2017.12.17 徳丸町キリスト教会 朝拝
「恐れることはありません」

ルカ2:1-20

 「恐れることはありません。」それが、クリスマス、イエス様の生まれた夜に神様が人々に最初に届けられた言葉です。「恐れることはありません。」いや、もっと強く、「あなたがたは恐れてはならない」、「恐れるな」とも訳せる、この言葉は、現代を生きる私たちへのクリスマスのメッセージでもあります。
 恐れを抱かずには生きられない私たちです。「これはどうなるのか」、「あれはあのままでいいのか」、日常の様々な場面で心配が生まれていきます。日々、背負わなければならない責任や負担にせき立てられるように生きている。目の前に大きな課題が差し迫っていて足がすくむような思いになっている人もいるでしょう。自分自身も、そして、家族や周囲の人たちの将来を見通せないことに不安が湧いてくる日もある。また、今、この国では、「隣国の脅威が高まっている、私たちも武器をとらねばならない」と、恐怖を駆り立てる声が本当に大きくなっている。本当に多くの恐れが内から外から私たちに迫ってきます。
 今朝の箇所で、この言葉を受け取った羊飼いたちが恐れたのは、「主の栄光」が彼らの周りを照らしたからでした。主の栄光を恐れるとは、主ご自身を恐れるということです。主を恐れることは、神の前での人の当然の姿であり、あるべき姿です。箴言は、主を恐れることは知恵の初めと語りました。旧約の預言者たちも、神の栄光の前に立たされた時、そのきよさの前で、私は死ななければならないと覚悟した。そして、イエス様も、マタイの10:28で「からだを殺しても、 たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と、迫害する者を恐れる私たちに、他の何者も恐れる必要はなく、たださばき主なる神のみを恐れて生きよと語られました。そういう意味では、羊飼いたちの恐れは突発的な反応ではあっても、完全に否定されるような間違った恐れではありませんでした。
 しかし、神はここで「恐れるな」と語られる。あらゆる恐れに振り回される私たちに、ただ一人、真に恐れるべき御方が、御自身の前に立つ者に恐れる必要はないと語ってくださる。それは、なぜでしょうか。御使いは続けてこう語られています。「今、私は、この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」救い主イエス キリストが私たちのためにお生まれになった。私たちの主となってくださった。そこに私たちのすべての恐れを取り去る喜びがある。この方が、真の救い主として私たちのすべての恐れを取り去ってくださるのだと語りかけてくださっているのです。今朝、ともに、このクリスマスに語られた神様の「恐れるな」という語りかけをしっかりと受け取ってアドベント第三週をともに歩み始めたいと思います。

1.キリストが選ばれた喪失
 私たちは、今年のアドベントをクリスマスの喜びとともにある「喪失」に目を留めながら歩んできています。第一週には、イエス様の誕生に先立ってバプテスマのヨハネが生まれた時、その父ザカリヤが声の喪失を経験したことを聴きました。それは、マラキ書以来の、神の長い沈黙が破られる新しい時代の到来が表わされていた。また、第二週の先週は、イエス様の母となったマリヤへの受胎告知が、自らの安全で理想的な人生の喪失であったことを聴きました。しかし、それは、また「何一つ不可能なことはない神」によって、その大きな救いの計画の中に生かされる人生を受け取ることであった。そういった一つ一つの喪失の出来事がクリスマスの恵みを裏打ちするものであることを味わってきました。だからこそ、その喪失一つ一つの深さ、重みをきちんと受けとる必要を感じさせられます。

