待降節第二主日説教  2012/12/09
『希望のクリスマス』

ヘブル11:1
 
 待降節第二主日の朝を迎えました。先週のチャリティコンサート、昨日の子どもたちのクリスマス会も祝福のうちに終わり、一つ一つのクリスマスの集いが守られていることを感謝します。この朝は、私たちの希望である御子イエス・キリストのお姿を御言葉を通して見つめてまいりましょう。皆さんお一人一人の上に主の祝福が豊かにありますように祈ります。

(1)闇の力の恐ろしさ
 今年の待降節の礼拝では「信仰、希望、愛」を主題に御言葉に聴き続けています。今日はその二番目、「希望」がテーマです。今回のアドベントの説教箇所について祈り考えている中で、この「信仰、希望、愛」ということは比較的すんなりと心に落ち着いたのですが、実際にアドベントの季節に入り御言葉を備える中で、「希望」を語ることの困難さを覚えるようになってしまいました。実際に私たちの目の前に広がる現実、耳に飛び込んでくるニュース、足もとが揺さぶられる出来事、どこを見渡しても希望などありはしないではないか。どれだけ祈っても現実はちっとも変わらないではないか。むしろ世界はどんどん悪くなる。悪しき者たちが力を得て、得意げに跋扈しているばかりではないか。そんな思いが頭をもたげてきてしまったのです。希望を語りたいと思いながらも、むしろ失望する思いが覆い被さってくる。御言葉を語ろうとしながら、その御言葉を自らが信じることができない。大変しんどい一週間を過ごしました。その中で気づかされたことがありました。ああこれが闇の力の恐ろしさだなということです。光のほうから闇の方へと私たちを引きずり込もうとする闇の力、それは悪しき力、サタンの力です。それは私たちを虚無の中へ、むなしさの中へ、あきらめの中へと引きずり込んで行こうとします。
 そんな中である説教を聞きました。友人牧師たちから勧められていたのですが、なかなか時間がなくて落ち着いて聴く機会がなかったのですが、思い立って失礼ながら仕事をしながら音声だけを流して聞こうと思ったのです。ところが冒頭の祈りの言葉から引き込まれてしまいました。今の世の中の不条理、悲惨、罪の現実を掬い上げるような祈りの中で、キリストがいてくださる。キリストを見つめよう。そう促される祈りでした。それで結局、机の前で居住まいを正してその説教に聞き入ることになったのです。これは実に幸いな説教聴聞の経験でした。ああ自分も失望、絶望の闇の中に捕らわれかけていたのだな、自分も御言葉に飢え渇いていたのだなと実感したのです。そしてこの闇の中から抜け出す道を教えられました。闇から抜け出すために必要なこと、それは光のもとなる御子イエス・キリストをまっすぐに見つめるということでした。この朝、与えられているヘブル書11章1節に次のように記されています。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです」。ヘブル書の著者は、信仰というものを希望に対する保証と確信と言い表します。そしてひたすら主なる神にのみ望みをおいて生きた信仰者たちの数々の生き様、死に様をつぶさに書き記した後、12章1節、2節でこう言います。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」。そしてさらに13章7節、8節ではこうも言うのです。「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです」。このようにヘブル書は、私たちが見つめるべきお方が、ただイエス・キリストのみであり、このお方にこそ、私たちの希望があることをはっきりと語るのでした。

(2)忍耐と励ましの神
 その上で、私たちがこの朝教えられたいと願うのは、主を待ち望む信仰の姿勢です。聖書の中には、希望といつもセットになって出てくる言葉があります。その一つが「忍耐」です。ローマ書5章1節から5節に次のように記されています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。患難、忍耐、練達、希望。この繰り返しの中で、聖霊によって神の愛が注がれていることを深く味わうことができる。それによって整えられていく信仰の姿勢。それは決して一朝一夕に出来上がるものではありません。それでも私たちは患難の中で忍耐を学び、忍耐を通して品性が練り上げられ、その品性から希望が生み出されることを信じて生きていくのです。
 同じローマ書15章5節でパウロはこうも言っています。「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように」。ここでパウロは主なる神のことを「忍耐と励ましの神」と呼んでいます。私たちに希望を与えてくださる神様は、同時に私たちに忍耐を教え、またその中で私たちを励ましてくださるお方なのです。忍耐と励まし。それは待ち望む日々を生きる私たちにとって、実にかけがえないものです。忍耐が与えられなければ様々な困難の続く中で希望を失わずに待ち続けることはまことに難しいことです。励ましがなければ、たった一人では希望を持って立ち続けることは到底できないことでしょう。今も多くの兄弟姉妹たちが忍耐に忍耐を重ねる日々を過ごしておられます。家族の問題、仕事の問題、健康の問題や自分自身の将来の問題、夫婦関係、親子関係、友人関係など様々な関わりにおける困難を抱える中で、なかなか先行きの視野が開かれない、出口が見えない苦しみを味わい続け、一進一退を続けながら、本当に前に向かって進んでいる中も時に分からなくなり、もうすべてを投げ出してしまいたくなりそうになることがある。「もういい」と全部放り出してしまえたらどんなに楽になるだろうかと思う。
 けれどもそのような中でなお諦めずに、忍耐をもって私たちを支えていてくださるお方がおられる。諦めてはいけない、投げ出してはいけない、わたしがあなたとともにいるよ、あなたを見捨てることはしない、あなたを放り出すことは決してしないと励まし続けてくださるお方がおられる。それが私たちを愛してやまない忍耐と励ましの神ご自身なのです。
 
