待降節第二主日朝拝説教   2017/12/10
『おことばどおりこの身に』

ルカ福音書1:26-38

 待降節第二主日の朝を迎えました。先主日午後のチャリティーコンサート、昨日の子どもクリスマスと、祝福に溢れた集いが重ねられながら、神の御子イエス・キリストの御降誕が近づいて来る喜びをともに味わいたいと願います。この朝も、お一人一人に主の豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)マリヤが得たもの、失ったもの
 今年のアドベントは、御子イエス・キリストという最高のプレゼントをいただいたクリスマスという出来事の中で、一方で何事かが失われていく「喪失」の経験に心を留めたいと願って、御言葉に聴いています。先週はイエス・キリストの先駆けとなった洗礼者ヨハネの誕生の告知の場面で、言葉を取り去られるという経験をしたヨハネの父ザカリヤの姿を見ました。
 今朝、私たちはイエス・キリストの母となったマリヤの受胎告知の場面に目を向けたいと思っています。マリヤが得たもの、そして失ったものとは何でしょうか。マリヤが得たもの、それは聖霊によって神の御子を身ごもり、その母となるという比類なき経験です。しかしそれとともに失ったものもある。それは彼女自身が思い描いていた人生、彼女なりの夢や彼女なりの未来と言ってもよいかもしれません。クリスマスの出来事におけるマリヤという存在に目を留める時、そこで彼女の姿を最も強く印象づける言葉があります。今日の38節です。「あなたのおことばどおりこの身になりますように」。マリヤの生涯を貫いているのは、この「受け身」の姿勢です。神の御心を受け入れる人。神の御業を受け入れる人。神の御心がこの身になるようにと祈る人、それがマリヤでした。神の御心を受け入れるということは、自分の人生、自分の将来、自分の計画を神の前に明け渡すことを意味しています。そうしてマリヤは自分の人生設計を手放し、失うようにして、神の御心に従う人生を歩んでいったのでした。
 まず26、27節を見ましょう。「ところで、その六か月目に,御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった」。この大変短い説明の中に、しかしやがて生まれ出る救い主の誕生がどれほど驚くべき出来事であるかを示す事柄がすでに明らかにされています。救い主イエス・キリストの誕生を告げる御使いガブリエルは、ガリラヤのナザレという片田舎の片隅につつましく生きる、まだあどけなさの残る一人の若き処女マリヤに現れたのです。ガリラヤという救い主誕生の舞台としては全く似つかわしくない貧しい村を舞台に、取り立てて特別な存在ではない一人のおとめを通して、全く新しい救いの歴史が始まろうとしている。ここに主なる神の大いなる逆説、驚くべき恵みの逆説があるのと言えるのです。御使いはマリヤに向かって告げます。28節。「御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます』」。御使いから「おめでとう」との言葉を掛けられても、マリヤにとってその言葉は戸惑いを生むものでしかなかったでしょう。29節。「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」。

(2)主のはしため
 このような突然の出来事に触れて、マリヤの驚きや戸惑いはどれほどのものだったでしょうか。しかし御使いは続けます。30節、31節。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」。
 ここで「おめでとう」と訳される言葉は、「喜べ」という命令形の言葉です。喜べ、主があなたとともにいる。恐れるな。主があなたとともにいる、そのような名を持つ救い主があなたから産まれるのだから、と言うのです。しかしそれでマリヤの驚きが減らされるものではありません。それこそ彼女の人生に突然のように舞い降りてきた、いやむしろ強引に入り込んできた出来事です。にもかかわらず、御使いはなかば一方的に「おめでとう、恵まれた方」、「あなたは神から恵みを受けたのです」と語って、これが神の恵みの出来事だと告げるのでした。
 しかしこれらはマリヤにとって驚きをもたらすものでしかありませんでした。何と言ってもその驚きは、未婚の処女が子を産むという言葉に対するものです。34節。「そこでマリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに』」。このマリヤの言葉には、彼女の心の中に吹き出してくるあらゆる恐れや不安、疑問などが詰まっていたでしょう。許嫁の身であるマリヤが子を身に宿すことは、当時の社会では姦淫の罪、すなわち石で打たれるべき死に値する罪であり、夫となるべき愛するヨセフを裏切る行為でありました。ましてさらなる驚きはそうやって身に宿した幼子が、神の救い主、いと高き方の子、聖なる者、神の子であられるというのです。彼女の心に中に沸き上がってくる言葉に言い表しきれない様々な感情が、しかしやがて一つの言葉に収束されていくようになる。そのために決定的な役割を果たしたのが次の言葉です。36節、37節。「ご覧なさい。あなたの親類エリサベツも、あの年になっていて男の子を宿しています。不妊の女と言われていた人なのに、今はもう六ヶ月です。神にとって不可能なことは一つもありません」。
 「神にとって不可能なことは一つもありません」。この言葉を御使いから聞いた時、マリヤの中に一つの決断が起こります。そしてその一つの決断によって、様々な恐れ、不安、疑問あるいは怒りすらもわき上がってきたであろう彼女の心は凪いで、そこから一つの忘れがたい信仰の言葉、そこに自らの人生を丸ごと委ねた言葉が発せられたのです。38節。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。