 そして、また、第三週の今朝、開かれた箇所は、他でもない、救い主、神の子イエス様の選ばれた「喪失」が表わされています。クリスマス。それは、神の子キリストが、ある「喪失」を経験された時でした。それは、神の子としての権威の喪失であり、力の喪失であり、居場所の喪失と言えるでしょう。
 2:1にあるように、イエス様の降誕の出来事は、皇帝アウグストの住民登録をせよという勅令によって動き出します。当時のローマ帝国は広大な範囲に及んでいたため、ここに記されているユダヤの住民登録はアウグストの死後も続いていた住民登録のうちの一つだと言われています。住民登録とは、国中から税を集めること、また、戦争に必要な兵力を把握することを目的に行われました。しかし、ある学者は、それだけでなく、時の権力者たちが支配下にある人数を記録することで、自分の権力の大きさを示す意味もあったと言います。人々は、そのために自分の生まれ故郷の町に家族みんなで行く必要がありました。驚かされるのは、身重になっているマリヤも、そのために長い旅路を行かなければならなかったということです。4節にあるように、彼らは、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムへの道のりを旅しました。この2つの町は、約140km離れたところにあります。ナザレは標高300m、ベツレヘムは標高800mほどの山の上にある町で、その間の道は、どれもいくつもの山や谷を越えていく道です。私の妻も、いま、お腹の中に小さないのちを与えられていますが、そのことがどれほど繊細なことか教えられる日々を過ごしています。きっとヨセフとマリヤも、お腹の中のいのちに本当に気を配りながら、この長い旅路を行ったに違いありません。それは、身重の母マリヤにも、そして、そのお腹の中のイエス様にとってもいのちがけの旅路であったわけです。
 ルカは、これらのことを淡々と記していますが、ここには、時の権力の傲慢さと横暴さがはっきりと表れています。自分たちの財力や権力を維持し、それを誇示するために、貧しい人々のいのちを軽んじる。それは、歴史の中で権力者たちが繰り返し陥ってきた悪です。しかし、イエス様は、あえて、そのような横暴な権力の下で、その権力に逆らうことなどできない弱い立場の者たちのうちに身を置かれました。本来、誰よりも大きな権威を持ち、この世の何者にもしばられない自由な御方である神の子が、ご自分の権威を捨てて、そのような立場に下られたのです。
 さらに、ここには神の子としての権威の喪失だけでなく、その力の喪失をも見ることができます。イエス様は、母の胎の中にいる胎児という、簡単にいのちの危険にさらされるような弱い存在になられました。本来ならば、いのちをつくり、支配する力をもつ御方です。私たちのいのちをいかようにでもすることのできる力をもっている、それが神の子です。しかし、そのお方が、むしろ、自分のいのちを一人の若い女性に預け、死の危険を通られた。神の子としての大きな力を用いることなく、最も弱く、最も小さな存在となられたのです。
 そして、最後にルカが記す神の子イエス様の喪失は、居場所の喪失とも言えます。あの過酷な旅路を越えたマリヤは、いよいよベツレヘムで出産のときを迎えました。しかし、その時、生まれたばかりのイエス様が眠るベッドはなく、そこには飼い葉桶しかなかった。それは、おおよそ生まれたばかりの赤ん坊が眠る場所ではありません。2:7の終わりには、それが「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と記されます。住民登録で町に人が溢れていたせいでしょう。この貧しい家族が、そして、生まれたばかりの乳飲み子が、過ごすことのできる十分な場所はベツレヘムにありませんでした。しかし、それは、決して致し方の無いことだとは言えない、重い事実です。
 本来、この世界すべてが、世界を造られた神様のものであり、その神の子イエス様のものでない場所など、ないはずです。むしろ、神の子イエス様は、この町で、いや、この世界で、最も良い場所が捧げられるべき御方です。しかし、イエス様はその本来の姿に決してふさわしくない場所に身を置かれた。ふさわしい場所がどこにもない、居場所のない者として、地上の歩みをスタートし、その歩みを続けられたのです。

