待降節第一主日説教  2013/12/01
『ガリラヤからの光』

イザヤ9:1-2
 
 この朝から主イエス・キリストの御降誕を待ち望む待降節、アドベントに入ります。昨年の12月最初の主日の説教をこんな言葉で始めました。「社会はますます混沌の様子を深め、暗闇の時代が近付きつつある大きな時代の分かれ道に断たされているという緊張感の中にこの12月を迎えています」。ちょうど間近に控えた衆議院選挙のことを覚えてのことでした。そして今年は昨年にも増して、闇の力が現実となり、「悪い時代」の中に入っているという認識を持ちます。それでも私たちはなお救い主を待つ希望の中に生きる者とされていることを覚えましょう。そして主にあって力づけられてまいりましょう。
 この午後にはチャリティコンサートを控えています。まず主を礼拝し、喜びと力に満たされて午後の集いへと導かれていきましょう。主が愛して、その名を呼んで呼び集めてくださった皆さんお一人一人の上に、主の祝福が豊かにありますように祈ります。

(1)辺境の地、ガリラヤ
 今年の待降節からクリスマスに向かう礼拝で、いったいどのように御言葉に聴いていこうかと祈ってきました。特に11月に入っていろいろな出来事があり、それらについて考え、言葉にし、実際に出かけて行ったりする中で、一つの御言葉が与えられ、それがぐるぐると心の中を動き回るという経験をしました。それが今日開かれている9章2節、「異邦人のガリラヤは光栄を受けた」との御言葉です。主がこの時代、この国に生きる私たちに、この待降節、救い主イエス・キリストを待ち望んで歩むこの時に、私たちの群れに与えてくださる御言葉として、ご一緒にこの御言葉に教えられて行きたいと願うのです。
 「ガリラヤ」という地名は聖書の中では比較的よく知られたものです。パレスチナの北の山地を中心に、北はシリヤの隣接し、南はカルメル山脈からエスドラエロン平原、東はガリラヤ湖とヨルダン川、西はフェニキヤまでの南北およそ75キロ、東西40キロほどの地域を指すと言われています。しかし私たちが特に考えたいのはこのような地理的な意味合いにおける「ガリラヤ」というよりも、ここで「異邦人のガリラヤ」とイザヤが呼ぶような歴史的・政治的な意味合いであり、またそこから導き出されるある種の象徴的な記号としての「ガリラヤ」ということなのです。そもそも「ガリラヤ」という地名の由来ははっきりしないという学者もいますが、一方でその言葉には「辺境」、「周辺」という意味があるとも言われます。「辺境の地、周辺の地」ガリラヤ。けっして中央ではない。中央を支えるための周辺、中央から遠く隔たった辺境、中央を支えるための周辺、中央から切り離された辺境、中央の犠牲にさえなる周辺。
 実際にガリラヤ地方についてよくよく調べてみるとまさに「辺境の地、周辺の地」と呼ばれるごとくに様々な変遷を遂げた地域だということが分かってきます。もともとこの地はカナン人が住む場所でしたが、ヨシュア記に記されるようにイスラエルがこの地を占領して十二部族に分割統治され、ゼブルン、アシェル、ナフタリ、イッサカルなどの部族が定住します。やがて王国の時代になると都エルサレムを支える様々な資源供給の地となり、さらに南北に王国が分裂すると北イスラエル王国の北端の地としてしばしば外国からの侵入を受け、戦場となります。そして今日のイザヤ書の背景となるように大国アッシリヤの攻撃を受けてこの地は征服されてついに北王国は滅亡。その後は約600年近くにわたりバビロン、ペルシャ、マケドニア、エジプト、シリヤといった国々の支配下に置かれます。この間に様々な周辺の国々との混合が進み、それが「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる所以となります。さらにローマ帝国の支配下ではしばしば独立運動が起こっては鎮圧されるという苦難と悲劇の歴史を繰り返し、主イエスの時代には武力闘争でローマから独立を計った「熱心党」が生まれたのもこの地だと言われています。

