待降節第一主日説教  2014/11/30
『神の恵みを受ける人 マリヤのクリスマス』

ルカ1:26-38
 
 2014年のアドベント、待降節第一の主日を迎えました。ろうそくに一本目の火が灯され、いよいよ神の御子、イエス・キリストの御降誕を待ち望む季節を過ごしていきます。時代は急速に闇の力を増して、希望を持てず、生きることの難しさを覚えながら、日々重荷を負って歩む、そんな私たちの世界です。
 しかしそんな私たちに、それでもこの年も、救い主の訪れの良き知らせが届けられようとしている。私たちはその知らせをほんの一足先に知らされた者として、多くの方々にこの希望を指し示す役割が与えられています。救いは来る。希望はある。光は勝利する。このメッセージをこの朝ともに受け取って、ここから新しく遣わされてまいりましょう。愛するお一人一人の上に、主の豊かな祝福がありますように、お祈りいたします。

(1)マリヤへのおとずれ
 今年のアドベントからクリスマスにかけての礼拝では、「神の恵みを受ける人」マリヤ、「神の御心に従う人」ヨセフ、「神の喜びを受ける人」羊飼いたち、そして「神に愛される人」私たちのクリスマス、こんなテーマで御言葉に聴いていきたいと祈り備えています。
 そこで第一回の今朝は、ルカ福音書1章に記された、主イエスの母となるマリヤに天の使いが現れて、聖霊によって子どもを宿すという驚くべき知らせを告げた「受胎告知」の出来事に目を留めたいと思います。以前にもご紹介したことがありますが、クロッサンとボーグというアメリカを代表する聖書学者二人が書いた『最初のクリスマス 福音書が語るイエス誕生物語』という本の中で、ルカ福音書が描き出すクリスマスの特徴が四つ挙げていました。一つ目は女性に重要な役割が与えられているということ、二つ目は音楽に重要な役割が与えられていること、三つ目は社会の周縁や底辺で生きる人々への眼差しがあること、そして四つ目に聖霊の働きが強調されていることなどです。事実、ルカが描き出さすクリスマスの出来事、とりわけマリヤへの受胎告知から馬小屋の飼い葉桶での主イエス誕生までの出来事には、この四つのポイントが鮮やかに現れていると言えるのです。そこでこの朝は、福音書記者ルカのこのような大きな視野とあたたかい眼差しに手引きされながら、「神の恵みを受ける人」マリヤの姿を通して、私たちに驚くばかりの恵みを注いでくださる神の愛を受け取ってまいりましょう。
 26、27節。「ところで、その六か月目に,御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった」。この大変短い説明の中に、しかしやがて生まれ出る救い主の誕生がどれほど驚くべき出来事であるかを示す事柄がすでに明らかにされています。救い主イエス・キリストの誕生を告げる御使いガブリエルは、ガリラヤのナザレという片田舎の片隅につつましく生きる、まだあどけなさの残る一人の若き処女マリヤに現れたのです。ガリラヤという救い主誕生の舞台としては全く似つかわしくない貧しい村を舞台に、取り立てて特別な存在ではない一人のおとめを通して、全く新しい救いの歴史が始まろうとしている。ここに主なる神の大いなる逆説、驚くべき恵みの逆説があるのと言えるのです。

(2)驚くばかりの恵み
 御使いはマリヤに向かって告げます。28節。「御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます』」。御使いから「おめでとう」との言葉を掛けられても、マリヤにとってその言葉は戸惑いを生むものでしかなかったでしょう。29節。「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」。
 このような突然の出来事に触れて、マリヤの驚きや戸惑いはどれほどのものだったでしょうか。しかし御使いは続けます。30節、31節。「すると御使いは言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい』」。ここで「おめでとう」と訳される言葉は、「喜べ」という命令形の言葉です。また、生まれる子の名「イエス」は、旧約聖書で約束された「インマヌエル」すなわち「主があなたとともにいる」という救い主を表す言葉です。この言葉の背景にはこの朝、招きの言葉で読まれたイザヤ書のメシヤ預言が控えているのです。つまりマリヤにとっては突然の出来事が、神様にとっては救いのご計画の初めからの御心の実現の時であることが明らかにされるのです。
 今日の週報の「牧師室だより」に「アドベント」という言葉の意味について知るしました。「アドベント」というのは「行く」、「来る」という意味の言葉で、そこから到来を待つ、という意味が出てきたと言われます。またアドベントから生まれた言葉に英語の「アドベンチャー」があります。「冒険」という意味です。困難や危険をものともせずに出かけていくさま、それがアドベンチャーです。まさにマリヤにとっての御使いの訪問は、アドベントであり、そしてその訪問を受けからのマリヤの歩みはアドベンチャーであったと言えるでしょう。御使いはマリヤに「恵まれた方」と語りかける。しかしそれは彼女の人生に突然のように舞い降りてきた、いやむしろ強引に入り込んできた出来事です。けれども同時にこの出来事は、「おめでとう、恵まれた方」、「あなたは神から恵みを受けたのです」という言葉でもたらされたように、全面的に上からの神の恵みのゆえの出来事でありました。
 この一連の経過は、私たちに神の恵みと言うことの理解を大きく広げ、また時にひっくり返すようなものです。私たちが願いがかなうこと、思惑通りにことがすすむこと、夢が実現すること。そういう成功の思想、上昇の思想があるところには、必ずと言ってよいほど、そこから除外されていくもの、取り残されていくものがあり、しかもそういうものを見えなくさせる力がはたらくものです。しかし神様の恵みは、時に私たちにとっては恵みとは到底受け取れないようなタイミングで、恵みとは見えないような仕方で、もたらされてくる。それは私たちにある決断、ある冒険を迫るようなものなのです。まさに驚くばかりの恵み。でもそれを受け取った時に、そしてその恵みの中に生かされるときにはじめて経験できる世界。それが神の恵みの世界です。
 
