待降節第三主日説教  2013/12/15
『ガリラヤからの福音』

マルコ1:14-15
 
 神の御子イエス・キリストの御降誕を待ち望む待降節もいよいよ第三週に入りました。主イエスのよきおとずれが近づくこの朝、私たちに語りかけられる神の国の福音にご一緒に耳を傾け、そして聴いた言葉に応答してまいりましょう。主の祝福が皆さんの上にあるように祈ります。

(1)ガリラヤからの声
 今年のアドベントでは「ガリラヤ」という場所にこだわって御言葉に聴き続けています。私たちは様々な情報に囲まれて日々を生きています。そして時にはそれらの多くの声に振り回されて不安になったり、恐れたり、いったいどの言葉に聴いたらよいのかが分からなくなって混乱することがあります。ふくしまの子ども保養の働きに関わって一年半になりますが、特に放射能の低線量被曝の影響があるのかないのか、ということについて今でも専門家たちの言葉は大きく割れており、どの言葉を信用すればよいのかと考え続けることにも疲れ果ててしまい、諦めにも似た感情を抱く親御さんたちが多くおられます。一方で「まことしやか」に語られる言葉に対しても私たちは知恵深くいなければなりません。甘い言葉の背後に控えている本当の思惑を注意深く読み取る力を養わなければ、あっという間に口車に乗せられてあらぬところに連れて行かれてしまう、そんな恐れを抱く時代でもあるのです。
 そのような時代を生きる私たちにとって、本当に聴くべき真実な言葉はどこにあるのかでしょうか。私たちは客観的な事実、中立的な言葉、上下左右を見渡した冷静なバランスのとれた言葉こそが真実だと考えます。しかし本当にそうなのかということをこのところずっと考えさせられています。むしろどこかの場所に身を置いて、そこで生きる中から出てくる言葉、ある時代と場所にコミットメントして、そこにある制約や限界をも引き受けながら、それでも評論家のように自分を安全地帯に置くことなく、むしろ自分が生きる現実の中に深く関わりながら、そこから汲み出してくる言葉こそ私たちは耳を傾けたい。真実にそこで生きている人からその言葉を聴きたいと願うのです。結局は客観的な事実への信頼というよりも、「この人の言葉なら」という生きた人格への信頼が決め手になるのではないでしょうか。私は震災後、東北の各地で忠実、地道に、そして情熱をもって福音のために生きておられる幾人もの牧師たちとの出会いが与えられました。心から尊敬すべき先生方です。その先生方に共通しているのは、皆さん自分の頭で考え続け、自分の言葉で語られるということです。そんなの当たり前ではないかと思われるでしょうが、実際にはそういう「本物」の言葉を持っている伝道者は決して多くはないと思います。本気で考え続け、生きている存在が発する言葉にはやはり力があるのです。
 このような意味で私たちが聴くべき最も確かな言葉、それは私たちが最も信頼すべきお方である主イエス・キリストの御口から発せられる言葉です。14節。「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた」。

(2)ガリラヤからの福音
 主イエス・キリストがその生涯を「ガリラヤの人」として生きられたことを繰り返し申し上げてきました。その事が最も印象深く示されるのが今日の場面です。この直前の12節、13節で、主イエスは荒野に退かれて四十日四十夜にわたりサタンの試みを受けられました。その後、主イエスはガリラヤに退き、そこから神の国の福音を宣べ伝える第一声を挙げられたというのです。これらの経緯についてはもっと詳しくマタイ福音書4章が記していますが、今日はマルコ福音書のシンプルな記述に集中します。私たちはそれがどこから語られた言葉か、誰が語った言葉か、そこに集中しなければなりません。主イエスは宣教の第一声をわざわざガリラヤから発せられた。エルサレムからではない、中央の場所からではない、周辺の地、辺境の地、異邦人のガリラヤから福音の声が発せられた。この事実を大切にしたいのです。中央からの言葉が真実な言葉とは限らない。むしろ周辺から、辺境から響いてくる声の中に本当に真実な言葉がある。強い人、力を持つ人、華々しい人、スポットライトを浴びる人から真実な言葉が発せられるとは限らない。むしろ暗闇の中に灯る小さなまことに小さな灯火のような存在からこそ、本当に私たちを生かす力ある言葉が発せられる。まさに主イエス・キリストの御声はそのような真実な力ある言葉なのです。
 主イエスが語られた言葉、それは「神の福音」です。「福音」とは「よい知らせ」という意味です。何がよい知らせか。それが「神が来られる」という知らせ、「救いが来る」という知らせです。教会がいつも、そしてとりわけこの時期にあらゆる仕方で宣べ伝えるのはこの「福音」です。神が来られる。救いが来る。あなたのもとに、救いはやって来る。私など見捨てられた存在だなどと言ってはならない。私にはよい知らせなど届きはしないと絶望してはならない。確かに救いはあなたのもとにやって来る。それがクリスマスの約束です。なぜそのように言うことができるのか。それはこのよき知らせである福音を宣べ伝えておられる主イエス・キリストご自身こそが、その「よき知らせ」そのものであるからに他なりません。聖書において神が来られる、救いが来るということは、すなわち神のひとり子であるイエス・キリストが人となって私たちのもとに来てくださった、あの二千年前のユダヤのベツレヘムの寒き馬小屋の飼い葉桶に、まことに小さく貧しく弱く無防備なお姿で来てくださったという、クリスマスの出来事そのものなのです。
 そうすると続く15節の「時は満ち、神の国は近くなった」という言葉の意味が一層はっきりとしてくるでしょう。「時が満ちる」というのは、いわゆる「機が熟する」というのと似たニュアンスですが、聖書においては神のご計画の時が成就することを意味します。まさに御子イエス・キリストが私たちのもとに来てくださったのは、ある日突然に起こった突発的な出来事ではなく、永遠の神の御心に基づくものであり、そして旧約聖書において幾度も幾度も預言され続けてきたことの実現、成就なのです。こうしてイエス・キリストが来られたこと、それが神の国の接近だと聖書は語ります。そこで私たちは今一度考えさせられる。もう既にイエス・キリストは来たというのなら、聖書の言葉は単に過去の出来事を思い起こすことの繰り返しに過ぎないのではないかと。そうではないのです。今、私たちが過ごしているこのアドベント、待降節の日々。それは既に来られたイエス・キリストの誕生の出来事をただ思い起こすためにあるのではなく、このイエス・キリストがやがて再び来られることを待ち望む、確かな希望の日々なのです。主イエス・キリストが再び私たちのもとに来られること、これを「再臨」、「セカンドカミング」と言います。待降節とはこの再び来られる御子イエス・キリストを待ち望む日々でもある。すでに神の国を始められた御子イエスが、十字架に掛かって私たちの罪の身代わりとなってくださり、三日目によみがえられて天に挙げられ、私たちのために場所を備えてくださり、そしてやがて再び私たちのもとに来てくださり、神の国の救いを成し遂げ、それを完成し、その完成した神の御国に私たちを迎え入れてくださるというのです。それこそがよき知らせ、福音そのものなのです。