(3)我らの望みの神
 さらにもう一つ、この朝私たちが心に留めたい御言葉が、ローマ書15章12節、13節です。「さらにまた、イザヤがこう言っています。『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける』」。これは旧約聖書イザヤ書11章10節の救い主メシヤの預言の言葉です。エッサイの根株から起こる若枝、それがダビデの子孫としてお生まれくださった神の御子イエス・キリストです。主イエスは今やすべての者たち、そこには異邦人である私たちも含まれていますが、この私たちを統べ治めてくださる王の王なるお方であられ、「異邦人はこの方に望みをかける」といのです。まさしく御子イエス・キリストこそが私たちの望みの神であられるのです。イスラエルの民はこのイザヤの預言の成就を待ち続けました。いったいどれだけ待ったのか、イザヤの時代から主イエスの誕生の時まではおおよそ七百年と言われます。そんな長い時間、しかし彼らは救い主の来られることに望みをかけてひたすら待ち続けたのです。ちょうど水曜の祈祷会で旧約聖書を一書ずつ学び続け、先日で旧約最後の預言書マラキ書を学び終えました。マラキへの預言を最後に主の語りかけは途絶え、沈黙の時代に入ります。その間およそ四百年。メシヤの約束はいったいどうなってしまったのかと人々が訝るほどの長い沈黙です。しかもその間のユダヤの歴史は祖国の侵略、抵抗、独立戦争、そして敗北、属国への道を辿るという苦難を味わう激動の時代でした。それでもその時の間、人々は救い主を待ち続けた。諦めることをしなかったのです。
 しかしそれ以上に私たちが覚えたいのはこのことです。すなわち主なる神が私たちの救いを成し遂げると決意してくださり、そのために罪深い私たちの繰り返す罪にもかかわらず、私たちを見捨てず、私たちを諦めず、何としてもあなたを救うと決意し、それを実行してくださった。まさに神ご自身が忍耐の神であられ、そして希望を捨てない真実な神様なのです。それで御言葉は語ります。13節。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」。忍耐と励ましの神は、私たちにとっての望みの神であられます。私たちを愛し、私たちを救うために決して絶望しないお方です。私たちが何度神様に背き、何度神様を悲しませ、何度神様を裏切ってきたことか。にもかかわらず、父なる神は何度でも御子イエス・キリストの十字架の愛を示して、この愛の中に来るようにと招いてくださり、その愛の中に生きるようにと今、聖霊を私たちのうちに送っていてくださるのです。私たちが今年も御子イエス・キリストの御降誕を待ち望んで生きることができるのは、御子を賜るほどに私たちを愛してくださる父なる神が、私たちへの望みを捨てずに、私たちに平和と喜びを満たし、今日もうちに住みたもう聖霊の神の恵みによって、私たちのうちに望みの神を待ち望む信仰を与えていてくださるからなのです。この希望は決して失望に終わらない。なぜなら私たちの望みの神が、聖霊によって今日もご自身の愛を皆さんお一人一人の心に注いでいてくださるのです。
 先週一冊の詩集を買い求めました。週日に聴いた説教の中で取り上げられていたヨッヘン・クレッパーというドイツの宗教詩人の「キリエ」、主よあわれみ給え、というタイトルの小さな詩集です。ナチ・ドイツの時代に生きた信仰者で聖書の御言葉とルターの言葉に根ざした優れた賛美の歌を記した詩人です。彼はふたりの娘を連れたユダヤ人の未亡人と結婚し、家庭を築いていましたが、やがてナチによるユダヤ人迫害が強まる中で娘と妻とが強制収容所に連行される日が近づいてくる。何とかそれを回避しようと彼はあらゆる手だてを尽くすのですが、どれもうまくいかずに遂にその日がやって来る。そんな中で彼は家族を連れて自ら死を選ぶのでした。39歳の時です。まことに悲劇的な出来事なのですが、しかし彼の残した詩の中には、最後までキリストの愛を信じ、その愛にすがり、御言葉に対する信頼をゆるがせにしなかった彼の信仰が溢れ出ています。「朝の歌」という詩の終わりに次の一節がありました。「今日、この日がどんなに暗くても、御言葉はなおも必ず光輝く」。この希望に生きる私たちでありたい。神の生けるみことば、イエス・キリスト。このお方を信じ、このお方に望みを置き、堅い信頼をもってキリストに従う歩みをここから初めて参りましょう。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです」。



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