2.私たちのためにお生まれになった
 ルカが記すのは、このように圧倒的弱者としてこの地上の歩みを始められたイエス様の姿です。神の子イエス様は、ただ人になられたのではなく、その中でも最も弱い者となられた。神の子としての権威も、力も、いるべき場所さえ失って、最も低く、最も弱く、最も小さな者となられました。このイエス様の喪失に、今朝しっかりと目を留めたいと思います。そして、この方のゆえに、この御方を通して鳴り響いている、あの「恐れることはありません」、「あなたがたは恐れるな」という神のことばが私たちに届けられているということの意味をよく考えたいのです。
 「恐れることはありません」と語り始めた御使いは、救い主キリストの誕生を語りながら、一つの言葉を繰り返します。2:10-12「恐れることはありません。 今、 私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、 あなたがたのために、 救い主がお生まれになりました。 この方こそ主キリストです。あなたがたは、 布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。 これが、 あなたがたのためのしるしです。」そう、繰り返し繰り返し、「この救い主の誕生は、『あなたがたのため』だ」と強調されている。新改訳聖書では訳されていませんが、元々のギリシャ語のテキストでは10節にも「あなたがたに」という言葉があります。これは、何もこの言葉を受け取った羊飼いたちだけのためにイエス様の誕生があったということではありません。「この民全体のための」とあるように、それはすべての民への福音だった。その上で、「あなたがたのために」と繰り返されるのは、これを聴いた羊飼いたちが、そして、今このみことばの前に立っている私たちが、この小さなみどりごがまさに「私のための救い主なのだ」ということを受けとるためなのです。
 この言葉を最初に受け取った羊飼いたちは、町の外で野宿をしながら羊の番をしなければならない貧しい人々でした。この時は住民登録の時でしたから、すべての人が自分の町に滞在していた。しかし、この人たちは、その時にも、町の外にいた。それは、当時の社会に会って、彼らが正式な国民として数える価値のない人たちと見られていたからです。彼らも、また、好き好んで、そのような立場にいたのではないはずです。できることなら、もっと他の人に認められる職を得たいと思っていたでしょう。しかし、自分の意志でその状況を変える力は彼らにはなかった。それだけの貧しさと虐げが彼らを縛っていた。言うなれば、彼らは、すでに権力も、力も、居場所ももたない、あらゆるものを失った存在だった。
 神様は、そんな彼らに一番最初に「救い主はあなたがたのために生まれたのだ」と語られました。誰もが軽んじ、蔑んでいた彼らにこそ、目を留め、彼らにこそその福音を届けようとされた神様の愛のまなざしが、ここにあります。
 そして、また、御使いは「飼い葉おけに眠っているみどりごこそが、そのしるしだ」とも語りました。イエス様が、もし、王宮で生まれていたら、彼らはイエス様に会うことなどできなかったでしょう。いや、探しに行く気持ちすら起きなかったでしょう。いくら救い主だと宣言されても、それは自分たちとは関係のない存在としか思えなかったはずです。しかし、いま、救い主は飼い葉桶にいるという。飼い葉桶という弱く小さく居場所を見いだせない者たちの身近な場所におられる。それは、彼らにとって、まさにこの御方が、私たちの救い主として、何ももたない自分たちの下にまで来てくださったしるしになったはずです。
 そして、その飼い葉桶は、そこに集約されているイエス様の喪失は、私たちにとってもこの御方が私たちの救い主となってくださったことのしるしです。私たちも、また、上に立つ者たちによって振り回され、惨めな思いにさせられるときがある。そこに理不尽を覚えながらも、どうすることもできない自分の無力さを思い知らされ、それでも、なお生きるためにと働き続けていく。そして、また、そのような困難の中にいるときには、言いようのない孤独に襲われる。誰も、自分の苦しみを本当の意味でわかってくれる人はいない。周囲と自分を比べ、この人たちの中に自分の居場所はないという思いに苛まれていく。しかし、その私たちに、神は「恐れることはありません」と語られます。あなたがたのために救い主は来られた。あなたを襲う惨めさの中に、無力さの中に、孤独の中に、主イエス キリストはすべてを投げうっておりてきてくださった。その惨めさ、無力さ、孤独の中で、しかし、私たちは決して一人で捨ておかれることはありません。イエス様がいつも傍らにいてくださるのです。

