待降節第三主日説教  2012/12/16
『愛に満ちるクリスマス』

エペソ3:17-19
 
 待降節第三主日の朝を迎えました。いよいよ次週には今年の降誕節、クリスマスを迎えようとしています。今年の待降節は「信仰・希望・愛」というテーマで礼拝毎に主の御言葉に聴き続けています。あらゆる事柄への不信が増し加わる時代の只中にあって、それでも信じるに価する言葉、信じるに価するお方がおられる。どこにも望みなど見出せない暗闇に包まれた失望の時代の只中にあって、なお待ち望むことのできる確かな希望がある。互いに憎しみと敵意、恐れと疑いが渦巻く時代の只中にあって、それでもなお愛することを諦めず、愛を注ぎ続けていてくださるお方がおられる。やはり私たちは愛を必要としています。そして愛された者は互いに愛し合う。愛されることよりもまず愛を知った者からその愛を分かち合う。信仰がなければ愛を信じることができない。希望がなければ愛を分かち合うこともできない。私たちはこの朝、人となって来られた御子イエス・キリストにあらわされたまことの愛を受け取ってまいりたいと願うのです。

(1)キリストを心のうちに
 この朝与えられているエペソ人への手紙3章17節から19節では、パウロのささげる三つの祈りが記されています。第一の祈りは17節。「こうしてキリストがあなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」。クリスマスに歌われる賛美で、主イエスのお生まれからその御生涯を歌った聖歌136番はこんな歌詞です。「みかむりをも汝は捨てて世に降りまししに、ただの一間さえも空けて迎うる家なし。住みたまえ君よ、ここにこの胸に」。私たちを愛し、私たちを罪と滅びの闇の中から救い出すために光のもとから闇の只中へと飛び込んできてくださった御子イエス・キリストを、地上において迎える人はいなかった。それが最初のクリスマスの光景です。しかし一番に主イエスをお迎えする場所、それが私たちのうちに、ということです。
 今日の礼拝後に洗礼の試問会が持たれます。二人の兄弟が誠実に礼拝に集い、聖書を学び、主イエスに対する信仰を告白し、洗礼を受けて教会に加えられようとしています。教会にとっての一番の喜びの時です。毎回申し上げることですが、牧師の特権で皆さんよりも一足先に救いの証しを読ませていただきました。お二人ともそれぞれ自分の言葉で、正直な証しを記してくださいました。主イエスと出会い、主イエスの愛を知り、主イエスの十字架を自分のための信じ、主イエスを心にお迎えなさった。これからは聖霊によって主イエスがずっとうちに住んでいてくださる。まさにクリスマスに一番相応しいことがここで起こっていると確信しました。クリスマス。それは神の愛が具体的に姿かたちをとって私たちのもとにお出でくださった御子イエス・キリストをお迎えする日です。この方を信じ、この方に望みをおき、この方の愛を受け取るとき、そこに私たちは本当の愛を知り、経験することがゆるされる。ひとりの人が救われて洗礼を受け、教会に加えられるという出来事は、まさにキリストが私たちのうちに住んでくださる。それは単に主イエスを信じたその人だけでなく、その人とともにキリストのからだである教会を形作る私たちのうちに、キリストがお出でくださり、私たちのうちに聖霊によって住み込んでくださるという恵みの出来事なのです。

