待降節第一主日朝拝説教  2017/12/03
『その時が来れば』

ルカ福音書1:1-23

 いよいよ今日から、今年の待降節、アドベントに入ります。正義が曲げられ、公正が歪められていく時代の中にあって、「さばきと正義」によってご自身の国を建て、これを治められるまことの王なるイエス・キリストが来られる。この希望の訪れを受け取る私たちでありたいと願います。

(1)私たちはどのようにしてクリスマスを待ち望むのか
 待降節を迎えるにあたって、心に思い巡らしている御言葉があります。旧約聖書の詩篇62篇1節の御言葉です。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」。待降節、アドベント。それは神の救いを待ち望む時です。「私の救いは神から来る」。まさにこの御言葉の実現として、神の御子イエス・キリストが私たちのもとに来てくださった。この驚くべき喜びの出来事であるクリスマスに向かって進み出すにあたって、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」との御言葉が強く心に迫ってくるのです。
 今日の週報の牧師室だよりにも記したように、旧約聖書には「待ち望む」、「待ち望め」という言葉が数多く現れます。待望すること。それは長い苦難の歴史を生きた神の民にとって極めて切実な願いでした。神を待つ以外に救いがない、神を待つ他に望みがない。そのようなギリギリのところで彼らは神に望みを置いたのです。「黙って」というのは、自分で少し静かにしようと口を閉ざしたと言うのではないでしょう。むしろ、何か語ろうにも語るべき言葉がない。何も声になって出てこない。言葉を奪われたような状態、言葉の喪失のような状態を現しているように思えます。助けの声を挙げようにも声が出ない。嘆きの声を挙げようにも声が出ない。自分の置かれている状況を誰かに伝えたくても、そのような言葉が失われる。そんな境遇に追い込まれて私たちができることがあるとすれば、それは絶望するか、それとも希望するかの二つに一つです。そして詩人はその後者を選んだ。もうだめだと絶望してしまっても、誰もその善し悪しを言うことのできないような状況において、しかし彼は希望することを選ぶ。何も言葉が出てこなくても、それでも黙って希望することを選ぶ。それが可能となるのは、彼によって待ち望まれるお方が真実なるお方、待ち望まれるに値する確かなお方であるという、ただその一点にかかっています。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」。これはこのようなある極限的なところから発せられた、それだけに真実で、ある種の力強さを帯びた言葉です。
 この待降節の始まりの朝に、私たちはこの年、どのようにしてクリスマスを待ち望むのかということを考えたいと思います。クリスマスは御子の御降誕の喜びを多くの人々に告げ知らせる季節です。教会も今日の午後のコンサートを皮切りに、次々にクリスマスの集いが行われ、一人でも多くの方々をお迎えしようと、招きの声を挙げていきます。しかし、その一方で、私たちの生きる現実の中には、この詩人のように、ただただ黙って神の救いを待つほかない。この方に望みを置く意外には絶望しかない、そういう状況があるのも確かです。そういう状況と関わりなくクリスマスはあるのではない。まさにそのような状況のただ中にお出でくださるのが、まことの救い主イエス・キリストなのだということを覚えたいのです。
 
(2)洗礼者ヨハネ誕生の告知
 この朝、開かれているルカ福音書1章は、主イエスの降誕の物語に先立って、洗礼者ヨハネの誕生のいきさつが記されるところです。5節。「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった」。ヘロデは当時のローマ帝国に擦り寄り、皇帝にひざまずく見返りにパレスティナ領地を与えられて絶大な権力を誇った人物です。人一倍の権力欲と猜疑心に捕らわれた独裁者でもあり、自らの地位を守り抜くためには側近はもちろん、自分の身内の命さえも奪っていったのです。そんなヘロデの治世のユダヤは、ローマの絶対的な支配、内からはヘロデによる独裁という時代の空気が人々の心を押さえつけ、神の民としてのあり方は消え入るばかりの暗黒の時代でありました。
 しかしそのような時代にあってなお神に忠実に従い続ける人々に光が照らされます。年老いた祭司ザカリヤとその妻エリサベツです。6節に「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた」とあるように、彼らは神を畏れ従う忠実な人々でした。しかし7節。「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた」とあります。そんな彼らに御使いが現れて、驚くべき知らせを告げるのです。11節から17節。「ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです』」。
 このように御使いはザカリヤに、やがて男の子が産まれるとの言葉をもたらしたのでした。この言葉の中には、やがて洗礼者ヨハネがどのような人物となるかが先取りして語られています。今日は細かなことには触れず、結論だけを申し上げますが、要するに洗礼者ヨハネは、旧約預言者マラキに続く最後の預言者としてこの地に遣わされ、人々の心を主に立ち返らせるための備えをするのだというのです。まさに後に月日が経って主イエスが公生涯に立たれる直前に、「荒野で叫ぶ者の声」として登場し、救い主イエス・キリストのための道備えをした、あの姿がここで先取りされていると言えるのです。

