降誕節記念主日説教  2013/12/22
『ガリラヤの人、主イエス』

マタイ2:1-23
 
  2013年の降誕節、クリスマスの朝を迎えました。主にあって互いに挨拶を交わしたいと思います。クリスマスおめでとうございます。皆さんお一人一人の上に、主イエス・キリストの恵みと平安、祝福が豊かにありますように。
 
(1)ガリラヤからの眼差し
 この年のクリスマスを迎えるにあたり、アドベントの季節に「ガリラヤ」という場所を心に留めつつ御言葉に聴き続けてまいりました。救い主メシヤの誕生を預言する旧約預言者イザヤは言いました。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた」と。「異邦人のガリラヤ」、それは辺境の地、周辺の地、戦禍で踏みにじられ、痛めつけられた地、傷ついて闇に覆われた地でした。しかしそこから救いの光が輝き出ると神は約束してくださいました。預言者は暗闇の只中でこの神の約束に基づいて希望を語りました。そしてこの預言の成就として救い主メシヤなるイエス・キリストがこの地上にお出でくださった。クリスマスの喜びは、この道筋を通ってこそ初めて経験することのできる喜びです。
 このガリラヤから救い主メシヤが現れた、と聖書は語ります。その意味を私たちは大切にしたいのです。人々が目も留めないようなところから光が差してくる。その救いの光を見逃すことなく、その光の下に身を置きたいのです。かつてこんな文章を書いたことがありました。今となっては少し気負った文章ですが、今読み返しても同じ気持ちです。「物事にはよくその本質が見えてくる角度というものがある。もちろん我々はそのすべての側面・局面を過不足なくトータルに包括するだけの視点を持ち得ないのであるが、しかしある限定された時と場に自らを置き、『今、ここ』から対象を見つめていくことで視野の中に入ってくるものがあるのである。・・・そこから見えてこないものをいつまでも待っていてもそれは見えてこないのであって、他の場所に移動してはじめて見えてくるものはそもそも我々が見るべきものではないのかもしれないのである」。
 私たちが神を信じるために立つ場所、自分自身を見つめるために立つ場所、そして世界をよりよく見るために立つ場所。それがガリラヤからの眼差しということです。それはこの世の標準、この世の常識とは異なった場所からの視点です。中央からの視点、高みからの視点からでない、周辺からの視点、辺境からの視点、低きからの視点。すなわち、低きの極みにまで下られ、人の子としてお生まれになり、ガリラヤの人として生きられた神の御子イエス・キリストの光のもとからの眼差しです。この主イエス・キリストと結び合わされたところからの眼差しに私たちも生きる。今年のクリスマスが皆さんにとってこの歩みの第一歩となることを願っています。

(2)主イエスのガリラヤへの道のり
 ここであらためて主イエスの誕生からその後のガリラヤに至る道のりを辿っておきましょう。ルカ福音書2章によりますと、主イエスの父親であるヨセフはガリラヤのナザレの大工でしたが、ダビデ王の血筋であったため、ローマ皇帝アウグストの時代の住民登録のためにと身重の妻マリヤを連れてエルサレム近郊の村ベツレヘムに向かい、主イエスはその地の馬小屋の飼い葉桶でお生まれになりました。さらに誕生から八日後にはヨセフとマリヤが割礼を施すためにエルサレムへ登り神殿での奉献が行われ、そこでシメオン、アンナによる祝福を受けられます。その後、39節、40節に「さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った。幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった」とあるようにガリラヤのナザレに戻られると、成人するまでこの地で成長していかれたのです。
 次に今日のマタイ福音書2章によりますと、ルカとはまた違った視点から主イエスの誕生とその後の道のりが描かれます。東方の博士たちが救い主誕生の星に導かれてエルサレムにやって来た時、彼らは肝心の救い主誕生の場所が分からず、ヘロデ王のもとを訪れてこう尋ねました。2節。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」。それでヘロデ王は恐れ惑い、祭司長や学者たちを総動員してその場所を突き止めさせます。4節から6節。「そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。「ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから」』」。こうして主イエスは旧約聖書ミカ書5章2節の預言の成就として「ユダの地、ベツレヘム」でお生まれになりました。
 その後マタイの福音書は、東方の博士たちの来訪後に主イエスが両親とともにエジプトに逃れたと記します。13節から15節。「彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデが幼子を捜し出して殺そうとしています。』そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われた事が成就するためであった」。この引用はホセア書11章1節からですが、その後に続く4節までを見ましょう。「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを胸に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、やさしくこれに食べさせてきた」。これは主なる神がかつてエジプトに捕らわれていたイスラエルの民を救い出したにもかかわらず、その後も背信を重ねて滅びに突き進んでいったイスラエルの民を、それでもなお父なる神が愛をもって「わたしの子」と呼び、忍耐を持って養い続けてこられたその真実な愛の姿が語られるところです。父なる神がかつてご自分の民をエジプトから助け出すためにモーセを立てたように、今や父なる神は罪の奴隷となっている私たちを、それでもどこまでも愛し貫き、助け出し、ご自分の子にするために御子イエス・キリストをお遣わしくださった。この父の愛がここに示されているのです。
 さらに19節から21節では「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。』そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった」として、再び御使いのお告げを受けたヨセフ一家がエジプトからイスラエルに帰還する姿が描かれます。降誕物語におけるルカ福音書と比べてのマタイ福音書の特色は、このヨセフ一家のエジプト行きとそこからの帰還の出来事です。多くの聖書学者たちが指摘するのですが、マタイはここで御子イエス・キリストを旧約聖書出エジプト記のモーセの姿と重ね合わせて描き出していると言われます。モーセは神の民イスラエルをエジプトの地から連れ出したリーダーですが、彼自身の誕生の時にも当時のエジプト王パロの命令で多くのイスラエル人の男の赤ん坊が殺されるという悲劇がありました。そんな中モーセはナイルの水の中から引き出され、まさに「引き出す」という意味の名前、「モーセ」と名付けられたのです。マタイは「水の中から引き出されたモーセが神の民をエジプトから引き出す」という姿と、「エジプトへ引き出された御子イエスがやがてエジプトから引き出される」という姿の重なりを描くことで、主イエス・キリストこそが私たちにとってのモーセ、私たちを奴隷の状態から引き出してくださるお方だと語っているのです。

