待降節第三主日礼拝    2018/12/16
『ともしびを携えて』

マタイ25:1-13

 待降節第三の主日を迎えました。三本目のキャンドルに火が灯されて、いよいよ来る週にはクリスマスを迎えようとしています。また一足先に、今日はクリスマスの大きな喜びが与えられます。この礼拝の中で一人の姉妹の洗礼式を執り行うことができる。これ以上のプレゼントはありません。主の御名を心から賛美します。
 この朝、主イエス・キリストの御降誕を待ち望む私たちを、大きな愛と喜びの中に待っていてくださる主なる神様の恵みと祝福が、この朝も皆さん一人一人の上に豊かにありますように祈ります。

(1)待望としてのクリスマス
 今年のアドベントからクリスマスに向かう礼拝は、中谷先生と私とで交互に御言葉を取り次いでいます。先週はルカ福音書に記されたマリアへの受胎告知、そして次週はピリピ書からクリスマスのメッセージが語られるということで、私は敢えてクリスマスとは違った箇所から、アドベント、救い主を待つということについて、ともに御言葉から教えられていきたいと願っています。そのようなわけで、この朝開かれているのは、マタイ福音書25章において主イエスが語られた、結婚の宴で花婿の到着をも待つ十人の娘たちのたとえ話です。ここから、主イエスの再び来たりたもう日を待ち望む私たちのあり方について教えられてまいりたいと思います。
 聖書には繰り返し「主を待ち望め」、「主を待て」と私たちに語りかける御言葉が溢れていますが、それは希望、待望ということにおいて私たちに与えられている信仰がその姿を鮮やかに映し出すからでしょう。神を信じ仰ぐ人の姿が希望というものを現し、その姿がすでに一つの信仰の証しとしての意味を担うのです。誰もがあきらめ、絶望、疑いの中に足もとばかりを見つめて立ちすくむ中に、しかしその中にあって背筋を伸ばし、天を仰いで立つ人がいる。それは多くの人々の中にあってはほんの一握りのような僅かな人々であるかもしれない。しかしそれでも絶望の闇に包まれるこの世界の中にあって、なお希望をもって立つ人がそこにいるという事実が、それをもってこの世界の中に救いが来る、神の救いがもたらされることをはっきりと指さしているのです。ここに私たちがこの時代、この世界に生かされている大切な意味があると言えるでしょう。

(2)十人の娘たちのたとえ  
 今日与えられている御言葉は、待つことの備えを怠った人と、十分に備えた人の対照的な姿が描き出されるところです。1節。「そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って、花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます」。ここに登場する十人の娘たちは婚宴の席で花婿を迎えるブライドメイドたちです。当時のパレスチナ地方の結婚の習慣では、夜に花婿が友人たちと一緒に花嫁宅に迎えに行き、花嫁は花婿とともにともしびを携えた娘たちに付き添われて花婿宅に向かったそうです。ですからこの十人の娘たちは花嫁宅で花婿の到着を待つ人々でした。続く2節で「そのうち五人は愚かで、五人は賢かった」と言われます。ここで主イエスが言われる「愚かさ」と「賢さ」とはいったい何を意味するのでしょうか。3節、4節を見てみましょう。「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた」。ここでの「愚かさ」と「賢さ」の基準、それは途中でともしびの火が絶えてしまわないように目覚めて準備をし、花婿の到着を待っていたかということです。
 そもそもこのたとえ話は24章から「終わりの時」、すなわち「人の子」イエス・キリストが再びお出でになる時についての一連の説話の中で語られたものでした。それらの結論はこう繰り返されます。24章42節。「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないからです」。44節。「ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです」。そしてこの時のためにどのように備えるべきか、45節で「主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう」と語られ、今日のたとえでは「賢さ」が、続く25章14節以下の「タラントのたとえ」では「忠実さ」が教えられます。ここでは待ち望む人の「賢さと忠実さ」が教えられているのです。
 そこで5節。「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった」とあります。ずいぶんと到着時間がずれ込んだため、ともしびを灯していつかいつかと待っていた彼女たちも、いつしか待ちくたびれて居眠りを始めたのです。賢い五人の娘も愚かな五人の娘も、ともに花婿の到着が遅くなって居眠りする姿にも違いがありません。ところがその違いが明らかになる時が来る。6節から12節。「ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消そうなので、あなたがたの油を分けてください。』しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも、店に行って自分の分を買ってください。』そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちはこれと一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません』」。そして結末はこうです。13節。「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから」。
 「目を覚ましていなさい」との結論。少し違和感を覚えるかもしれません。賢い五人も、愚かな五人も、花婿が来るまでは居眠りしていたではないか。それでもこのたとえの結論が「目を覚まして」と言うということは、油を絶やさないように先々を見通して準備を怠らなかった彼女たちの「賢さ」を差しての評価だったと言うことになるでしょう。繰り返しますが、このたとえは「天の御国」の訪れについて教えるもので、花婿とは再び来たりたもうイエス・キリストのこと、これを迎える十人の娘たちとは私たちのことを示しています。主イエスがこのたとえを語られた心は、私たちが賢い五人の娘たちのように目覚めた者として、賢く、備えを怠らずに、来るべきお方を待ち望むようにということなのです。