(2)イザヤにおけるガリラヤ
 以上のような歴史を踏まえて、今日の預言者イザヤの言葉に聴きましょう。あらためて8章22節をお読みします。「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者」。預言者イザヤの時代のガリラヤ。それはまさに暗黒の時代でした。アッシリヤの巨大で強力な軍隊によって攻められ、力づくで踏みにじられていく時代、多くの血が流され、いのちが奪われていく地、人々は恐れと不安に包まれ、希望を抱くことの出来ない暗黒の時代です。
 それでも「しかし」と預言者は語るのです。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」。聖書の中にはしばしばその前にある現実をたった一言で覆す「しかし」、「でも」が出て来ます。私たちの口にする「しかし」、「でも」はしばしば不平不満の「しかし」、「でも」。神の約束を信じることが出来ずに諦めの中でつぶやく「しかし」、「でも」です。ところが聖書の中での「しかし」は人の現実を覆し、人の不平不満を退け、人の諦めを吹き払うほどに確かなものです。そこで思い起こすのはルカ福音書5章で、まさにこのガリラヤ湖で漁をしていたペテロと主イエスのやりとりです。夜通し働いて一匹の魚も捕れなかったペテロに主イエスはなお「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」とお命じになる。その時ペテロは堪えます。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」。これが人の現実です。ところがペテロはそこで終わらなかった。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」。「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった」。人間の現実を覆す神の現実をもたらす「でも」です。私たちは人間の現実の中に立ち続けるのか、それとも神がもたらしてくださる現実の中に新しく生きるのか。
 確かに暗闇、確かに苦難、確かに苦悩、確かに苦しみ。そのような現実が動かし難いほどに横たわっている。もうこれが現実なのだと認めるほかない、諦めるほかない、受け入れるほかない。誰もがそう思う。それが当然であり、常識だと言わんばかりに。けれどもそこで預言者は「しかし」と語るのです。確かに苦しみがあることは事実。でもそれがずっと支配し続けることはあり得ない。やみはなくなるのだ。光が来るのだ。「異邦人のガリラヤは光栄を受けた」と預言者はまだそれが現実となってはいない時にすでに、それが実現したと信じて「光栄を受けた」、「大きな光を見た」、「光が照った」と過去形で語るのでした。預言者の使命ということを考えます。預言者の使命には、この世の現実を正しく見据えるということがあるでしょう。この世のことから目を背けてはならない。偽りの平安を語る偽預言者になってもならない。しかしただ世界の現状をつぶさに見て、分析し、論評すればよいかというとそういうことでもない。預言者は評論家ではありません。むしろこ人間の現実、この世の現実を正しく見据えながら、しかしその現実を覆して成就する神の現実の持つ希望の確かさをはっきりと指し示すことにあるのです。

(3)ガリラヤからの光
 あらためて、今私たちが生きるこの時代を考えます。特に311の震災からずっと東北の地と東京を行き来しながら、日本における「ガリラヤ」ということを考えさせられています。辺境の地としての東北、ガリラヤとしての東北。東京オリンピック誘致の際に原発事故の影響を問われたJOCの会長が「東京は福島から200キロ離れているので大丈夫」と答えました。首相もスピーチにおいて「汚染水は港湾内に完全にブロックされている」と言いました。どちらの言葉の中にも震災の出来事を東北の地に閉じこめ、封印してしまいたいという意図を感じます。そこでは東北と東京は地続きではなく、切り離されてしまっているのです。今でも毎月、福島を月に一度訪ねています。先月は三回行きました。家からバスと電車、新幹線を乗り継げば郡山は約2時間です。あっという間の距離です。でも実際に東京と福島の距離は遠く隔たっている。時が止まったままのように生きている人々、不安や恐れを心の奥に押し込めるようにしながら生きている人々と、すでに何もかもが過去の出来事であったかのように忘れ去り、目の前の欲に相変わらず追われて生きている人々。その隔たりはますます広がっていると思えてなりません。
 またこの同じ東京にいても、闇の力の広がりを感じる日々を過ごします。今、国会で審議されているまれに見る悪法である「特定秘密保護法案」。これについて知れば知るほど、この法案が通ってしまったらどんなに恐ろしい社会になるかと不安が募ります。先週も水曜の祈祷会ではこの法案について学び、金曜日には教団でも緊急祈祷会が開かれました。今週が山場を迎える法案審議のために私たちは祈らなければなりません。この法案が廃案となるように、祈らなければなりません。しかし祈りつつもなかなか現実は厳しいだろうというようにも思う。「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者」。まさにこの通りです。私たちはこのアドベントの季節を、毎年繰り返される年中行事のように過ごすことはできません。ますます闇は深くなり、時代は困難になっていく。無関心ですませたくなる誘惑がある。諦めてしまいたくなる思いがある。
 しかしそんな中で、この年のアドベントを迎えることの恵みを深く味わいたい。そして希望の光を待ち望みたいと願うのです。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた」。これが私たちに約束された希望の言葉であり、そしてこの希望は実現した。御子イエス・キリストは来られて、ガリラヤから救いのメッセージを語り出されました。そして今は天におられて私たちの聖霊を送り、私たちを用いて希望の言葉を語らせ、そしてついにはやがて再び来られて、その希望を完成させてくださる。このガリラヤからの光を待ち望みつつ、私たちがガリラヤからの光をはっきりと指さし、人々に希望の在処を指し示す小さなともしびとなって、希望を実現に至らせる光なるお方、ただ一人の救い主、今も天と地を統べ治めておられるまことの王の王であられる神の御子イエス・キリストをお迎えしてまいりましょう。



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