(3)ガリラヤの人、主イエス
 そして最後に重要な出来事が22節、23節です。「しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ち退いた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われた事が成就するためであった」。マタイ福音書もルカ福音書と同様に、幼子イエスがガリラヤのナザレに落ち着いて、そこで成長していく様を描いて降誕物語を締めくくるのですが、しかしマタイ福音書において私たちの目を惹くのは、主イエスがナザレの町で育ったと言う事実を「これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われたことが成就するためであった」と記す点です。マタイ福音書が描き出す降誕物語は旧約聖書をふんだんに引用し、それによって神の御子イエス・キリストの御降誕とその御生涯が旧約聖書の預言の成就であることを明らかにするのですが、この箇所はハッキリとした引用元が分からない上に、旧約聖書には「ナザレ」という地名も、そもそもその言葉自体が出てこないために解釈の困難な箇所とされてきました。そこで古くから教会はこの言葉の出典として二つの御言葉を考えます。一つは神にその生涯を捧げて生きる「ナジル人」を指す士師記13章や16章、もう一つは「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」というイザヤ書11章1節です。ここで「若枝」と訳されたヘブライ語の「ネツェル」が「ナザレ」に転じたというわけです。
 多くの注解者はこの二つの説を紹介した上で、より可能性の大きいものとして後者を支持します。しかも旧約時代から「ナザレ」がほとんど無名の地であること、「若枝」が切り株という「低くされたところ」から生え出るものであることなどと重ね合わせて、マタイ福音書はまさしく「異邦人のガリラヤ」とともに、主イエス・キリストが辺境の地、低くされた地からの救い主であることを私たちに伝えているのです。このメッセージをさらに強めるのはヨハネ福音書です。主イエスが公生涯に入られてからの姿を描くにあたり、ヨハネ福音書は1章49節で次のようなナタナエルの言葉を記します。「ナザレから何の良いものが出るだろう」。また7章41節、42節では群衆たちの声として「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか」とさえ記すのです。
 確かに救い主はユダヤのベツレヘムからお生まれになった。それは聖書の語るとおりです。しかし同時に聖書は救い主はガリラヤの人、ナザレの人であったということを繰り返し繰り返し語る。それはそうでもしなければ、私たちの眼差しがすぐにガリラヤから逸れてしまうという事実を示しているのではないでしょうか。私たちの眼差しの向かう先、それはいつでも周辺よりも中央です。低いところよりも高いところです。暗いところよりも明るいところです。過去よりも今のことです。しかしクリスマスの出来事は私たちに、正しく過去を見つめさせ、そこから正しく仰ぎ見させるための大切な眼差しの向け所を教えてくれているのです。それは御子イエス・キリストを私たちに賜るほどに私たちを愛してやまない父なる神の眼差しです。光の集まるところに私たちの眼差しもまた向きがちになるとき、父なる神の御子イエス・キリストを通しての愛の眼差しは、そんな光の当たる舞台の回りに、ひっそりと陰の中にたたずむ私たちの嘆き、涙、痛み、悲しみ、怒り、やりきれなさにもちゃんと届いている。私たちが敢えて闇の中に隠そうとする罪にさえも父なる神の眼差しは届いている。そしてその闇に光を照らすために、御子イエス・キリストは私たちのもとにお出でくださったのです。光の傍らにある闇の中にも、喜びの傍らにある悲しみの中にも、そこにも救い主の光は照り輝く。そうしてついには闇はなくなり、まったき光の支配が訪れる。その日を目指して、ガリラヤの人、ナザレの人、私たちのただ一人の救い主なる神の御子イエス・キリストにつき従って、今日からの日々も歩んでまいりましょう。



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