待降節第三主日説教 2011/12/11
『礼拝への旅路』

マタイ2:1-12
 
 待降節第三の主日を迎えました。クリスマスに向けて御子イエス・キリストを待ち望みつつ日々を過ごして行きます。また今年の主日礼拝も今日を入れて残すところ三回となりました。この一年の礼拝の歩みがここまで支えられたのは、決して当たり前でない大きな恵みであることを覚えて、この朝も御前に招いてくださった主イエス・キリストからの恵みと平安がお一人一人の上に豊かにありますように祈ります。

(1)東の博士たち、異邦人の礼拝者
 聖書に記されたクリスマスの物語を読んでいくと、改めて気がつかされるのが、御子イエス・キリストの誕生の出来事に関わりを持った人々、主イエスの誕生を知り、主イエスのもとに来て賛美した人、喜んで礼拝した人々は、その数も決して多くはなく、また周縁に生きた人々であったという事実です。マタイの福音書、ルカの福音書いずれも描く主イエスの両親となったヨセフもマリヤも、ルカ福音書に描かれる羊飼いたちも、そして今日のマタイ福音書に描かれる東の博士たちもです。1節、2節。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました』」。ここに登場する「東方の博士」とはいったいどのような人々だったのでしょうか。まず「東方」とはペルシャあるいはバビロニアの地方を指していたと考えられます。そして「博士」と訳された「マゴス」は「マジック」のもとになった言葉で、直訳すれば魔術師ということですが、当時の社会においては天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈などを通して人の運命や世界情勢について占う人々のことを指しており、日本語訳聖書が「占星学者」と訳すように、星の運行を通して世界の行く末を見極めるという役割を担っていたのでした。その彼らが救い主の誕生を星の出現を通して知り、はるばるエルサレムへと旅して来たというのです。
 彼らがなぜ周縁の人々なのか。確かに彼らは自分たちの国ではそれなりの地位と立場を持った人々でしたが、しかし福音書の関心からいえば彼らの存在は端的に言って「異邦人」と括られる存在であったということです。本来ならばユダヤの民こそが真っ先に自分たちが待ち望んでいた救い主の誕生を知るべきであるのに、その彼らは知らず、むしろ彼らから見れば神の民でない異邦人たちによって救い主誕生の知らせを教えられる。町囲みの外にいて人々から虐げられ、社会の底辺で生きる人々としての羊飼いたちと、神の民でない、遠く遠く離れた東の国の異邦人としての博士たちが、神の御子、救い主の誕生を知り、礼拝する人々として登場してくるという、ここに福音書の描くクリスマス物語の大きな不思議があります。しかしそんな彼らがクリスマスの出来事の中心にやって来る。御子イエス・キリストが私たちを御自身のもとへと招いてくださる。どれほど遠いところからでも礼拝への道は開かれている。これこそが御子イエス・キリストの訪れの持つ喜びの力です。彼らは偶然のようにして救い主到来の星を見つけたわけではありません。彼らはその星の出現を待ち続けていた人々でした。彼らの仕事は人々の行く末や世界の情勢を見定め、そこで起こり得る事態を時には案じ、時には憂い、そしてそれら起こり得る出来事への対処を人々に助言することです。他の人々よりも一歩前に世界の行く末を見つめる人です。それは他の人々からすれば「博士」と呼ばれ、あるいは「学者」と呼ばれて羨まれるような立場であったかもしれませんが、しかしそれは同時に他の人々よりも一歩前に世界の悲惨や悲しみを知り、他の人々よりも人一倍その憂いや悩みを心に抱くことをも意味していたのではないかと思うのです。人よりも先に世界の事柄を知り、人生の事柄を見るということはいつも喜ばしいことではない。むしろそれゆえに担わなければならない人一倍の苦しみや悲しみがあったことでしょう。だからこそ彼らは礼拝することを求めた。救い主の星を待つ人、それは救いを待つ人です。暗闇を増し、人々から希望を奪い去るような出来事の続く世界のただ中に立って、なお希望を捨てずに夜空を見上げ、天を仰いで、救い主の星を待つ彼らに、ついにその星は姿を表し、彼らの上に照り輝いたのです。

