降誕節記念主日説教 2011/12/25
『光のクリスマス』

ヨハネ黙示録21:23-27
 
 2011年の降誕節記念の主日を迎えました。御子の御降誕を祝い、主にある挨拶を申し上げます。クリスマスおめでとうございます。また今朝は今年最後の礼拝でもあります。一年五十二回の主日礼拝の歩みが守られたことを覚え、主の御前に悔い改めと感謝をもって一年を締めくくってまいりたいと思います。
 この朝も、愛するひとり子を賜るほどに私たちを愛してやまない父なる神からの大いなる祝福が、皆さん一人一人の上に豊かなにありますようお祈りいたします。

(1)光を必要とする私たち
 今年の待降節はマタイ福音書の御言葉に聞いてまいりましたが、クリスマスのこの朝は、ヨハネ黙示録に記された御言葉に聞いてまいりたいと思います。昨年のクリスマスもヨハネ黙示録22章の御言葉が開かれました。クリスマスとヨハネ黙示録との間に隔たりを感じる方もあるかもしれませんが、二千年前に人としてこの地上にお出でくださった御子イエス・キリストを迎えるクリスマスと、十字架に架けられ、三日目によみがえられて天へと挙げられ、今、父なる神の右の座に着いておられる御子イエス・キリストがやがて再び私たちのところに来てくださって、神の国を完成してくださる、この主の再臨への待望とは、深く結びついた私たちの信仰の核心であり、その意味でも御子の初臨であるクリスマスの記念の礼拝で、御子の再臨を指し示す黙示録の御言葉が開かれることはふさわしいことと言えるのです。
 昨晩のイブ礼拝でも申し上げたことですが、今年のクリスマスを迎えるにあたり、私自身の中に強く覚えさせられているのは、主イエス・キリストは希望の光だということです。今までもそれは自分自身の中にあった信仰の認識でしたが、この年の歩みを続けてくる中で、あらためてイエス・キリストが光なるお方だということ、そして私たちが本当に希望の光を必要としているということをリアルに実感してまいりました。それはそれだけこの年、暗闇の現実というものを強く体験させられたからだとも思うのです。暗闇の現実、それは言い換えれば死の現実と言ってもよいかも知れません。今になっては大袈裟な物言いに聞こえるかも知れませんが、3月14日の夜、車に一杯の救援物資を積み込んで東京を出発し、翌15日の早朝、福島に向かう車中で「死のリアリティー」というものを初めて味わったように思います。12日、14日にすでに福島原発一号機、三号機が水素爆発を起こし、私たちがもうすぐ県境に向かうと言う時間に二号機、四号機からも爆発音がして、携帯電話で安藤先生、山口先生から東京に戻ってくるようにと指示が出されて一端大洗まで戻ったのですが、吉持先生と祈って相談した結果、やはりいわきに向かうことになったわけですが、六号国道の反対車線をいわき方面から続々と南下してくる車列を横目に、全く車のない下り車線を進みながら、死ということを現実的に考えたことを今でも思い起こします。また陸前高田の町で真っ暗闇の中、瓦礫の街の只中に身を置いたときに感じた言いようのない恐怖心は、今でも忘れることがありません。私たちは光を必要としている。人工的な光でなく、私たちを天から照らすまことの光を、希望の光を必要としている。これがこの年の終わりに心に強くあるメッセージです。

(2)太陽も月も、夜もない都
 このように光を必要とする私たちにとって、長老ヨハネが見た聖なる都、新しいエルサレムの姿は希望に溢れています。23節から26節をお読みします。「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る」。ここでヨハネは、聖なる都には太陽も月もいらないのは、「神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」と言われます。神が御自身の栄光によって全地を照らし出してくださる。もはや闇が存在するところがないほどに、地の隅々までを主の栄光が覆ってくださる。そして何よりも小羊イエス・キリスト御自身が都のあかりとして、私たちを照らしてくださるのです。この御言葉から思い起こされるのは、旧約聖書のイザヤ書60章19節、20節の御言葉です。「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである」。特にこの20節の「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日は終わる」とは、なんと希望と慰めに満ちた言葉でしょうか。いつまでも消えることがないと思える私たちに人間の嘆き悲しみにピリオドが打たれる時が来る。もうそれ以上嘆き悲しむ必要のない、まったき平安、まったき慰め、まったき癒し、まったき喜びの時が来る。主なる神ご自身が私たちを照らすまことの光となってくださるならば、その光の前ではいかなる人生の暗闇も吹き払われてしまうのです。
 かつて岡山の小さな伝道所で奉仕していた時に、教会に来ていた一人の兄弟がいました。前にもご紹介したことがあるかも知れません。長く心の病を患って、でもその病と一緒に長く生きてきた兄弟です。自称「ビートジェネレーションの詩人」で、時々自作の詩を作っては聞かせてくれました。具合が悪くなると時々呼び出されて自宅を訪ねることがありました。カーテンを閉め切って真っ暗な部屋の中にじっと座って、妄想と戦っていました。でもある時、救いを求めて洗礼の恵みにあずかったのです。やがて私たちがその群れを去ってから、一人で部屋で亡くなっていたのが分かり、誰も身寄りがなかったため教会の皆さんで葬儀を出し、天国に送り出してくださったことを聞きました。生涯孤独であった兄弟でしたが、今は天の御国で神の家族の中にいる。主が彼を暗闇の中から光へと移してくださり、今は、もう嘆き悲しむ必要のないまったき光の中に置いていてくださることを思い、深く慰めを与えられるのです。ヨハネはここで新しい都には「夜がない」とも言います。神の栄光の輝きのあるところでは、それに替わる光はもはや必要がない。そればかりでなく、神の栄光の輝きのあるところでは、もはや私たちを不安の中に陥れ、孤独と恐れの中に縛り付け、先の見えない絶望の淵に立たしめる「夜」の闇そのものがなくなるというのです。ヨハネは「夜」が必要とされない新しい聖なる都の姿を、21章4節では「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」と表現し、22章3節では「もはや、のろわれるものは何もない」、そして5節で再び「もはや夜がない」と言います。すなわち私たちの最大にして最後の敵である闇の力、すべてをその中に呑み込んでいこうとする死の力そのものがもはや過ぎ去っていく。ここにこそ、聖なる都がもたらす新しい希望があるというのです。

