円が経過したアハシュエロス王の治世の第七年の十月。ついに王の前に進み出ることになります。17節。「王はほかのどの女たちよりもエステルを愛した」。この時、彼女はモルデカイの勧めに従って自らがユダヤ人であることを明かしませんでした。その理由はまだ明らかにされませんが、恐らく異教の地で長く生きていたモルデカイなりの判断のあったことでしょう。さらに21節から23節には、ここでの文脈から突然外れるようにして、アハシュエロス王の暗殺計画と、それを察知したモルデカイ、さらにこのモルデカイの手柄をエステルが王に知らせたという事件が記されます。これも今の段階では、これがどのような意味を持つのかは明らかにされません。どれも伏線が張られたまま宙ぶらりんのままにされています。
 これらのことがやがての大団円の時に見事に繋がってくるのですが、未だ私たちはそのすべてを知ることができない。これが私たちの限界であり、同時に私たちの人生です。しかし、それだからこそ私達には信仰が必要なのです。それは見えざる神の御手を信じる信仰です。今目の前に起こっている出来事の意味も分からず、ただひたすらその中を生きていく。しかしそこに必ずや生ける神の御手が働いていると信じ、主の御手を待ち望んで生きていく。そこに信仰の働かせ所があるのです。「摂理」とは英語で「プロヴィデンス」と言いますが、これは「前もって見る」という言葉がもとになっています。しかしここで注意したいのは、私たちが先のことを見えるようになるということでなく、先のことを見ていてくださる神がおられることを信じるということです。ハイデルベルク信仰問答第27問は、神の摂理を「今働く神の全能の力」と言います。まさに今ここで生ける神が働いておられる。御子イエス・キリストを通し、聖霊によって今生きて働いていてくださる。そこに信仰の眼を見開いて従っていくものでありたいと願います。

 

 



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