年末感謝礼拝説教 2013/12/29
『ガリラヤの人たちよ』

使徒の働き1:10-11
 
 2013年の締めくくりの主日を迎えました。一年52回の主日の礼拝が一回一回守られてこの朝を迎えることのできた幸いを心から主に感謝いたします。今年のアドベントからは「ガリラヤ」という地名をテーマに御言葉に聴き続けて来ましたが、今朝はその締めくくりとして使徒の働き1章で、よみがえられた主イエスが天に昇られるに際して地上に残していく弟子たちに向かって語りかけられた「ガリラヤの人たち」との呼びかけの言葉を私たちへの言葉として受け取って、この一年を締めくくり、新たな年の歩みへと遣わされてまいりたいと願います。

(1)ガリラヤで会おう
 これまで私たちは主イエスが「ガリラヤの人」として生まれ、「ガリラヤの人」として生きられることをよしとされ、福音の宣教の第一声を「ガリラヤ」から挙げられたことを見てきました。まさしく異邦人のガリラヤ、暗闇の地から救いの光が照らし出された、それが主イエス・キリスト御自身であられることを確かめてきたわけです。そして今日与えられている御言葉は、この主イエスが十字架に死なれ、三日目によみがえられて天に挙げられる時のあり様を語るところです。福音書と使徒の働きを記したルカは一貫してこれらの出来事を「エルサレム」と結びつけて記すのですが、マタイ福音書28章においては、よみがえられた主イエスは「ガリラヤ」にこだわっておられるのがわかります。主の弟子たちは復活の主イエス・キリストと他ならぬガリラヤで会わなければならないのです。
 いったいそれはなぜなのか。いくつかの理由を考えることができるでしょう。まず第一に、主イエス・キリスト御自身にとってのガリラヤの意味です。それは神の国の福音宣教の開始の場所がガリラヤであったということです。ガリラヤから始められた神の国宣教が、主イエスの十字架と復活によって一つの区切りを迎え、再び今度は弟子たちを世界へと遣わされるにあたり、その開始の場所として選ばれたのがガリラヤであったということです。第二には弟子達にとってのガリラヤの意味です。すなわちそれは弟子達の召命の始まりのガリラヤでありました。あのガリラヤ湖の湖畔で主によって招かれて始まった弟子の道に、もう一度彼らを新しい献身の中に立たせるために、主は敢えて彼らをガリラヤに呼び集められたということです。いわば集め、遣わすためのガリラヤであったということです。そして第三には、それが私たちに対する救いのメッセージの語られる場所として相応しい意味を持っていたという、私たちにとってのガリラヤの意味です。マタイ4章のガリラヤ宣教の始まりをマタイはイザヤ書9章の預言との関連で理解しました。「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。』この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』」。暗闇の中にあり、死の地と死の陰にすわっていたガリラヤに、主イエス・キリストによる救いの光がもたらされたこと、それが主イエスの神の国宣教の中心的なメッセージでありましたが、この約束の成就主イエス・キリストの十字架と復活をもってのことであることがここに至って証しされるのです。暗闇の中にある私たち、死の地と死の陰にすわるガリラヤに、まことの光が上るのは復活の主イエス・キリストの到来によってである。このメッセージを弟子達に鮮やかに伝えるために、敢えて主は彼らをガリラヤにお集めになられたのです。彼らがこれから後語る福音のメッセージがここにある。すなわち復活の主との出会いによってのみ、人は死の暗闇から解放され、いのちの光の中に歩むことができる。このことをもって彼らは遣わされて行かなくてはならないのです。
 