(2)人知を越えた愛を知る
 第二の祈りは17節から19節です。「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」。私はいつもこの御言葉の前に来るとある戸惑いを覚えます。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」というパウロの祈りが矛盾のように聞こえるのです。「人知を越えた」愛を、どうして人が知ることができるのか。かつて人間が経験したことも、知ることもない愛を知るように、人が知ることができないものを知れというのですから無茶な祈りでしょう。そもそも私たちはいったいどれほどに愛を知っているのだろうかと思います。確かに「愛する」ということを私たちは口にし、また耳にします。教会ほど「愛」という言葉を数多く語り聞く場所はあまりないかもしれません。しかしそれで私たちが他の人以上に愛を知っているのかというとどうでしょうか。互いに愛し合いましょうと教えられている私たちですが、本当に隣り人のために愛を分かち合っているでしょうか。他人の重荷を担うことをしているでしょうか。むしろ皆が自分のことばかりを優先して、他者の重荷に対する関心や想像力を薄めているということはないでしょうか。いつも誰かに重荷を背負わせたままで、そうしていることにも気づくことなく、当たり前のように過ごしてしまっているということはないでしょうか。教会の交わりの中で愛を知ること、愛をあらわすことが足りないとすれば、どうして他の人々に愛を分かち合うことができるでしょうか。
 私自身も先週来こうして「愛」を語るために祈り備える中で主から示されているのは、何と自分が愛のない、愛の薄い、自分勝手な人間であるかという惨めな思いでした。教会の兄弟姉妹たちに対する愛、親に対する愛、同労者に対する愛、子どもたちに対する愛、妻に対する愛。どれ一つとっても本当に愛のない自分の姿と向き合って愕然とする思いになりました。私もまた確かに愛を知り得ない者であることを告白しなければなりません。けれども御言葉はこの不可能な祈りを実現させるためにこう言うのです。「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり」と。「その」という言葉が指しているのは「キリストの愛」です。ですからキリストの愛の持つ「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つように」という祈りをもパウロはここで捧げているのです。ここで私たちが気づかされるのは、パウロがこの実現不可能と思えるような祈りをどこに立って捧げているのか、ということでしょう。つまりここでパウロはこの祈りをキリストのただ中にあって祈っているという事実です。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを見渡しているパウロ、彼はその愛のまっただ中に立っている。そこからキリストの愛の地平の広さに目を見開き、その愛の長さをはるかに見渡し、その愛の高さを圧倒されるような思いで仰ぎ見、そしてその愛の深さを身を低くして見据えているのです。つまり、人知を越えたキリストの愛を知るとは、この愛を外から眺めてあれこれ論じ、研究し、分析し、解釈するということでなく、その愛のただ中に自分を置く、神に愛されている自分自身を発見することです。キリストの愛を知るためには、キリストの中にあってキリストの愛で愛される以外の方法はないのです。
(3)キリストの愛に迫られ、満たされて
 こうしてキリストの愛の只中に身を置いて、その愛の広がり、奥行き、高さ、深さを知るときに、私たちがどのような存在とされていくのかが第三の祈りにおいて明らかにされます。19節後半。「こうして、神御自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」。このキリストの愛の只中にあって満たされていく姿というのは、パウロの記したもう一つの御言葉と合わせて受けとめておきたい教えです。IIコリント4章14節です。「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」。キリストの愛の只中にあって満ち満ちたさまにまで満たされていくという姿。それは何かただ愛の中に佇んでいるという静的な、スタティックな姿ではなく、むしろキリストの愛に取り囲まれ、迫られ、突き動かされていく、動的な、ダイナミックな姿なのだということです。それはまさにパウロという人の生き様にあらわされたものであり、何といっても私たちにその愛を注ぎ込んでくださった御子イエス・キリストが私たちに求めておられる姿なのではないでしょうか。パウロは言うのです。15節。「私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」。クリスマスに私たちのもとに来てくださった御子イエス・キリストが、その愛の中に私たちを迎え入れ、その愛の只中に私たちを置かれるのはなぜか。それは私たちがこのキリストの愛の迫りを受けて、この方のために生きる者とされるためなのです。そうやってキリストの愛の迫りから逃げず、その愛を正面から受けとめて、その愛の中に巻き込まれて私たちが愛に生きる者とされるとき、私たちは神御自身の満ち満ちたさまにまで携え挙げられていくのです。
 金曜日の晩に、十数年ぶりに母校のクリスマスコンサートに出かける機会がありました。私たちが神学生の頃はメサイヤを歌うのが習わしでしたが、今回はメサイヤだけでなく様々な賛美が捧げられた豊かなひとときでした。しかし今回のコンサートに出かけた一番の理由は、教会音楽の働きで大きな貢献をなさった天田繋先生が11月に突然に天に召され、そのメモリアルコンサートでもあったからです。家内はTCCの教会音楽専攻卒ですから直接の教え子なのですが、私も在学中にクワイアのリーダーをしていたこともあり天田先生にはずいぶんとかわいがっていただきました。コンサートの最後に会衆全員で天田先生作曲の「キリストの愛、我に迫れり」とメサイアの「ハレルヤ」コーラスを歌ったのですが、十数年ぶりだったのに歌詞を見ずにベースパートを歌うことができた自分に驚きを感じるほどでした。「キリストの愛、我に迫れり」は私たちにとって校歌のように親しんできた愛唱歌であり、在学中に幾度となく歌ってきた歌です。私がこの歌を最初に聞いたのは高校一年の冬、父の葬儀の時に天田先生の指揮で父の神学校の教え子の方々が歌ってくださったのを聞いた時でした。以来、いつもこの歌を歌うと心に込み上げてくるものがあります。作詞は山口昇先生ですがこんな歌詞です。
「 罪深き我が身に代わり、キリストは十字架につき、いのちさえ惜しまず捨てて、贖いを成し遂げたまえり。キリストの愛、我に迫れば、我がいのちきみにささげて、ひたすらに主のために生く。
 値なき我さえ召して、キリストは良きおとずれを、世の人に携え行けと、手を置きて遣わしたまえり。キリストの愛、我に迫れば、我がいのちきみにささげて、ひたすらに主のために生く。
  我がいのち尽きるそのとき、キリストは栄えの冠、与えんと誓いたまえば、今日もまた御業に励まん。キリストの愛、我に迫れば、我がいのちきみにささげて、ひたすらに主のために生く。」
 キリストの愛に迫られ、キリストの愛に満たされたならば、キリストのために生きざるを得なくされる。それがキリストの愛の力です。この愛に満たされて遣わされていく私たちでありたい。この世界は愛を必要としています。愛を人々が知るには愛されることが必要です。愛を信じることができず、愛に失望している多くの人々がいる。そこに私たちは遣わされていく。愚かしいほどに、愚直なほどに、でも愛を諦めず、愛を信じて、愛を分かち合う者として遣われていく者でありたいと願います。



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