(3)言葉を取り去られるザカリヤ
 ここで、今朝私たちが特に心に留めたいのが、続く18節から20節です。「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します」。
 ここでザカリヤが言葉を取り去られるという出来事が起こります。ヨハネ福音書1章が「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と記したクリスマスの出来事、すなわち、まことのいのちのことばである神の御子イエス・キリストの誕生に先立って、その御子イエス・キリストの道備えをするために来る洗礼者ヨハネの誕生において、父親ザカリヤが言葉を取り去られるという経験をさせられる。まさに「黙って神を待ち望む」という、あの冒頭に紹介した詩篇の詩人のような状況が、ここに起こっていることを知らされるのです。
 神殿の外では多くの人々がザカリヤの姿を現すのを待っていました。通常なら神殿から出てきた祭司は、人々に対して祝福を与えることになっていたからです。しかしようやく姿を現したザカリヤが集まった民にもたらしたのは祝福の言葉ではなく、沈黙でした。21節から23節。「人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまりに暇取るので不思議に思った。やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った」。こうしてザカリヤから言葉が取り去られ、沈黙を強いられる出来事。ここには単にザカリヤ個人の特殊な経験ということ以上に、神の救いの御計画の大きな印としての意図が込められていることが分かります。
 ここでもう一度、彼らイスラエルの民がこの時に置かれていた時代の状況を考えたいと思います。旧約聖書はマラキ書という預言書で終わるのですが、その後、新約聖書すなわち御子イエス・キリストの誕生までの間には、実に400年近い年月が流れています。この時代のことをキリスト教会では、旧約と新約の間の時代ということで「中間時代」と呼んだりするのですが、今日ではむしろこの時代はユダヤにおける第ニ神殿期という極めて重要な時代であったと認識されるようになっています。この間に新約時代のユダヤ社会の様々な形が作られていったのです。そのような重要な時代であるのですが、しかしそこでの一つの大きな意味は、この400年は神の沈黙の時代であったということです。預言者マラキに神さまが語られたのを最後に、パッタリと神の言葉が聞かれなくなる。それは神の民にとっての危機の時であり、試練の時であり、それだけにまた信仰が問われる時でもありました。つまり、それでもなお「黙って神を待ち望む」か、それとも絶望してしまうかが問われる経験をさせられたのです。

(4)その時が来れば
 しかし、ついにその沈黙の破られる時が来る。20節。「ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します」。この神の沈黙は、何時までも続くものではない。やがてその沈黙が破られる時が来る。取り去られた言葉が再び取り戻される時が来る。まさにその時が来ようとしている。その前触れとして、その道備えとして、洗礼者ヨハネが誕生しようとしている。これがザカリヤの沈黙に託された大事な神さまの御心でした。
 ではこの沈黙が破られるのはいつか。それは洗礼者ヨハネ誕生の時です。64節。「すると、たちどころに、彼に口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた」。そして67節。「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った」とあるとおりです。しかしルカが本当に描こうとする意図に従えば、真の沈黙の終わり、つまりザカリヤの沈黙でなく、神様の沈黙の破られる時は、ほかならぬ救い主イエス・キリストの誕生においてであります。「その時が来れば」と約束された救い主の時代が、いまや訪れようとしている。そこにおいて神は沈黙を破り、再び救いの訪れ、喜びの訪れを御子イエス・キリストにおいて語り出してくださるのです。
 主イエス・キリストにある神さまの語りかけが、十字架の主イエス・キリストにおいてこれ以上ない仕方で現された父ある神さまの愛の語りかけがあってはじめて、言葉を失い、希望を失い、ただただ沈黙するばかりの私たちの沈黙が破られ、新しい言葉が授けられ、その言葉によって生きる新しいいのちがもたらされるのです。生かされている日々においてしばしば救いを望み得ない時、愛を信じられない時、まさにザカリヤ自身と彼が生きた時代のような暗闇の時に置かれるものです。けれども神さまは上からの語りかけをもってそのような私たちの心に新しい光を照らしてくださるお方です。失われた言葉を取り戻してくださるお方です。沈黙する私たちの口を開き、救いの喜びをほめ歌い、希望の福音を告げ知らせる言葉を授けてくださるのです。
 今日から始まる待降節の日々、私たちはひたすら黙して、主イエス・キリストにあらわされた神の恵みに集中し、そこか口を開いて神の救いを歌い、主イエス・キリストの訪れを喜び歌い、その知らせを大いに告げ知らせる。そのような歩みをはじめて参りましょう。



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