降誕節記念主日説教 2012/12/23
『信仰、希望、愛のクリスマス』

Iコリント13:12-13
 
 2012年の降誕節、クリスマス礼拝を迎えました。御子イエス・キリストのご降誕を喜び、主にあって心からの挨拶を交わしましょう。クリスマスおめでとうございます。また今年も毎週の主の日の礼拝が守られて、今日と来週を残すまでとなりました。今年は7月から9時の第一礼拝が始まりましたが、今日はそれ以来の合同礼拝です。さらに多くの礼拝者が集われることを願って、一年間礼拝をささげ伝道に励んでまいりました。そして今日、この礼拝でお二人の兄弟の洗礼式を執り行うことができるのは、何よりの喜びです。 
 一年の感謝のしめくくりは次週するつもりですが、それでも振り返ってみれば、今年私たちの教会は多くの別れを経験しました。愛する姉妹を天に送り、また何組かの家族たち、子どもたちを新しい地での生活へと送り出しました。あるいは様々な理由で礼拝から少し足が遠のいておられる方々もおられます。心痛む思いです。それでも御子イエス・キリストの誕生を祝うこの日に、主イエスのいのちに結ばれて新しく生まれるいのちが与えられたことは、あわれみ深い父なる神からの恵みのプレゼントであると感謝したいのです。
 この朝、私たちは御子イエス・キリストにおいてあらわされた大いなる愛を受け取りたいと願います。

(1)クリスマスに来られたキリストに目を留める
 今年のアドベントからクリスマスへの礼拝では、「信仰、希望、愛」というキーワードを中心に御言葉に聴いてきました。この朝はそのまとめとして、与えられているIコリント13章13節の御言葉、「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」との御言葉を中心にクリスマスに来られた神の御子イエス・キリストのお姿にしっかりと目を留めたいと思います。
 この季節、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書が描き出すクリスマスの出来事を繰り返し読み、思い巡らす中であらためて気がつかされるのは、主イエス・キリストこそが信仰、希望、愛そのもののお方でいらっしゃるということです。ルカ福音書によれば、主イエスの誕生の夜、羊飼いたちは幼子の誕生を告げる御使いの言葉に促され、「飼い葉桶に寝ているみどりご」というたった一つの事実を手がかりにして主イエスを捜し出し、その御許にやって来ました。彼らをそこまで動かしたのは御使いの告げたこの言葉です。「きょう、ダビデの町であなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。彼らはお生まれになったみどりごが「あなたがたのため」の、「私たちのための」救い主であると信じたのです。町囲みの外で、疎外された存在として生きてきた羊飼いたちにとって「あなたがたのため」に来てくれる存在は驚きであったに違いない。しかし紛れもなく主イエスは「あなたがたのための」キリストです。クリスマスは私たちのもとに来る。救いは私たちのもとに訪れる。いつかやがてでなく「今日」、抽象的な誰それのためにでなく「あなたがたのために」。この真実な救い主イエス・キリストこそがクリスマスに来てくださったお方であり、この方を信じることこそが本当のクリスマスの迎え方なのです。
 マタイ福音書によれば、東方の博士たちはまことの王の誕生を知らせる星の出現を見て、主イエスのもとへとやって来ました。その目的はこうです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」。彼らは幼子イエスを礼拝するためにはるばる旅をしてやって来ました。彼らをそこまでして動かしたのは、希望の力です。彼らにとってその星は希望でした。そしてその希望の実現のために彼らは旅立ったのです。「見ること」から「旅立つこと」の間には少なからぬ距離があります。でも彼らは旅立った。希望に押し出され、引っ張られるようにして彼らは主イエスのもとへと引き寄せられていったのです。希望はただ希望として遠く眺めているだけでは実現しません。その希望に向かって一歩を踏み出す決断が必要です。そしてその希望は単なる自己実現ではありません。博士たちの目的は主イエスを礼拝することでした。神を礼拝する人生こそが、私たちの希望であり、それこそがまことのクリスマスの過ごし方でもあるのです。
 そしてヨハネの福音書はこの御子イエス・キリストの誕生を、神の愛の結晶として記します。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。クリスマスは神の愛のこの上ないあらわれです。クリスマスは父なる神の私たちへの信実のあらわれであり、私たちへの希望のあらわれです。私たちに愛を注ごうと決断し、そこに信実をあらわしてくださいました。私たちを神の子としようと希望の眼差しの中に私たちを見つめ、そのためにひとり子のイエス・キリストをお遣わしくださいました。父なる神がそこまでのことをしてくださったのはなぜか。それこそが父なる神の私たちへの愛なのです。このようにクリスマスに来られた御子イエス・キリストには、父なる神の信実と希望と愛とがあらわされているのです。