 イエス様は、そのような弱く小さい私たちに寄り添うために、御自身もあらゆる喪失を経験して、この世に来られました。しかし、私たちは、この方がそうして私たちに寄り添うためだけにこの地上に来られたわけではないことも知っています。イエス様の喪失の経験は、このクリスマス、降誕の時だけのものではありませんでした。イエス様は、公生涯が始まってからも、「人の子には枕するところもない」と語られました。そして、その通り、人々から迫害され、この世において神の子としてふさわしく敬われ、あがめられる居場所を得ることはありませんでした。そして、やがて、大祭司カヤパ、ユダヤ総督ピラトのもとで不正な裁判にかけられ、十字架についていく。自分たちの利益を求めるこの世の権力の横暴に、ついにそのいのちを渡されるのです。その十字架の死は、私たちが決して経験することのない罪の贖いのための死であり、私たちが経験する喪失を遥かに越えたものです。しかし、イエス様は、その究極的な喪失さえも身に負われました。この十字架からクリスマスの出来事を見つめ直すとき、あの住民登録の勅令の下にいのちがけの旅路を行き、居場所を見いだせずにたどりついた飼い葉おけは、すでにこの究極の喪失である十字架への道のりをイエス様が歩み始められたことを表わしています。
 そして、今朝の箇所が語るのは、そのイエス様の喪失の連続であった生涯全体が、「私たちのための」ものであり、この方が私たちの救い主であることのしるしであるということです。この方は、私たちの苦しみに寄り添うだけではなく、私たちの負うべき苦しみを代わりに負ってくださるためにこの世に来られた。私たちが自分の力では解決できない罪を取り除き、私たちが神の前に恐れではなく、解放の喜び、自由の喜び、愛されている喜びをもって、大胆に出ることができるように、この方は、私たちの下へと来てくださったのです。この飼い葉おけに始まり、十字架に至る地上の生涯を歩まれたキリストを見つめながら、「恐れることはありません」と語られる神様の声をもう一度聴きたいと思います。このイエス様のゆえに、主は「恐れるな」と私たちに語っておられます。「あなたが最も恐れるべきものはイエス様が代わりに担われたから。そのためにこそ、キリストはこの地上に来られた。あの飼い葉おけがそのしるしです。」

3.感謝をささげ、賛美しながら帰る
 御使いのことばを聴き、ベツレヘムで飼い葉桶に眠るイエス様を見た羊飼いたちの姿を、ルカは、最後にこう記します。20節、「羊飼いたちは、 見聞きしたことが、 全部御使いの話のとおりだったので、 神をあがめ、 賛美しながら帰って行った。」彼らは、帰って行きました。あの「恐れるな」という神の語りかけを聴く前と同じ場所へ帰っていった。彼らを虐げ、恐れさせようとするものが、なおも取り囲む日常の中へ。しかし、私たちのために来てくださった救い主に出会った、そのことのゆえに、そこは確かに昨日までと同じ場所ではなくなっています。彼らの口には、神をあがめる賛美がありました。「わたしたちのため」「わたしのため」に来てくださった救い主を知る者の賛美です。日々経験する喪失、そこに伴う様々な恐れの中に、しかし、確かに私の救い主がともにいてくださることを知る者の賛美です。この方が、私たちのために、ご自分を投げうって、私たちには負い切れない重荷を負ってくださったことを知る者の賛美です。彼らは自分たちを取り囲むあらゆる困難や蔑みの中で、恐れではなく、賛美とともに歩む者へと変えられたのです。
 その賛美は、私たちの賛美でもあります。私たちは、クリスマスの終わりを祭りの後の静けさ、むなしさの中で過ごすのではありません。キリストは、私たちのために来てくださいました。私たちの担う重荷をともに担うために、私たちの担い切れない重荷を担ってくださるために。私たちも、恐れではなく、感謝と賛美とともに、それぞれの日常に、また遣わされていきたいと思います。



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