降誕節記念主日合同朝拝   2016/12/25
『神の子どもとされる特権』 

ヨハネ福音書1:9-14

 2016年のクリスマスを迎えました。神の御子イエス・キリストの御降誕を喜び、主にあってご挨拶を申し上げます。クリスマスおめでとうございます。また今日で今年の主日礼拝の締め括りとなります。今年も52回の主日が一度も欠けることなく守られ、礼拝を捧げ続けてくることができました。主の真実とあわれみが尽きることがないと実感しています。この朝、幸いな礼拝に招かれた皆さんお一人一人に主の豊かな祝福がありますように祈ります。
 
(1)受け入れられ、愛される幸い
 このクリスマス礼拝で、3名の兄姉方が洗礼を受け、神の家族に迎えられようとしています。教会にとって何よりのクリスマス・プレゼントです。特に小学生が二人というのも格別の喜びです。神さまが子どもたちを通して、教会を励まし、祝福してくださっていることを覚えることができるのは、本当に感謝なことです。今年の恵みを数える時、その一つに10月からスタートした「まるっこ」の働きを挙げることができるでしょう。始まって2ヶ月ですが、近隣の地域から毎週20名近い子どもたちが集ってくれています。子どもたちを取り巻く家庭や学校にもいろいろな課題があり、子どもたちも小さい心の中に様々な痛みや重荷を背負っています。そういう中で、子どもたちが教会に来てくれている。主イエスが愛する子どもたちを招いていてくださる。それはとても大きな祝福であり、そのような子どもたちにとってイエス様が彼ら一人ひとりを愛して受け入れていてくださると実感できる場所でありたいと切に願わされるのです。
 自分が受け入れられていると思えること、ここに自分がいてよいと安心できること、自分がいることが喜ばれていると実感できること、しかもそれが無条件で、無償で与えられること、そういう経験は子どもたちだけでなく、実は私たち皆が必要としているものでしょう。誰も不必要とされない、誰も疎外されない、誰も優劣で扱われない、誰もが尊ばれ、喜ばれ、受け入れられる経験、それこそが私たち誰もが必要としている「愛されている」という経験なのだと思うのです。聖書が語る愛なんて所詮きれいごとの偽善に過ぎない、そんな言葉が聞こえてきます。今の時代、そんな愛を求めても失望して傷つくだけ、むしろ過酷な現実を認めなさい、そんな言葉も耳をかすめます。今の時代、私たちが愛を求めることはもはや難しいことなのでしょうか。所詮愛など幻想に過ぎないのでしょうか。そこではまた神は愛ですと語り続ける私たちも時代からのチャレンジ、この世からのチャレンジを受けているように思うのです。しかし神は愛を語ってやみません。聖書には愛のことばが溢れるほど詰まっています。神は私たちに向かって愛を語りかけて飽くことのないお方です。何度でも何度でも「わたしを愛するよ」と語ってくださり、「わたしのもとによく来てくれた」、「あなたはここにいてよいのだ」と語りかけ続けていてくださるのです。

(2)「ことば、いのち、光」なるお方を拒む者
 クリスマスの朝に私たちが確認したいのは、「ことばが人となって私たちの間に住まわれた」という、この「ことば」こそ神の御子イエス・キリスト御自身であり、神の愛の語りかけが具体的にかたちをとって現れたという事実です。しかも4節、5節ではこのお方が「いのち」であり、「光」であると言われ、今日の9節でこう言われるのです。「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた」。闇の世にあってしかし今この時も輝き続け、罪のやみの中に生き迷っている私たちを照らす光なるお方がおられる。こうして私たちをやみの中から光の中へと救い出すために来られたお方が「ことば、いのち、光」なる救い主、神の子イエス・キリストであられます。
 ところがそのように準備万端整え、満を持して来られた私たちのところに来てくださった神の御子イエス・キリストに対して、この世が取った態度はどのようなものだったのでしょうか。10節、11節。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」。この世が取った態度、それは一言で言えば「拒絶」ということでした。私たちを無条件の愛で、無償の愛で愛してくださる神の愛の語りかけのことばなるお方、私たちを罪のやみの中から救い出すために、私たちを照らし出してくださるまことの光なるお方、私たちに永遠のいのちを与えるために御自身のいのちさえ差し出そうとされるお方、そうして私たちを御自身のもとに受け入れてくださる神の愛を、私たちは受け入れず、拒んだ。これが人間の罪なのです。
 罪とは言い換えれば神の愛に対する恩知らずと言えるでしょう。愛されたのにその愛をいとも簡単に忘れること、愛されて当然と居直ること、愛してくれと頼んだわけではないとうそぶくこと、愛されているのにその愛を認めず、私は愛されていないと絶えず愛に満足できないこと。私たち自らの心の内をのぞき込むとき、そのような心があるのではないでしょうか。10節、11節をそのような心であらためて読み返すときに、いかに私たちが主に対して恩知らずな罪深い者であるかを知らされて心締め付けられるような思いになるのです。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らないと言う。すべて主の愛の御手の配慮と助けと支えのもとにあるにも関わらず、全部自分でやって来ました、誰の助けも受けていません。そんな方は知りもしませんという恩知らずな私たちの罪。ご自分に属する者たちの所に来られたのに、誰一人この方を出迎えもせず、受け入れもせず、むしろこの方を拒絶する私たちの罪。神を信じないことがどれほど私たちにとっての根本的な罪であるかを思い知らされるのです。
 