(3)聖書の教える待望、希望
 こうしてみると、聖書が語る「待ち望む」、「希望する」という姿勢は、ただじっと待つというよりも、様々に知恵を働かせ、目覚めて、賢く、準備を怠らず、という、実に自覚的な姿勢、戦略的な姿勢であることが分かります。ただ漫然と当てもなく待っているというのではない、しっかりと姿勢を整えて、準備を整えて、主を待つのが聖書の教える待望の姿、希望の姿なのです。それは、どんなに目の前が真っ暗闇でも、どんなに夜の闇が深まっていっても、どんなに光の到来の兆しが見えなくても、どんなに花婿の到来が遅くなっても、それでも決して諦めず、望みを絶やさず、冷笑的にならず、しっかりと油を備えて待つ姿です。夜の闇の中で、それでも油を絶やさない。花婿が来ることを信じて疑わず、その時のために準備を怠らない。こういう目覚めた信仰に生きることが、教会の役割でしょう。そんなことをしても意味がない、やるだけ無駄だ、どうせ光は来ない、救いは来ない。そうやって私たちの希望を潰そうとする力がどんどん増す中で、それに対抗する力こそが希望の力であり、待望の力なのです。
 1沖縄では県民の意思を踏みにじるようにして辺野古の基地建設、土砂投入が強行されています。沖縄にこの三年で20回近く通いましたが、できる限り辺野古に足を運ぶようにしてきました。美しい大浦湾の港から見える辺野古の岬、その海が赤土で埋め尽くされ、やがて基地が造られようとする。国家という強大な力を前にして、いったい何ができるのだろうかと呆然となります。闇の力を前にして、私たちは無力だと思い知らされる。希望のともしびは消え入りそうになる。しかし、そこが正念場なのでしょう。希望は失望に終わらない、という御言葉の約束を信じる者たちは、それでもなお手許のともしびに油を絶やさず、救いの到来のために備え続けるのです。
 先月末からずっと注意し続けている一つのニュースがあります。オランダのデンハーグにあるベテル教会という教会の取り組みを知りました。政治的迫害を逃れて、2010年にオランダにやって来たアルメニア人のタムラジャンさんという家族がいる。彼らはこの間、オランダ政府に何度も亡命申請をしてきたけれども認められず、10月の終わりに国外退去を命じられてしまった。そこで彼らが集っていたベテル教会が、この一家を教会で保護しているのです。しかも礼拝中は警察も教会に立ち入れないという法律を利用して、彼らの強制退去を阻止するために、実に27日間ノンストップで礼拝をし続けているというのでした。それが11月末のことです。そして最近のニュースでは、六週間目に入った今もその礼拝が続けられているというのです。当初は数名の牧師たちが夜を徹して説教し続け、礼拝が途切れないようにしていたのが、やがてこのことが広く知られるようになり、オランダ各地から牧師たちや信徒たちが駆けつけてきて、今では説教者、礼拝者が数百名でシフトを作って、組織的に支援を始めています。政府はいまだ当初の方針を変える姿勢を持っていないようですが、オランダ各地の教会がベテル教会の取り組みを支持し、連帯する意思表明が続いています。そんなこといつまでも続くものではない。国に楯突くのはどうなのか、それはもはや政治的デモンストレーションであって真の礼拝ではない。色々な声が聞こえてきます。しかし私はこのクリスマスの時期、闇の深まるこの時代にあって、希望の存在としての教会の姿がここにあると、本当に元気をもらっています。教会とは社会の中で、こういう存在ではないかと思うのです。

(4)ともしびを携えて
 待降節の日々を過ごしながら、クリスマスのための様々な備えを続けながら、なお自らの中に待ち望むことの備えの少なさ、足りなさを痛感します。確かに目に見える部分についてはあれやこれやと忙しなく備えてはいる。けれども主を待ち望むということにおいて、本当に必要な備えのためにいったいどれだけの時を用い、どれだけの心を取り分けて、ともしびに油を差しながら、主を待っているだろうか。もっともっと「時」の大切さをわきまえ、時に対する感覚を研ぎ澄ます必要があるのではないかと思わされます。主の時を待てずに先走ってはいないか、主の時はまだだと慢心に陥ってはいないかと。
 この待降節第三主日の朝に、私たちは目覚めた者として、思慮深いしもべとして、忠実なしもべとして、ともしびを携えて主を待つとならせていただきたい願うのです。私たちのもとに救いの喜びを携えて、へりくだりの極みにまでお出でくださる主イエスを、私たちのできる最高の出迎えを持ってお迎えする者でありたい。そのためにも精一杯背筋を伸ばし、手にともしびを携えて、主イエスの来たりたもう日を待つ、そのような私たちでありたいと願います。



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