(3)おことばどおりこの身に
 私たちはこの朝、このマリヤの言葉をしっかりと聞き届けたいと思うのです。ここには神の計り知れない御旨をこの身に引き受けて、その通りに生き抜いていく生き方、生かされている日々を生かされている日々として、一日一日と生き抜いていく生き方があるのです。
 自分の予想だにしない大いなる神の救いのご計画の中に巻き込まれ、自分の理解を遙かに超えた神の御心の中に投げ込まれて、しかし彼女はその人生を引き受けたのであり、ここに私たちはマリヤの信仰を見るのです。福音書はこのマリヤの人生を神から恵みを受けた人の人生として描きます。けれどもその人生とは、むしろ苦しみを引き受けて生きる道でした。愛する息子を手放して生きなければならない生き方、その息子の地上の最後をしっかりと見届けなければならない生き方、しかしそこに神の救いの成就を見つめなければならない生き方でありました。自分の身に起こる全てのことが上から来ることを認めて、それを引き受ける人、そこに生かされてある信仰の人生があるのです。マリヤもヨセフもクリスマスに登場してくる人々は皆、本当に小さな、普通の人々です。けれどもそのような人々の信仰の決断が神の大いなる御業の舞台となっていった。決して彼らが望んだからではない。彼らにそのような役目を担うべく選ばれる何かがあったわけではない。けれどもそこに神の自由で主権的な御業が始まっていくのです。
 マリヤは主のはしための一人として、主なる神から与えられた人生をそのまま丸ごと引き受けた人です。このような人生、神の下さった賜物としての人生を丸ごと受け入れていく人生。喜びもある。楽しみもある。それとともに、悲しみもある。苦難もある。けれどもそれが主から与えられた人生であるという、ただその一点ゆえに、「ほんとうに、私ははしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いうる人生は、この主の招きに答えて生きる人生なのです。
詩篇119篇で詩人がこう祈っています。「主よ。みことばのとおりに私を生かしてください」。マリヤの信仰はまさにこの詩人の信仰に連なるものでありました。ひるがえって私たち自身の信仰はどうでしょうか。「みことばのとおりに私を生かしてください」、「おことばどおりにこの身になりますように」、そのように主の御前に言うことのできる信仰があるでしょうか。むしろ私の願い、私の都合、私の計画、私の人生設計、私の自己実現のために神を用いたり、動かしたりしようという心はないでしょうか。クリスマス、それは神の愛のみこころが実現する時です。そしてそのために神の御子イエス・キリストが私たちのもとに貧しく小さな者となってきてくださいました。主イエスは神の子としての特権をかなぐり捨てて、神の御心に従って、私たちのもとに来てくださったのです。そしてこの御子の誕生に際して神が用いられたのも、同じく貧しく小さい存在でありながら、しかも主の御心の前に自分の願いを従わせ、おことばどおりにこの身に、と自らの人生を差し出した女性であったことを思うとき、私たちはあらためて神を信じる信仰ということの基本的な構えを再点検させていただきたいと思うのです。
 私たちも、人生の思いがけない苦難に出会い、涙の谷を過ぎることもあるかもしれない。でもそれでこの人生をあきらめてしまうことなく、投げ出してしまうことなく、マリヤの信仰の言葉を私たち一人一人の信仰の言葉として口ずさみながら、この日々を神に委ねて歩んでまいりたいと願うのです。

(4)神の恵みを思い巡らしつつ
 最後に、マリヤの信仰の姿をよく示すもう一つの御言葉を見ておきましょう。2章19節。「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」。ここには驚きや戸惑い、恐れを突き抜けて、さらにそこに込められた主の御心に聴き、それを深く把握することへと進む思いが表れています。「心に納める」、「思い巡らす」と訳された二つの言葉は、それぞれ「一緒に、共に」という言葉が頭についた「共に保つ」「共に投げ入れる」という意味から生まれた言葉です。二つの、あるいはそれ以上の様々な思い、それらは時に相反するような、バラバラに見えるような思いかも知れません。けれどもそれらを心の内でぎゅうっと一つにまとめ上げていく、そういう営みを意味する言い方です。マリヤは天使の告げ知らせから始まってこれまで自分の身に起こった「すべての出来事」を心の中に投げ入れました。そしてそれを心の中に忍耐強く保ち続けたのです。ここでさらに大切なのはマリヤにとってのこの心の動きは、信仰の決断や服従と連動しているということです。マリヤが心に納め、思い巡らすのは決断するためではありません。どうしようか、従おうか従うまいか、ということを逡巡する悩みの時ではありません。彼女の態度はすでにあの1章38節で決まっています。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。つまり決断のための思い巡らしではなく、決断のゆえの思い巡らしなのです。
 私たちはしばしば日々の生活の中で起こってくる出来事に振り回され、その中で心騒ぐものです。相反する言葉や思いの中にどうして良いか分からずに慌てふためき、その答えをじっと待つことの難しさをおぼえるものです。けれどもそこで私たちは主なる神が御子イエス・キリストを通して私たちにどれほどの愛を注いでいてくださるかを覚え、その主の愛によって愛されている者として、このお方に従う決断のもとにすべてを心の中に投げ入れて、そこから本当に熟成された信仰の歩みを取り出していく。そのような信仰の働く時間や空間を確保したいと願うものです。



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