(3)神の子どもとされる特権
 ところがそのような私たちの罪の現実にも関わらず、それを覆すような確かな言葉を福音書は語っています。それは私たちにとっての希望と慰めに満ちた確かな約束の御言葉です。12節。「しかし、この方を受け入れた人、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。「この方」とは「ことばなるお方」すなわち神の御子イエス・キリストを指しているのですが、主イエスを受け入れるとは、主イエスの御名を信じることであるというのです。この「御名を信じる」ということはヨハネ福音書が大切にする言葉です。2章23節ではこう記されます。「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた」。また3章18節。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」。さらに17章26節。「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」。名を信じるとは、その名が指し示す現実を信じることです。ですからイエス・キリストの御名を信じるとは、イエスがキリストであられる、イエスこそが私たちの救い主であられると信じることなのです。
 このようにして神の御子イエス・キリストを受け入れ、その名を信じた人々には「神の子どもとされる特権」が与えられると御言葉は語ります。「特権」という言葉は本来は「権威」を意味する言葉で、ここから「主権、資格、権能」などとも訳される言葉です。他の日本語訳聖書を見ますと、多くはこのところを「神の子どもとされる資格」と訳していました。しかし私はこの新改訳の「特権」は相応しい言葉だと思います。「資格」というとそれに見合った何かをして得たもののようになりますが、「特権」とは本来それを手にすることのできないようなことが特別の権威によって与えられたという意味になります。事実、続く13節に「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」とあるように、神の子どもたちとは、人間が生まれもっての性質によってなることのできるような資格、身分ではなく、「ただ、神によって生まれた」という恵みの身分であることが意味されているのです。
 そのように考えてみますと、神の御子イエス・キリストを受け入れた者が神の子どもとされるということは、私たち人間の側が自分の生まれもっての性質や後からの努力によって御子イエス・キリストを受け入れたことの見返り、対価として与えられた資格というものでは全くなく、むしろ神を知らず、受け入れもしなかった恩知らずな私たちを、神御自身が受け入れてくださり、御子イエス・キリストの十字架によって救いを与えてくださり、御名を信じる者としてくださり、永遠のいのちに与る者としてくださった、その救いの恵みのいわば集大成として神の子どもという特権が与えられるというべきでしょう。これは何と驚くべき神の愛のあらわれであり、特別な身分、特別な立場でしょうか。神の子どもとされた喜びを私たちはもっともっと味わい、喜び、感謝してよいのだと思います。
 神を受け入れる者に与えられる恵み、それは実は私たちがまだ罪人であった時に、神によって受け入れられ、神の子どもとされる幸いに尽きるのです。そして神の子どもとされたなら、もはや奴隷のように主人の顔色をうかがいながら、いつ捨てられるか、いつ不必要とされるかと恐れの中を生きる必要がない。むしろ子どもの特権は親の愛を信じて疑わず、安心して生きられることです。今、神の子どもであることを喜んで生きることができる。自分が受け入れられ、尊ばれ、喜ばれ、存在として必要とされている、その愛を疑わずに生きられる、それが神の子どもたちに与えられた幸いなのです。
 Iヨハネ3章1節でヨハネはこうも言っています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、−事実、いま私たちは神の子どもです。−御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」。このお方の愛に私たちはもっと信頼してよい。遠慮せず、恐れずに愛を受け取っていってよい。愛されていることに安心してよいのです。神を知らず、イエス・キリストを信じ受け入れることのなかった私たちが今、神を受け入れる者とされたのは、神がイエス・キリストの十字架の愛によって私たちを受け入れてくださったからに他なりません。そしてその愛をもって神は今も私たちを、皆さんを愛すると言ってくださり、その愛のもとに招いていてくださるのです。ぜひこの愛を受け入れて、神の子どもとして生きる祝福にあずかっていただきたいと切に願います。



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