降誕節記念主日朝拝説教    2014/12/21
『神に愛される人 私たちのクリスマス』

Iヨハネ4:7-10
 
 2014年の降誕節、クリスマス礼拝を迎えました。神のひとり子、私たちの救い主イエス・キリストの御降誕を喜び、主にあって心からのご挨拶を申し上げます。クリスマスおめでとうございます。
 今年も一年52回の主日の一回一回が守られて、来週を残すまでとなりました。まだ一年を振り返る暇もないほどに、それぞれが多忙な日々を過ごしておられることと思いますが、この朝、私たちのために人となってこの地上にお出でくださった神の御子イエス・キリストの御前に心静めて、主の為してくださった善きことを一つ一つ思い起こし、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われる、主からいただいた恵みに感謝して、御前に進み出てまいりましょう。愛する皆さんの上に、主の豊かな祝福がありますように。

(1)神の愛のあらわれ
 今年のアドベントからクリスマスにかけては、「神の恵みを受ける人」、「神の御心に従う人」、「神の喜びを受ける人」ということで、主イエスの母マリヤ、主イエスの父ヨセフ、主イエス誕生の知らせを最初に受けた羊飼いたちの姿に目を留めて来ました。そしてこの朝は、「神に愛される人」ということで、私たちにとっての御子イエス・キリストの御降誕の意味を受け取っていきたいと願っています。これまで繰り返し確かめてきたように、マリヤの中にも、ヨセフの中にも、そして羊飼いたちの中にも、私たちは自分自身の姿を見つめることとなりました。
 「おめでとう恵まれた方」と突然の御使いの訪問を受けたマリヤ。彼女は自分の人生の中に飛び込んで来た神の介入に対し、「おことば通りこの身になりますように」と受け入れていきました。それをもって聖書はマリヤを「恵まれた人」とする。自分の思い通りの人生を生きるということが恵まれたということでなく、神が私たちの人生の中に入り込んで来てくださることこそが恵み、驚くばかりの恵みだと語り、まさにそのような恵みの出来事が皆さんのうちにもたらされる、キリストが皆さんのもとに来てくださることが本当のクリスマスなのだと言うのです。
 また「あなたの妻は救い主を産む」と聖霊によって知らされたヨセフ。彼もまた思いもかけない唐突な知らせに恐れ惑いながらも、しかしただ黙ってあらわれた神の御心に従って行きます。神の救いの御心が実現することを信じ、「わたしはあなたとともにいる」という約束、インマヌエルの約束を握りしめて、ひたすら神の御心に従って行きました。それをもって聖書は、私たちが神の御心に従って生きる先に、神の御心の実現があることを指し示してくれています。
 さらに「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」と天の使いを通して、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」との知らせを受けた羊飼いたち。人々から蔑まれ、社会の隅に追いやられていた彼らに、この喜びの知らせは一番に、「あなたがたのために」と伝えられました。それは、福音から最も離れたところにいると思っている私たち、光から最も遠いところにいると思っている私たちにこそ、クリスマスの喜びの知らせは届けられているのだということの確かなしるしです。つまり聖書はこれらクリスマスの出来事を総動員しながら、御子イエス・キリストにおいてあらわされた神の愛は、ほかならぬ皆さんおひとりひとりに今日、注がれている。皆さんこそ神に愛される人であり、神の恵みを受け取り、神の御心に素直に従い、神の喜びを自分自身のものとして受け取る人こそが、まことのクリスマスを迎える人なのです。