(2)最後に残るのは愛
 この朝与えられているIコリント13章13節にあらためて目を留めましょう。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」。パウロは前の12章で主イエス・キリストの教会が、聖霊によって一つとされた多様なキリストのからだであることを示し、それらの多様な賜物と務めを担う一人一人が一つに結び合わされるための最も重要な賜物が「愛」」であると説いていきます。これが「愛」の章と呼ばれる13章です。使徒パウロはここで、信仰も大事、希望も大事、でも一番大事なもの、最後まで残るもの、究極のもの、それが愛だというのです。
 私たちはすでに学んだことですが、ここでもう一度パウロがこの手紙を書き送ったコリント教会の姿を確かめておくことは意味あることと思います。コリントの教会は地中海沿岸の大都市コリントの町に建てられた大教会でしたが、その内側はありとあらゆる問題の山積した教会でした。人も多く、経済的にも豊かで、賜物にも富んだ教会でしたが、分裂分派、不品行、罪の問題をきちんと処理することのできない危機的状況にあったのです。そんなコリント教会に宛ててパウロは四通の手紙を書き送ったと考えられています。まずパウロはコリント教会の不品行ぶりを聞いて警告の手紙を書きました。さらにコリント教会から具体的問題への対処法への質問状が来たのでそれへの回答を記した手紙を書き、弟子テモテに託しました。しかし教会内の問題が解決されないのを見て、さらに厳しい処分を命じる手紙を書き送ります。その結果教会に悔い改めが起こり、問題が解決に向かうことを知って再び手紙を書き送ったのでした。こうしてみるとパウロが12章の後に13章を書いた心がよく分かるのではないでしょうか。コリント教会は確かに豊かな町の中にある豊かな教会で、人も多く賜物も豊かで実に活発な教会です。周囲からも一目置かれるような教会であったかもしれない。でも牧会者パウロの目にはコリント教会に決定的に欠けていたものが見えていた。他にどれだけ様々なものが数多く、豊かに与えられていても、これが欠けていてはなにもならないもの、それほどに決定的なもの、それが「愛」なのです。ちなみに今晩の夕拝ではIテサロニケ1章から「信仰、愛、希望」と題して説教をします。時間が許されればぜひ朝拝とセットで皆さんに聞いてほしいと願っています。
 待降節に入って、ボンヘッファーの著作を365日の日課に編んだ『主のよき力に守られて』を味わっています。その中で、ボンヘッファーが1934年に語ったIコリント13章の説教が数日に渡って記されていて、深く教えられました。信仰、希望を説いた後、それよりも大いなるものとしての愛について説く説教です。少し長くて難解な文章ですがご紹介しておきます。
「神に対する信仰をもって生きること以上に、また神に対して望みをいだいて生きること以上に大いなるものがあるとすれば、それは一体何であろうか。このはるかに大いなるものこそ、神に生きる愛である。
 創造者が被造物から無限に隔たっていることを決して忘れることのない、謙遜な信仰以上に大いなるもの、また神の来臨とその栄光を見ることをあこがれる確信に満ちた希望以上に大いなるものがあるとすれば、それは一体何であろうか。このはるかに大いなるものこそ、この世においてすでにいたるところで神の近さと臨在を確信し、神の愛に固着し、そして神の愛が、われわれの愛以外に何も望まないということを知る愛である。
 自分の救いをキリストの中に固持し、キリストによって義とされる信仰以上に、また時間ごとにキリストを喜ぶ希望以上に大いなるものがあるとすれば、それは一体何であろうか。このはるかに大いなるものこそ、他の人々のためにすべてを忘れて仕える愛、兄弟たちに救いを与えるために自分自身の救いすらも放棄する仕える愛である。
 信仰と希望とは、いつまでも絶えることがない。信仰なしに、あるいは希望なしに、愛を持つことができるとは決して考えないようにしてもらいたい。信仰のない愛は、水源のない川の流れのようなものである。それはまさに、キリストなしに愛をもつことができると主張するようなものである。信仰のみが神の前でわれわれを義とするのであり、希望がわれわれを未来に向けさせ、愛が完成させるのである。
  信仰と希望とは、愛に姿をかえられて、永遠の中に入っていく。終わりにはいっさいのものが愛とならなければならない。完成とは、愛のことである。しかしながら、この世における完成のしるしは十字架である。十字架は、この世で成就した愛が歩んで行かなければならない道であり、繰り返し歩んで行くことになる道である」。

