待降節第四主日説教 2011/12/18
『喜びの傍らで』

マタイ2:13-23
 
 待降節第四の主日を迎えました。いよいよ今週末にはクリスマスイヴの燭火礼拝、そして次週は今年最後の主日をクリスマス礼拝としておささげしようとしています。御子イエス・キリストの御降誕の恵みを喜びの中に待ち望みつつ、一年の締めくくりに向けての歩みを整えてまいりたいと思います。愛する兄弟姉妹の皆さんの上に、この朝も主の大いなる祝福がありますように祈ります。

(1)モーセと御子イエス
 毎年、この季節には聖書に記されたクリスマスの御言葉を説き明かし続けていますが、私自身が今まで一度も取り上げたことのなかった箇所があります。それが今日与えられているマタイ2章13節からの御言葉です。意図的に避けてきたつもりはないものの、どこかでクリスマスの季節に取り上げることに何かしらの躊躇いを感じてきたのも事実と思います。この朝の説教題を「喜びの傍らで」としました。クリスマスの喜びの出来事、光の出来事の傍らに、私たちが目を留めなければならない闇の現実、悲しみの現実がある。しかし私たちが本当のクリスマスの恵みを受け取るためには、避けて通ることの出来ない現実であろうと思うのです。この年の待降節にマタイ福音書を取り上げようと導かれた一つの理由も、この御言葉ときちんと向き合わなければならないという思いを与えられたということがあります。そこから見えてくる真の光を私たちはこの朝、ともに見つめたいと思うのです。
 マタイ福音書は東方の博士たちの訪れを描いた後に、再び主の使いのヨセフへのお告げを記します。この福音書において御子イエスの父ヨセフが言葉を発しない姿をすでに見ましたが、それとともに目に留まるのは、言葉を発しないヨセフが同時に御使いのお告げを受けてすぐさま従っていく姿です。ヨセフの沈黙は、彼の主体性のなさのしるしではなく、むしろ彼の決断と服従のしるしなのです。13節から15節。「彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。』そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。』と言われた事が成就するためであった」。ここにはヘロデの手を逃れてエジプトへ下るヨセフ、マリヤ、幼子イエスの姿が記されます。さらに後の19節から21節でも「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。』そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった」として再び御使いのお告げを受けたヨセフが、今度はエジプトからイスラエルに帰還する姿を描くのです。
 ここで私たちはこれらの出来事の意味を伝えるマタイ福音書のメッセージに注目したいと思います。すでに触れたことですが、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書のうちクリスマスの出来事を記すのはマタイとルカです。この二つの福音書のクリスマス物語はそれぞれ重なり合うところが少なく、それぞれの福音書が独自に記録する出来事が多くあるのですが、ルカにはない大きな出来事がこのヨセフ一家のエジプト下りです。マタイ福音書はこの出来事を「これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。』と言われた事が成就するためであった」といって旧約聖書との結びつきで示します。多くの聖書学者たちが指摘するのですが、マタイはここで御子イエス・キリストを旧約聖書出エジプト記のモーセの姿と重ね合わせて描き出していると言われます。モーセは神の民イスラエルをエジプトの地から連れ出したリーダーですが、彼自身の誕生の時にも当時のエジプト王パロの命令で多くのイスラエル人の男の赤ん坊が殺されるという悲劇がありました。そんな中モーセはナイルの水の中から引き出され、まさに「引き出す」という意味の名前、「モーセ」と名付けられたのです。マタイは「水の中から引き出されたモーセが神の民をエジプトから引き出す」という姿と、「エジプトへ引き出された御子イエスがやがてエジプトから引き出される」という姿の重なりを描くことで、主イエス・キリストこそが私たちにとってのモーセ、私たちを奴隷の状態から引き出してくださるお方だと語っているのです。
 
(2)喜びの傍らで
 クリスマスの出来事の中で、私たちが避けて通ることのできない喜びの傍らでの出来事、それが16節から18節に記されるヘロデによる恐るべき幼子殺しの出来事です。「その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。『ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ』」。ヘロデの怒りの理由は自分の与り知らないところで自分に次ぐ王が生まれた事実と、それについて博士たちが自分に情報を入れずに別の道から帰っていったことにありました。ヘロデは人一倍権力欲とともに猜疑心の強い人物で、自分の立場を守るためには周囲の側近たちまでも粛正していくような人物であったと言われます。そんなヘロデですから、幼子一人にすら怒りを燃やすことも想像がつくところですが、それにしても二歳以下の男の子たちを一人残らず殺させるという暴挙には言葉を失います。一人のいのちの誕生の傍らで、多くのいのちが失われていく。ある人は言うかも知れません。幼子イエスのために何の罪もない幼子たちのいのちがこんなにも多く失われるなどということが許されてよいのか、あるいはまた、博士たちが正直に幼子イエスの居所をヘロデに伝えていればこれほどの幼子のいのちが奪われることはなかったのではないかと。結局のところキリスト教もエゴイズムではないか。救い主イエスといっても自分のいのちを守るために他人のいのちを犠牲にしているではないかと。キリスト教は博愛の宗教であり、自己犠牲の宗教であり、人のいのちはみな平等なのではないかと。幼子イエスのいのちが差し出されればそのひとりの犠牲で済んだのではなかったのかと。これほどの悲劇が起こっていながらそれでいて無邪気にメリークリスマスと言っていてよいのかと。
 特にここでヘロデの兵士たちによって我が子のいのちをあっけなく奪い取られた親たちの怒りと悲しみ、やりきれなさはどれほどのことであっただろうかと想像するのです。ヘロデ一人のわがままな怒りのために、どうして我が子のいのちがむごたらしく奪われなければならないのか。持って行き場のない怒りと悲しみにどれだけの父親たち、母親たちが方を震わせたであろうかと思います。時に教会はこういうやりきれなさの残る箇所を様々な聖書の解釈で乗り越えて来ました。しかし私たちはこの朝、この不条理な出来事を安易に乗り越えることなく、やりきれなさや躊躇いをそのままに抱きながら、クリスマスの喜びの傍らにあるこの悲しみの出来事をもしっかりと受け取ることが必要なのではないかと思います。その悲しみに目を向けることなく、ただただ明るさと喜びだけを見ようとするならば、もしかすると本当のクリスマスの意味を受け取ることすらできなくなるのではないかと思うのです。