(3)神の恵みを受ける人
 それにしても、御使いの突然の訪問と受胎告知はマリヤにとって大きな驚きをもたらしたに違いありません。その驚きはまず何と言っても未婚の処女が子を産むという言葉に対するものです。34節。「そこでマリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに』」。このマリヤの言葉には、彼女の心の中に吹き出してくるあらゆる恐れや不安、疑問などが詰まっていたでしょう。許嫁の身であるマリヤが子を身に宿すことは、当時の社会では姦淫の罪、すなわち石で打たれるべき死に値する罪であり、夫となるべき愛するヨセフを裏切る行為でありました。ましてさらなる驚きは、そうやって身に宿した幼子が、神の救い主、いと高き方の子、聖なる者、神の子であられるというのです。彼女の心に中に沸き上がってくる言葉に言い表しきれない様々な感情が、しかしやがて一つの言葉に収束されていくようになる。そのために決定的な役割を果たしたのが御使いのこの言葉です。36節、37節。「ご覧なさい。あなたの親類エリサベツも、あの年になっていて男の子を宿しています。不妊の女と言われていた人なのに、今はもう六ヶ月です。神にとって不可能なことは一つもありません」。
 「神にとって不可能なことは一つもありません」。この言葉を御使いから聞いた時、マリヤの中に一つの決断が起こります。そしてその一つの決断によって、様々な恐れ、不安、疑問あるいは怒りすらもわき上がってきたであろう彼女の心は凪いで、そこから一つの忘れがたい信仰の言葉、そこに自らの人生を丸ごと委ねた言葉が発せられたのです。38節。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。私たちはこの朝、このマリヤの言葉をしっかりと聞き届けたいと思うのです。ここに示される生き方は決して消極的な、単なる受け身の生き方ではありません。自分の力ではどうしようもできない運命に対して降参してしまった人の諦めの姿ではないのです。そうではなく、ここには神の計り知れない御旨をこの身に引き受けて、その通りに生き抜いていく生き方、生かされている日々を生かされている日々として、一日一日と生き抜いていく生き方。大いなる受動性の中にある確かな能動性というものがあるのです。
 自分の予想だにしない大いなる神の救いのご計画の中に巻き込まれ、自分の理解を遙かに超えた神の御心の中に投げ込まれて、しかし彼女はその人生を引き受けたのであり、ここに私たちはマリヤの信仰を見るのです。福音書はこのマリヤの人生を神から恵みを受けた人の人生として描きます。けれどもその人生とは、むしろ苦しみを引き受けて生きる道でした。愛する息子を手放して生きなければならない生き方、その息子の地上の最後をしっかりと見届けなければならない生き方、しかしそこに神の救いの成就を見つめなければならない生き方でありました。自分の身に起こる全てのことが上から来ることを認めて、それを引き受ける人、そこに生かされてある信仰の人生があるのです。マリヤもヨセフもクリスマスに登場してくる人々は皆、本当に小さな、普通の人々です。けれどもそのような人々の信仰の決断が神の大いなる御業の舞台となっていった。決して彼らが望んだからではない。彼らにそのような役目を担うべく選ばれる何かがあったわけではない。けれどもそこに神の自由で主権的な御業が始まっていくのです。
 マリヤは主のはしための一人として、主なる神から与えられた人生をそのまま丸ごと引き受けた人です。このような人生、神の下さった賜物としての人生を丸ごと受け入れていく人生。喜びもある。楽しみもある。それとともに、悲しみもある。苦難もある。けれどもそれが主から与えられた人生であるという、ただその一点ゆえに、「ほんとうに、私ははしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いうる人生は、この主の招きに答えて生きる人生なのです。
クリスマス、それは私たちが神の恵みを受け取る時です。そのために神の御子イエス・キリストが私たちのもとに貧しく小さな者となってきてくださいました。主イエスは神の子としての特権をかなぐり捨てて、神の御心に従って、私たちのもとに来てくださったのです。そしてこの御子の誕生に際して神が用いられたのも、同じく貧しく小さい存在でありながら、しかも主の御心の前に自分の願いを従わせ、おことばどおりにこの身に、と自らの人生を差し出した女性であったことを思うとき、私たちはあらためて神を信じる信仰ということの基本的な構えを再点検させていただきたいと思うのです。確かに先のことがすべて明らかになってはいない。苦難や涙の谷を過ぎることもあるかもしれない。しかしそこにおいて神の恵みに生きる、いやすでに生かされている。この圧倒的な現実をうけとって、神の恵みの中を歩んでまいりましょう。



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