(3)クリスマスからイースターへの道を
 「終わりにはいっさいのものが愛とならなければならない」。この言葉をこの朝、深く味わいたいのです。一年が終わろうとしています。来週が今年最後の主日です。この一年、皆さんそれぞれの生活においても様々なことがあったでしょう。新しく始めたこと、昨年から引き続きのこと、新しく得たもの、手放したもの、成し遂げられたこと、まだ途上にあること、解決できたこと、まだ先の見えないこと、祈って応えられたこと、今も祈り続けていること。皆さんそれぞれの事柄もそうでしょうし、教会としての営みもまた同じ琴が言えます。それらの一切をあらためて今振り返り、「一番すぐれているものは愛」との御言葉の前にそれらを置きたいと思います。そしてそれらが本当に愛によってなされたことであったかどうか、愛による吟味をしたいと願うのです。「終わりにはいっさいのものが愛とならなければならない」のです。
 そして最後に、ボンヘッファーが記した最後の一文に目を留めます。「完成とは、愛のことである。しかしながら、この世における完成のしるしは十字架である。十字架は、この世で成就した愛が歩んで行かなければならない道であり、繰り返し歩んで行くことになる道である」。私たちは今、一年の締めくくりの時を過ごしていますが、教会の暦では待降節から新しい一年の歩みがスタートしました。終わりではなく、始まったばかりです。そしてこのクリスマスからの歩みは明確にイースターに向けて進められていきます。そこには主イエスの地上の御生涯、すなわち十字架への道が横たわっているのです。
 今日、この礼拝でお二人の兄弟が洗礼を受けます。主イエスに結ばれて新しい歩み、神の子どもとしての歩みを始めます。キリスト者になるということはイエス・キリストのみを主と告白して生きる者となるということです。洗礼準備会の中で確認したことがありました。それはイエス・キリストを主と告白して生きることはいつの時代にも決して容易いことではなかったが、特にこれからの時代、この国でキリスト者として主を告白して生きること、その信仰の節を曲げずに生きることには困難が伴うようになる、迫害の時代が必ずやって来る。その覚悟をしてほしいということでした。私たちがここから歩み出す道は完成に向かう道ですが、しかし愛に至るには十字架を忍んで歩まなければなりません。私たちが今日から歩み出す日々は、十字架を通って復活に至る道です。苦難を通って栄光に繋がる道です。だからこそ信仰が必要であり、希望が必要であり、そして何といっても愛が、愛が必要なのです。先週の日曜日、選挙の結果を見て正直かなり気落ちしました。しばらく新聞もニュースも見る気が失せました。でも気を取り直して、祈りの中で覚悟を決めました。信仰と希望と愛。これで進んでいこうとあらためて決心したのです。この国はすでに大きく舵を切りました。主の御心とは正反対の方向に向きを変えたのです。では私たちはどうするのか。その方向に歯止めをかけなければならない。何に拠ってか。十字架によって、です。十字架の愛によってこの流れを止め、棹さし、立ち続け、なお流れに逆行するようにしてでも主の御心に歩み続けなければなりません。そのためにも一層私たちは主を信じ、主に希望を持ち、主を愛して生きたいと願いますし、主が信実を尽くし、希望を与え、愛を注ぎ続けてくださることになお信頼し続けたいと願います。



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