(3)悔い改めて生きる、信じて生きる
 先週の木曜日、「希望を告白する夜2」の集いが230名もの来会者が与えられて無事に終わり、片付けをして12時過ぎに家に戻りました。ほっと一息ついたところに連絡が入り、生田兄が危篤との知らせでした。すぐに再び着替えて病院に行き、明け方4時過ぎまでベッドサイドで手を握りながら祈りを捧げました。均さん家族もおられ、回復を願うけれども同時に御国に送り出す準備をしましょうと申し上げて、耳元で二テモテ4章の御言葉を読み、祈りを捧げました。祈り終わるとかすかに頷くような仕草が見えました。信仰者の人生の締め括り方を見た思いがします。今も病床で生田兄は病と闘っておられますが、しかしそれは実に穏やかな、静かな、そして確信と平安に満ちた時間を過ごしているということでもある。そこに私は神の国の確かさを、天の御国の確かさを見るのです。ガリラヤから聞こえて来た福音の知らせは、確かに今、生田兄の心の中にも一層確かな仕方で届いている。そしてそれは私たちにもこの朝確かに届けられているのです。
 このよき知らせを告げられた主イエスは、私たちにそのメッセージへの応答を求められます。ただ聴くだけでなく、その聴いた言葉に応答せよと促されるのです。15節後半。「悔い改めて福音を信じなさい」。ガリラヤから聞こえてくる福音の声、その声が促すものは私たちが悔い改めて生きること、福音を信じて生きることです。「悔い改める」というのは方向転換するということです。反省するとか、後悔するというような後ろ向きの作業ではありません。むしろ人生の向きを変えて、新しい人として生き始めるという実に前向きな作業です。クリスマスに来られた主イエス・キリストと出会うならば、その人は新しく生きる者とされる。それが福音のもたらす大きな祝福です。昨日のYBC青年クリスマスで講師の松井由紀恵先生がマタイ2章の当方の博士の箇所から御言葉を語ってくださいました。そこで、あの博士たちが幼子イエスを礼拝した後、来た道とは違う道から帰っていったという記事について、イエス様を信じた時から新しい歩みが始まるのだと語ってくださいました。
 イエス・キリストを神の御子、私の救い主と信じ、心に受け入れた人は、もはや同じ人生を生きるのではない。悔い改めて新しくされた神の子どもとされて、そのようにして新しい人生を生きる者とされるのです。神を信じて生きる人生。それは悔い改めて生きる人生です。悔い改めて生きる人とは過去に縛られ、罪の呵責に苛まれ、古い傷に痛み続け疼き続ける人でなく、神を信じて生きる人、よき知らせである福音を信じ、福音そのものである御子イエス・キリストを信じて生きる人です。その時に、私たちはどんな過去を生きようと、どんな傷を背負おうとも、どんな痛みを引きずろうとも、最初から生き直す必要はない。主イエスを信じ受け入れたその地点から、新しく生き始めることができるのです。それがガリラヤから聞こえてくる福音です。この福音の知らせを受け取ってください。



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