(3)父なる神の御思いに沿って
 その上で、私たちは御子イエス・キリストを私たちのもとにお遣わしくださった父なる神の御思いに私たちの心を向けたいと思います。今日の御言葉の中で、マタイはそれぞれの出来事が旧約聖書の預言の成就であったといって三つの言葉を記しています。一つめは15節。「これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。』と言われた事が成就するためであった」。二つめは18節。「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。『ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ』」。そして三つめが23節。「これは預言者たちを通して、『この方はナザレ人と呼ばれる。』と言われた事が成就するためであった」。
 先ず最初の引用はホセア書11章1節からですが、その後に続く4節までを見ましょう。「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを胸に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、やさしくこれに食べさせてきた」。ここでは父なる神が預言者ホセアを通してかつてエジプトに捕らわれていた民を救い出したにもかかわらず、その後、なお背信を重ねて滅びに突き進んでいったイスラエルの民を、それでもなお父なる神が愛をもって「わたしの子」と呼び、忍耐を持って養い続けてこられたその真実な愛の姿が語られるところです。父なる神がかつてご自分の民をエジプトから助け出すためにモーセを立てたように、今や父なる神は罪の奴隷となっている私たちを、それでもどこまでも愛し貫き、助け出し、ご自分の子にするために御子イエス・キリストをお遣わしくださった。この父の愛がここに示されているのです。
 二つめの引用はエレミヤ書31章15節です。「主はこう仰せられる。『聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている』」。ここでも主なる神は預言者エレミヤを通して御自身の愛を示されます。ラケルとはかつての創世記における族長ヤコブの最愛の妻、そして出エジプトのきっかけとなったヨセフの母ですが、エレミヤはこの創世記の族長物語を振り返りつつ、かつてヨセフがエジプトに売られていったことを悲しむ父ヤコブの嘆きをその時既に亡くなっていたであろうラケルの嘆きと涙に重ねる仕方で、罪を犯して裁きに服さなければならないイスラエルの民への父なる神の嘆きと涙を語るのです。預言者は子を失う親の悲しみを知っている。マタイもまたその預言者の言葉を引用することで、彼もまた子を失う親の涙を知っているのです。そして何よりも、父なる神御自身が、私たちの罪の身代わりとするために、愛するひとり子イエス・キリストを十字架につけるためにお遣わしくださったゆえに、我が子を失う悲しみと涙を一番に知っておられるお方であるとさえ言えるのです。主なる神は愛するひとり子を私たちに送ってくださいました。主イエスの誕生の傍らで失われた幼子たちの姿に心痛め、神に訴えることさえする私たちは、そこでこそ実は私たちの罪のためにひとり子を十字架に付けるほどに私たちを愛してくださった父なる神の涙を知るべきではないでしょうか。
 そして最後に23節。「これは預言者たちを通して、『この方はナザレ人と呼ばれる。』と言われた事が成就するためであった」。これだけは直接の引用元のない言葉ですが、イザヤ書11章1節に「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」とあるメシヤ預言の中の「若枝」という言葉、ヘブライ語で「ネツェル」と言いますが、まさに誰もが見過ごしにするような小さな若枝、当時のユダヤにおいても小さな村、周縁の地であったナザレ、そこからは救い主が出ることなど考えられないと皆がたかをくくるような場所、そのナザレから、救い主は立ち上がって行かれるのです。父なる神の眼差しは、いつも中心ばかりを見つめるものではありません。その傍らにも確かに神の眼差しは注がれているのです。人々が注目を集めるところにばかり、なお人々の目が向けられている時に、しかし父なる神の御子イエス・キリストを通しての愛の眼差しは、そんな光の当たる舞台の回りに、ひっそりと陰の中にたたずむ私たちの嘆き、涙、痛み、悲しみ、怒り、やりきれなさにもちゃんと届いている。私たちが敢えて闇の中に隠そうとする罪にさえも父なる神の眼差しは届いている。そしてその闇に光を照らすために、御子イエス・キリストは私たちのもとにお出でくださったのです。光の傍らにある闇の中にも、喜びの傍らにある悲しみの中にも、そこにも救い主の光は照り輝く。そうしてついには闇はなくなり、まったき光の支配が訪れる。その日を目指して、父なる神の御思いに沿って、御子イエス・キリストの愛の中を歩んでいく者でありたい。この祈りとともにクリスマスへの道を今週、進んでまいりましょう。



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