降誕節記念合同朝拝説教   2017/12/24
『喜びとかなしみのクリスマス』

マタイ福音書2:1-23

 2017年の降誕節主日の朝を迎えました。厳密には今日はクリスマスイヴ、そして今晩から明日にかけて世界中でクリスマスが祝われることになります。私たちも主にあって互いに挨拶を交わしましょう。クリスマスおめでとうございます。お一人一人の上にクリスマスにあらわされた神さまの愛と恵みと祝福とが豊かにありますように祈ります。

(1)闇の中に来る光、キリスト
 クリスマスは「光の降誕祭」とも呼ばれます。イヴの夜から教会に集まって日を跨いで降誕節を祝う。本来クリスマスは夜の出来事です。私たちも今晩イヴのキャンドル礼拝を行いますが、夜の闇の中に光として来られた神の御子イエス・キリストをお迎えするのです。クリスマスは明るさ一辺倒の出来事ではありません。クリスマスの光がひときわ輝くのは、そこに深く濃い闇の現実があるからにほかなりません。
 御子イエス・キリストの到来を待ち望み続けた旧約の民たちも、闇の現実の中を生きていました。預言者イザヤは言います。「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と。最初のクリスマスの知らせを受けた羊飼いたちも、「野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らした」と、夜の闇の真っ只中で光と出会いました。福音書記者ヨハネは、この神の御子イエス・キリストの到来を次のように言い表しています。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」。
 聖書は、私たちを取り囲む闇の現実を知っています。クリスマスの御子イエス・キリストをお遣わしくださった父なる神ご自身が、私たちを覆う闇の力の深さ、重さ、その大きさを知っておられるのです。そうであれば私たちもクリスマスを、このような闇の現実と無関係に迎えることはできません。「それはそれとして」という仕方でクリスマスを祝うことはできません。闇の現実から一時目を離すことのできる、闇の中を生きる苦しみを一時忘れることができる、そんな癒しの装置としてクリスマスがあるのではないのです。むしろ私たちに昨日も、今日も、そして明日からずっしりとのし掛かるであろう苦しみ、私たちを覆うであろう闇の深さ、数々の痛みや悲しみの、その只中に御子イエス・キリストは来られた。それがクリスマスの知らせなのです。
 この年のアドベントから、クリスマスの出来事の中に横たわっている「喪失」のストーリーに目を留めて来ました。言葉を失った祭司ザカリヤ、自分の思い描いた将来を失ったマリア、そして何よりも自らの神の御子としての特権も、地位も、いのちまでも失ってくださった御子イエス・キリスト。私たちは、クリスマスの持つそのような側面にも光を当てて、そこからこの出来事を見るという眼差しをも大切にしたいと思うのです。
 
(2)喜びの傍らで
 クリスマスの喜びの出来事、光の出来事の傍らに、私たちが目を留めなければならない闇の現実、悲しみの現実がある。その最たるものの一つが、マタイ福音書2章16節から18節に記される恐ろしい出来事です。「その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。『ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ』」。
 神の御子イエス・キリストがお生まれになった。その喜びの傍らで、多くの幼子のいのちが奪い去られていく。平和の君の訪れの傍らで、圧倒的な暴力が我が物顔で闊歩していく。この出来事の意味をどのように受けとめたら良いのでしょうか。ヘロデの兵士たちによって我が子のいのちをあっけなく奪い取られた親たちの怒りと悲しみ、やりきれなさは私たちの想像を超えて余りあるものです。どうして我が子のいのちがこんなに酷い仕方で奪われなければならないのか。いったい我が子に何の責任があるというのか。こんな決定に一体何の意味があるというのか。ただの権力者の気まぐれではないか。
 しかしそれに抗う術を持たない親たちの、どれだけの怒りと悲しみの涙が流され、嘆き声が上がっただろうかと思うのです。私たちはこのような出来事を前にして戸惑います。できればこういう出来事はクリスマスの喜びの中からはそっと取り除きたい。無かったことにしたい。そんな思いに駆られるところです。しかし聖書はそのようなことはしません。この出来事が忘れ去られることのないようにここに刻みつけ、しかもこれが預言者エレミヤに語られた神の言葉の成就だと言うのです。
 そもそもこの出来事はどのような経緯で起こったのでしょうか。1章の終わりでイエス・キリストのお生まれの出来事が記され、2章に入ると1節から12節で東方の博士たちがはるばる旅をし、まことの王なるイエス・キリストのもとにやって来て礼拝を捧げた姿が記されます。この時、猜疑心の塊のようなヘロデ王の中に怒りと不安が生まれる。自分のあずかり知らないところで「ユダヤ人の王」が生まれたという知らせを聞いて動揺したヘロデは、東方の博士たちを使ってこの王の居所を突き止めようと企てるのですが、神の介入によって彼らはヘロデの所には戻らず、別の道から自分の国に帰っていったのでした。
 そして13節から15節。「彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。』そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。』と言われた事が成就するためであった」。
 さらに後の19節から21節で「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。』そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった」として再び御使いのお告げを受けたヨセフが、今度はエジプトからイスラエルに帰還する姿を描くのです。