(3)開かれた都
 最後にもう一度25節をお読みします。「都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る」。先の21章12節以下には、聖なる都の町囲みの城壁にそれぞれ東西南北三つずつ、あわせて十二の門があると記されました。ここではそれらの門が一日中決して閉じることがない、と言われます。そもそも古代パレスチナの都市において城壁が築かれるのは、外敵の侵入を防ぐためでした。それで城壁の門の所には必ず武装した門番が立ち、町への出入りを管理していましたし、夕暮れを迎え、日が沈んで夜になれば城壁の門は固く閉ざされ、閂によって厳重に締められていたのです。それで町囲みの門の外に追い出されるということは、もはやその身を守ってくれる保証を失うことを意味していたのでした。ところがヨハネが見た聖なる都においては、それらの門が開放されたままとなっていて閉じられることがない、まったくの自由と解放の姿、無防備といってよいほどの姿でそこにあるというのです。それは「夜がない」からと説明されますが、つまり夜になると侵入を試みるような敵というものがもはや存在しない、また門の内側と外側とに分け隔てられることのない世界が姿を現すことを意味しているのです。
 新しい会堂のことを祈り続けています。少しずつですが前進していると言えるでしょうか。祈りの中で思い描く教会の姿、それはこのような門のない教会、いつでも開かれた教会、誰も分け隔てられることのない教会。そんな姿です。クリスチャン新聞のクリスマス特集号に掲載されましたので読んでいただけるとよいのですが、10月の終わりに聖学院大学が主催して主催して開かれた震災に関する神学シンポジウムに出席し、その様子を記しました。組織神学者、聖書学者、牧師、精神科医の四名の方がそれぞれの立場から発題されたのですが、一番私の印象に強く残ったのは、岩手の釜石から来られた引退牧師の先生のお話でした。私もその教会をお訪ねしましたが、津波で会堂の天井近くまで波をかぶって大きな被害を受けた教会です。改修工事のために壁を剥がし、柱だけになった教会に人々が集まって来ている様子を紹介しながら、壁がなくなって教会の風通しがよくなった。壁のない教会はいいものだ、とおっしゃったのです。いままでの知らず知らずのうちに張り巡らしていた壁が消えてなくなり、教会に誰もが入りやすくなったというのです。
 今日、この礼拝でお一人の姉妹が転入され、この後、二人の小学生の洗礼式が執り行われます。今年、私たちの教会には四名の受洗者と六名の転入者が与えられました。皆さん、それぞれ世代も、国も、生い立ちも、ここまでの人生の道のりもみな違う。でも神の招きによって迎えられるところでは何の隔ても、妨げもない。みな主にあって神の家族とされている。本当に幸いなことだと思います。まさにこの礼拝は、終末における天の御国、聖なる都エルサレムでの礼拝の先取りです。もはや太陽も月も夜もなく、いつでも都への門は開かれ、人々は分け隔てされることなく、誰でも主の御名を呼び求め、小羊イエス・キリストを信じて仰ぐなら、その都の民となることができる。どんなに深い闇の底からでも、どんなに遠い隔たりの彼方からでも、御子イエス・キリストの光、希望の光は、私たちのもとへ届き、私たちはその光の中にまったき救いを見ることができる。光以上の光、真の光なるイエス・キリストは、今も私たちとこの地を照らし、御自身の民を尋ね求めていてくださいます。そのために御子イエス・キリストは闇の中に輝く光として来てくださいました。この光を仰いで、永遠の都を目指す旅路をここからまた歩み出してまいりたいと願います。



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