(2)天を見上げて
 これらを踏まえた上で、今日の御言葉に聴きましょう。9節、10節。「 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた」。地上に残された弟子たちはどんな思いで天を見上げながら、挙げられていく主イエスの姿を見送ったのでしょうか。十字架で主イエスを失った時の悲しみとは違うものの、復活された主との喜びの再会も束の間、40日の間を駆け抜けるようにして新しい事業計画を明らかにされ、そしてそれを弟子たちに託し、約束を残して天翔て行かれる主イエス。これからは、挙げられた主イエスが聖霊において働かれる時代が到来したのだとルカは冒頭に記したのですが、しかし当事者である使徒たちにしてみれば、大変な務めを委ねられたというずっしりとした責任感と恐れと、イエスはもう地上にはおられないという心細さとが綯い交ぜになったような面持ちで、半ば途方に暮れるような思いで天を見上げてたたずんでいたのではないかと思うのです。
 しかしそのようにして挙げられていった主を見送りながら天を見上げて立ち尽くしている弟子たちに向かって、御使いは語ります。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」。以前に訪ねたある教会で、礼拝堂入り口の扉の上に古い一枚の木彫りの額が掲げられていて、そこに「主、再び来たりたもう日まで」と刻まれてありました。古い礼拝堂ですが、そこにはピンと張りつめた空気があり、私はその言葉を目にして姿勢を正される思いをしたことです。「主、再び来たりたもう日まで」。ここで思い起こすのは主の晩餐の制定の御言葉です。Iコリント11章26節。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。主はこの朝も私たちを礼拝に招き、ご自身の御許に呼び集められます。そしていのちのことばによって私たちを養ってくださり、力に満たしてくださって、さあここから平和のうちに行きなさいと私たちをお遣わしになります。
 さらにまた「全世界に福音が宣べ伝えられ、それから終わりが来る」と主イエスは言われます。主が再び来られる日まで、私たちはこうして主の日ごとに呼び集められ、そして遣わされていく。この小さな招集と派遣の繰り返しが、やがて来るべき主の御前に結集する日まで続いていくのです。そこではこの世界もそこに生きる隣人たちも、それが今どんなに神から遠く離れて暗闇と混沌の中にある世界であろうとも、私たちを絶望させ、宣教の情熱を失わせ、聖霊による力を萎えさせるものとはなりません。主イエスは言われます。「しかりわたしはすぐに来る」。私たちもこの主の御前に「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈りつつ、主を待ち望む姿勢をいよいよ整えてまいりたいと願うのです。

(3)ガリラヤの人たちよ
 主イエスは確かに天へと挙げられていきました。しかし弟子たちはただ地上にぽつんと取り残されたのではない。彼らにはこれから担っていくべき大事な務めがある。やがて聖霊が下り、あなたがたは力を受ける。そして地の果てまで証人となる。そして全世界に主の喜びに福音が宣べ伝えられ、神の救いの時が満ちた時、主は再び来たり給う。その時を目指して途方に暮れる眼差しではなく、希望と約束を見据える眼差しをもって、さあ仕事に取りかかれと言われるのです。しかもその際に、御使いが弟子たちに「ガリラヤの人たち」と呼び掛けられたこの意味を深く受けとめたいのです。辺境の地、周辺の地、異邦人のガリラヤ、暗闇のガリラヤから光として来られた主イエスは、その福音の光を「ガリラヤの人たち」に託して行かれるのです。それはまさしく無学で貧しく、力も財も後ろ盾もない普通の人々に託されたということでしょう。まったく空しい土の器に過ぎない私たちに、主イエスの福音の宝はなみなみと注がれて、さあこれをもって行けと主は私たちをお遣わしになるのです。先週クリスマスの諸集会を終えてから仙台に東北地区KGKの合宿の講師として招かれて御用してきました。東北で生きる学生さんたちと出会い、大いに励まされてきました。二日目に高木創主事の導きで、仙台のキリシタン殉教碑を見学に行きました。その後、青葉城に行き、仙台護国神社の前にいた時に、ちょうど安倍首相の靖国参拝のニュースを知りました。その日の晩、ずいぶん遅くまで学生さんたちと語り合いました。皆が自分の信仰告白のテーマとしてこのことを引き受け、問い続け、考え続け、自分の旗印を立てていくことを真剣に考えてくれていました。震災後の東北に重荷を持って学び、生きようとする彼らの姿に希望を見る思いでした。
 挙げられたキリストを見る眼差しは、ただ呆然と天を仰ぐ眼差しではなく、再び来たりたもうキリストを待ち望む眼差しであり、キリストにある未来へと開かれた希望の眼差しです。今この目に映る姿をすべてとせずに、そこからキリストにあって「なるであろう」未来の姿を希望する眼差しです。そういう眼差しにおいて見つめられる全てのものは、私たちを絶望に追いやることをしません。それは十字架と復活の主、昇天と再臨の主のいのちと力、希望と約束において見られるべきものであり、そこではこの世界もそこにある隣人たちも、それが今どんなに神から遠く離れて暗闇と混沌の中にある世界であろうとも、私たちを絶望させ、宣教の情熱を失わせ、聖霊による力を萎えさせるものとはならないのです。私たちはこの眼差しを与えられた者として、この世界の地の果てまでを見渡したい。そしてその視野に入ってくるすべてのもの、人、世界へと私たち自身が促され、導かれ、そして遣わされる者とさせていただきたい。そのために今も聖霊なる神は私たちの内にあって力に溢れ、私たちをキリストの証人としてここから新しく遣わそうとされているのです。ただ天を見上げてたたずんでいてはならない。今日ここからまた仕事に取りかかっていくのです。



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