(2)礼拝への旅路
 一方で、博士たちのことばを聞いて動揺するヘロデの姿があります。3節。「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした」。ヘロデの問いかけに祭司長、学者たちは旧約聖書の御言葉を示します。それが預言者ミカの言葉でした。4節から7節。「彼らは王に言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。「ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。」』そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた」。ここにもクリスマスの出来事の持つ逆説があります。主イエス誕生の舞台となったベツレヘム、その地もまた周縁の地であった。「決して一番小さくはない」と呼ばれつつも、実際には歴史の中で忘れ去られていた町、そのベツレヘムに突如として光が当てられることになるのです。けれどもその光はまさしく闇の中に輝くものでした。ここには王の誕生の知らせを聞いて動揺しつつも、懸命に平静を装うヘロデ王の姿があります。そればかりかヘロデの心中にあった恐ろしい策略の兆しが見え隠れしています。8節。「そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。『行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから』」。この言葉に込められた本当の意図が何であったかを私たちは次回以降知ることになりますが、まさに人間の罪の闇の中に、光なるイエス・キリストの誕生は刻まれているのです。
 しかし今朝は、この博士たちの礼拝への旅路に注目しておきたいと思います。神を礼拝すること。彼らはこの一事に向かって彼らは旅を続けて来ました。そして遂にその目的を達することが出来たのです。9節から12節。「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」。ここに礼拝する人間の姿が示されます。彼らは星を見て喜びました。幼子を見て礼拝しました。そして宝の箱をあけて贈り物をささげました。この「喜んだ」、「礼拝した」、「ささげた」という姿に私たちは礼拝する人間の姿を見るのです。礼拝の本質、それは神の御子イエス・キリストとの出会いの喜びです。その喜びはこれ以上ない、もっとも大いなる喜びです。彼らは幼子イエスのお姿を見る前に、その幼子を照らす星の光を見てすでに大いなる喜びに包まれている。それはまさにIペテロ1章8節で「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」と言われる喜びに繋がるものです。そしてついに彼らはその星の光のもとで御子イエス・キリストと出会い、幼子を見て、ひれ伏して礼拝しました。彼らはがっかりしなかった、貧しい幼子だといって、期待はずれだと言わなかった。彼らは主イエスの到来を告げる旧約の御言葉によって確信し、星の輝きの導きを信頼し、そうして救い主、神の御子との出会いを果たしていったのです。
 さらに彼らは宝の箱を空けて、黄金、乳香、没薬をささげました。彼らが捧げた黄金、乳香、没薬は、それぞれ王なるキリストに捧げられるべき冠、神なるキリストに捧げられるべきよき香り、贖い主なるキリストに捧げられるべき葬りの品を象徴すると言われます。いずれの品も、まさしく神の御子、まことの王の王、私たちのための救い主イエス・キリストに捧げられるに最もふさわしい宝物でした。しかもそれらは彼らがあわてて準備した急ごしらえの贈り物ということでなく、むしろ彼らがいつも大切にしていた、とっておきの贈り物だったのではないかと思います。私たちの主へのささげものとしての礼拝は、私たちの日常の中からの、その延長においてささげられる聖なるささげものなのです。

(3)新しい旅路
 その上に、さらに一つのことを教えられておきたいと思います。12節。「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った」。これが福音書が記す博士たちの最後の姿です。彼らは自分の国へ帰って行った。また自分たちの住む異邦人の地へ、あのいつもの日常の中へ。それは言わば彼らの悔い改めの姿とも言えるでしょう。聖書の語る悔い改め、それは新しい歩みへの方向転換です。聖書学者によると旧約聖書において悔い改めの思想は、バビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還を背景に成り立ったと言われます。神から遠く離れた地から神の臨在のもとへの立ち返り。それが悔い改めだというのです。東の博士たちにとっては、自分の国へ帰って行くことは主なる神から遠く離れることでなく、むしろ主の臨在のもとへの立ち返りの道であるともいえるでしょう。私たちは主の日にここで礼拝をし、そしてまたここからそれぞれのところに帰って行く。しかしそれは神から離れる歩みではなく、むしろ日ごとに主の臨在とともに生きる道への立ち返りなのです。
 さらに言えば、新約聖書においては悔い改めは変革を意味します。主イエスと出会った人は新しくされ、変革され、新しい道を生きていく。彼ら東の博士たちが「別の道から帰っていった」というのは象徴的です。彼らはもはや同じ道を辿ることはしない。主イエスに出会った彼らにとっては、そこから新しい道、主の道を生きる人生がはじまるのです。礼拝とは、私たちが新しくされることです。「見よ、すべては新しくなりました」と赦しの宣言を受け取って、主イエスにあって新しくされて今日、ここから遣わされていくのです。あのいつもの通い慣れた道も、明日からの仕事場も、学舎も、家庭も、いつものあの人々の交わりも、私たちにとっては新しく主イエス・キリストにあって遣わされていく場所であり、そこもまた私たちにとっての礼拝の場所です。その道を私たちは今日、ここから歩み出していく。そうして私たちの礼拝の旅路は続き、ついには天の御国に至る。それまでは星を見ての歩みです。けれどもその時には、私たちはこの目で御子イエス・キリストの御顔を仰ぎ、そこで御子を礼拝するのです。その日に向けての礼拝の旅路を、ここから新しく始めてまいりたいと願います。 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.