(2)神の愛、イエス・キリスト
 クリスマスは人々が愛の心を持つ季節、互いに愛を表す時と言われます。確かに家族の間で、友人同士で、恋人同士で、不断なかなか面と向かって言えない感謝や愛の心を表し合う時とされます。しかしクリスマスが表す「愛」とはいったいどのようなものなのか。その消息をキチンと押さえることが必要です。それによっては私たちの持っている「愛」という言葉のイメージ、理解、その用い方が変わってくるかもしれない。いやむしろ今までの「愛」ということの意味が覆されて、本当の「愛」が見えてくる。それによってクリスマスの意味も変わり、また私たちの生き方そのものにまで変化をもたらすことになる。それほどに「愛」とは大いなるものです。
 そこでこの朝与えられているヨハネの手紙一4章7節から10節の御言葉に聴きましょう。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」。ヨハネはすでに福音書において神の愛についてもっともハッキリとしたことを書き記しました。ヨハネ福音書3章16節の御言葉です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。
 今日のヨハネの手紙一4章はこの福音書の御言葉と共鳴し合う大事な御言葉です。中でもこの朝特に大切に読みたいのが9節です。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです」。まさにこれはクリスマスのことを指しています。神の御子イエス・キリストが人となって私たちのもとに来てくださった。これを聖書は「神の愛が私たちに示された」というのです。さらに10節ではこう言われます。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」。あのクリスマスにみどりごの姿でお生まれくださった御子イエス・キリストは、私たちの罪のためのなだめの供え物だというのです。犠牲となるために生まれたお方、それがイエス・キリストであり、この方こそが愛だ、ここに愛があるのだ、と聖書は私たちに迫ってくるのです。
(3)神の愛を受けた者として
 私は今年で洗礼を受けてちょうど30年になります。1984年12月23日、高校一年生で洗礼を受け、キリスト者になりました。後で知ったことですがちょうど同じその日に、家内も中学二年生で洗礼を受けました。もちろんその頃は全くお互いに知らないことですが。それから献身して神学校に進み、伝道者として歩んで来て、岡山、神戸を経て2000年にこの教会に赴任し、それから15年になります。自分のキリスト者としての歩みの半分をこの教会で過ごしてきたことになる。あらためてそのことに気づき、感謝しつつ驚いています。あらためてこの30年を振り返ると、まさにこの神様の愛によって生かされてきたのだ、ということを実感しますし、その神さまの愛が両親を通し、家族を通し、そして何よりも教会というキリストの身体を通して自分自身に注がれてきたことを実感します。生まれた時から18歳まで文字通り産み、育ててくれ、牧師であった父が召された後も、母と私たちを支え続けてくれた土浦めぐみ教会、神学校時代に訓練を受けた横須賀中央教会、町田南キリスト教会、長老杉並教会、そして伝道者としてのスタートを切った西大寺キリスト教会、結婚して初めて仕えた東岡山キリスト教会、神戸での三年半の学びの間に養われた改革派板宿教会、甲子園教会、神港教会、そして再び遣わされて、今日この日まで祈り支えられながらお仕えしている愛する徳丸町キリスト教会。その交わりの中で私は神の愛が何であるかを繰り返し学び、また神の愛を体験し、そして神の愛を語って来ました。教会がなかったら今の自分はなかったし、教会がなかったら私たちはここにいない。神の愛の確かさは、この交わりにおいて鮮やかに姿を現しています。
 確かに教会という交わりは完全ではありません。いろいろな欠けがあり、弱さがあります。教会の中にも様々な考えがあり、時には一つになることが難しいこともある。しかしそれでも疑い得ないことは、ここに集う皆さんだれもが間違いなく神に愛されている尊い一人一人であり、また皆さんもその愛で愛されているがゆえに、神を愛し教会を愛するお一人一人だということです。その愛の現れ方には違いがあるかもしれないし、時にはその違いが緊張を孕むことがあるかもしれない。でも神によって愛され、神を愛する者たちだということはいつでも確かめておきたい。イエス・キリストによって示された神の愛を受けた者たちとして、私たちは今ここに生かされているのです。しかしそれでもまだ私たちは途上の存在です。完成を目指してなお進まなければなりません。以前にもご紹介したことのあるボンヘッファーが1934年に語ったIコリント13章の説教の中にこんな言葉がありました。「信仰と希望とは、いつまでも絶えることがない。信仰なしに、あるいは希望なしに、愛を持つことができるとは決して考えないようにしてもらいたい。信仰のない愛は、水源のない川の流れのようなものである。それはまさに、キリストなしに愛をもつことができると主張するようなものである。信仰のみが神の前でわれわれを義とするのであり、希望がわれわれを未来に向けさせ、愛が完成させるのである。信仰と希望とは、愛に姿をかえられて、永遠の中に入っていく。終わりにはいっさいのものが愛とならなければならない。完成とは、愛のことである。しかしながら、この世における完成のしるしは十字架である。十字架は、この世で成就した愛が歩んで行かなければならない道であり、繰り返し歩んで行くことになる道である」。
 私たちは今、一年の締めくくりの時を過ごしていますが、教会の暦では待降節から新しい一年の歩みがスタートしました。終わりではなく、始まったばかりです。そしてこのクリスマスからの歩みは明確にイースターに向けて進められていきます。そこには主イエスの地上の御生涯、すなわち十字架への道が横たわっているのです。キリスト者になるということはイエス・キリストのみを主と告白して生きる者となるということです。特にこれからの時代、この国でキリスト者として主を告白して生きることには困難が伴うようになる、迫害の時代が必ずやって来ます。私たちがここから歩み出す道は完成に向かう道ですが、しかし愛に至るには十字架を忍んで歩まなければなりません。私たちが今日から歩み出す日々は、十字架を通って復活に至る道です。苦難を通って栄光に繋がる道です。だからこそ信仰が必要であり、希望が必要であり、そして何といっても愛が、愛が必要なのです。
 私たちは迎える2015年、どのように生きていくでしょうか。徳丸町キリスト教会は迎える年、どんな歩みをしていくでしょうか。私は、イエス・キリストによって表された神の愛によって愛された者として、この愛を語り続ける者でありたいと願います。伝道者としてこの愛を一人でも多くの方にお伝えしたい。説教者としてこの愛を語り続けたい。そう願っています。そして徳丸町キリスト教会が、神に愛された人々の群れとして、この愛を確信を持って証しする教会でありたいと願う。愛に飢え渇く人々に、愛に絶望する人々に、愛を疑う人々に、愛を求める人々に、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」と語り続ける群れでありたい。
 そのためにも私たちの間の互いの愛がキリストの愛を表す者とされていきたいと願います。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」。クリスマスの祝福が愛する皆さんお一人一人の上に豊かにありますように。アーメン。



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