降誕節記念主日夕拝説教  2014/12/21
『今こそ、去らせてくださる』

ルカ2:25-33
 
 2014年の降誕節の一日の終わりに、ルカ福音書2章に記されたシメオンの賛歌、「今こそ去らせて下さる」(ヌンク・ディミッティス)と歌われる、その賛歌の言葉から教えられてまいりたいと願います。

(1)待ち望む人シメオン
 ここに、この幼子の秘めた新しさを見て取った一人の信仰者が登場します。25節、26節。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」。幼子と老人という組み合わせだけでも何かしら私たちの心を打つ場面ですが、特にこのシメオンと続いて登場する預言者アンナの物語は、福音書の中でも感動的な場面の一つと言えるでしょう。
 シメオンについての「正しい、敬虔な人」との紹介は、ルカ福音書冒頭のザカリヤ、エリサベツ夫妻の紹介と重なり合うもので、律法に対する正しさを意味しています。そして何よりも彼は「イスラエルの慰められることを待ち望み」「聖霊が彼の上に留まり」「主のキリストを見るまでは決して死なないと聖霊のお告げを受けて」いました。ここには神の約束を待ち望んで生きる人が聖霊に導かれて生きる人として描かれています。聖書において「待ち望む」とは単なる受け身の姿勢ではありません。この言葉は元来「〜に向かって」と「迎える」「受け取る」という言葉が繋がってできた言葉です。ただこちらにじっとたたずんでいるというのではなく、約束の方へと身を乗り出すようにしてそれを迎え入れるのです。いやむしろ約束がその成就へとその人を引っ張っている姿。それがここでの「待ち望む」という姿です。そしてこの待ち望むことこそがシメオンの生涯を貫いていたものだったのです。シメオンが生きた時代、それはユダヤの激動の時代でした。他国の侵略があり、それへの抵抗があり、そしてローマの支配下に置かれ、数々の苦難を味わってきた年月でした。けれども彼はその苦難の日々、激動の日々を生きた、いや生かされたのです。「主のキリストを見るまでは決して死なない」という言葉は、言い換えればその時までは死ねないということです。時にはもうこれでいいと投げ出したくなる時もあったであろう人生でしたが、しかし彼は生きなければならない。シメオンにとって救い主を待ち望むことは彼の使命であり、彼の人生そのものだったのであります。
 そしてついに今やその時が到来しました。「彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った」(v.27-28)。このように幼子イエスはその到来を待ち望みつつ生きたシメオンの腕の中にすっぽりと抱かれて下さった。救い主メシヤ、主イエス・キリストの到来がシメオンの腕の中に抱きかかえられるようにして今まさに起こったのです。ここにはクリスマスの出来事を越えて、聖霊なる神様によって今私たちのうちにキリストが訪れて下さることが示されていると言えます。この朝、主を待ち望む私たちのもとにも、聖霊によって主イエス・キリストが私のうちに来て下さるのであります。

(2)神の救いを見る
 幼子イエスを懐に抱いたシメオンは天を仰いで歌います。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」(v.29-30)。このシメオンの賛歌は、自らの使命を果たし人生を生き切った人の充実した満足感に溢れています。待ち望む日々は去り、ついに成就の時が到来しました。シメオンは、「私の目は御救いを見た」と語ります。「見た」とは決定的な時の到来を確信する言葉です。年老いた目で、かすみつつある目で、この地上の罪と悲惨の現実を見尽くしてきた目で、表面的なことに目を奪われることのない透徹した目で、この「私の目で」、彼は御救いを「見た」のです。その目に映るのは生まれてほんの一ヶ月を過ぎたばかりの乳飲み子です。けれどもここにシメオンの待ち望んでいた「イスラエルの慰められること」の成就があるのです。
 「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」(v.31-32)とはイザヤ書の預言を背景にした言葉です。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしのすくいをもたらすものとする」(イザヤ49:6)。「エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え、主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果て果てもみな、私たちの神に救いを見る」(イザヤ52:9-10)といった御言葉を思い起こすことができるでしょう。暗闇の時代に救いの光が輝き、慰めの光をもって全地を照らすという預言者イザヤの語った希望と慰めが、救い主イエス・キリストの到来によって今まさに成就したというのです。
 私たちが生きるこの時代もまた激動の時代、暗闇の時代と言わなければなりません。そして本当に人々は慰めを必要としています。気休めの言葉ではない、その場しのぎの言葉ではない、生きることそのものを支えることのできる本当の慰め、明日を待ち望み、明後日を待ち望み、そのようにして終わりの日を待ち望むことへと私たちを押し出すことのできる本当の励ましを必要としているのです。この時代を慰め、励ますことができるのは「救い主イエス・キリスト」ただお一人です。シメオンが幼子イエス・キリストに救いを見たように、今日、私たちは十字架の主イエス・キリストのお姿に救いを見るものでありたい、この目でしっかりと見つめる者でありたいと願います。



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