(3)旧約の預言の成就として
 マタイ福音書はこの出来事を「これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。』と言われた事が成就するためであった」といって旧約聖書との結びつきで示します。多くの聖書学者たちが指摘するのですが、マタイはここで御子イエス・キリストを旧約聖書の出エジプト記のモーセの姿と重ね合わせて描き出していると言われます。モーセは神の民イスラエルをエジプトの地から連れ出したリーダーですが、彼自身の誕生の時にも当時のエジプト王パロの命令で多くのイスラエル人の男の赤ん坊が殺されるという悲劇がありました。神の救いが起こる所にはいつも、人間の悲しみの現実、闇の現実があるのです。
 しかし神さまはそのような私たちの悲しみをそのままに捨て置くことをなさらない。むしろその闇の只中に救いの手を差し伸べ、そこから私たちを救い出し、引き出し、助け出そうとなさるのです。ここでイエス・キリストと重ね合わされるモーセという人物。彼はナイル川の中から引き出され、まさに「引き出す」という意味の名前、「モーセ」と名付けられた人物です。マタイ福音書は、「水の中から引き出されたモーセが神の民をエジプトから引き出す」という姿と、「エジプトへ引き出された御子イエスがやがて私たちを罪と滅びの中から引き出す」という姿の重なりを描くことで、主イエス・キリストこそが私たちにとってのモーセ、私たちを奴隷の状態から引き出してくださるお方だと語っているのです。
 今日の箇所にはいくつもの旧約引用と、それが「成就するためであった」という表現が繰り返されていますが、今朝はその中でも18節に注目したいと思います。「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。『ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ』」。そして三つめが23節。「これは預言者たちを通して、『この方はナザレ人と呼ばれる。』と言われた事が成就するためであった」と記されます。これは旧約聖書エレミヤ書31章15節です。「主はこう仰せられる。『聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている』」。
 「ラケル」とは、創世記における族長ヤコブの最愛の妻、そして出エジプトのきっかけとなったヨセフの母ですが、エレミヤはこの創世記の族長物語を振り返りつつ、かつてヨセフがエジプトに売られていったことを悲しむ父ヤコブの嘆きを、その時にはもうすでに亡くなっていたであろうラケルの嘆きと涙に重ねる仕方で、罪を犯して裁きに服さなければならないイスラエルの民への父なる神の嘆きと涙を語るのです。預言者は子を失う親の悲しみを知っている。そして何よりも、父なる神御自身が、私たちの罪の身代わりとするために、愛するひとり子イエス・キリストを十字架につけるためにお遣わしくださったゆえに、我が子を失う悲しみと涙を一番に知っておられるお方であると、マタイ福音書は語っているのです。

(4)喜びとかなしみのクリスマス
 確かに、それで子どもたちのいのちが失われた事実が覆るものではありません。その意味を知ったからと言って親たちの悲しみが癒やされるわけでもありません。ヘロデによる残虐な、まことに残虐な幼児虐殺の事実は決して消え去るものではない。ですから、この朝、私はこの出来事を見つめることで何か新しい納得、新しい解釈を締めそうとは思いません。
 この朝、願うのは、神の御子がこの世に来られたという出来事を、そこに溢れ出る大いなる喜びとともに、そこに伴う深いかなしみもともに受け取りたいということなのです。主イエスが来てくださった当時のユダヤには、様々な苦しみが溢れていました。いのちは軽んじられ、人々の尊厳は奪われ、構造的な支配の中に人々はかすかな救いの預言を頼りにしながら日々を生きていました。イエス・キリストの御降誕はそのような現実と無関係に起こったのでなく、むしろその只中に起こった。そこには愛する御子をお遣わしになった父なる神さまの愛の決断がありました。冒頭に読まれたイザヤ書の御言葉にもう一度聞きましょう。9章6節、7節。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」。
 ここには何としても救いを成し遂げようとなさる神の熱心、熱意があります。私たちがクリスマスを迎えているこの時代、この社会にも様々な苦難、矛盾、格差、敵意、不正や不平等があふれかえっています。そんな中に身を置いて生きていると、クリスマスどころではない、という気持ちにすらなりかねない。あるいはクリスマスという一時の幻想の中に逃げ込みたい衝動にも駆られる。
 しかし、私たちがクリスマスを迎えるということは、そのような世界の悲しみに目をつぶり、背を向けて、「それはそれとして」の喜びや楽しみを味わうためではありません。この苦しみの満ちる世界の只中に力ある神を送り、この争い、敵意、疎外の溢れる世界の只中に平和の君を送り、そうしてさばきと正義を行って神の王国を立ててくださる。そのようにして、私たちにまことの救いをもたらしてくださる父なる神さまの愛の決断を受けとめることこそが、神さまの御心です。そうであればこそ、クリスマスの喜びの傍らで失われた幼子たちのいのちを見つめる眼差しは、そこに留まってしまってはならないものでしょう。そこから私たちが見つめるようにと促されるのは、私たちのためにお生まれくださった御子イエス・キリストを十字架につけるほどに、そのいのちを差し出すほどに、私たちを愛してくださっている父なる神の愛の心を受け取り、私たちを救うためにこの世に来てくださった救い主イエス・キリストをお迎えする者とならせていただきましょう。



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