待降節第二主日説教 2011/12/04
『沈黙の中で』

マタイ1:18-25
 
 12月に入り、待降節第二の主日を迎えています。慌ただしさの増す年末の一ヶ月ですが、御子イエス・キリストの訪れを静かに思い巡らしつつ待ち望む、そのような日々を過ごしてまいりたいと思います。この朝も主によって招かれたお一人一人に豊かな祝福がありますように。

(1)正しい人、ヨセフ
 今週末に子どもたちのクリスマスの集いが計画されて、いろいろと準備が重ねられています。今年もイエス様の御降誕についてのいろいろな劇や出し物が計画されているのだと思いますが、教会で演じられる降誕劇の殆どはルカ福音書の御言葉が下敷きされているようで、マタイ福音書が取り上げられるのは、むしろ2章に入っての東の博士たちの場面でしょう。私も教会で生まれ育ちましたので、小さい頃は羊飼いに飼われる羊の役から始まっていくつもの配役を演じてきたように思い出します。そうしてこの朝のマタイ福音書に目を留めてみますと、クリスマスの出来事において重要な役割を与えられながら、しかしその出来事の只中にあって、一言も言葉を発しない人、沈黙の人がいることに改めて気がつかされます。それがマリヤの夫、主イエスの父親となるヨセフという人でした。マタイ福音書を読んでも、ルカ福音書を読んでも、ヨセフは一言も言葉を発しないいわば沈黙の人です。それで降誕劇では「大丈夫かい、マリヤ」とか「一晩泊めてください。子どもが生まれそうなのです」といったいくつかの台詞がヨセフにあてがわれることになるのですが、しかしこの朝、私たちはこのヨセフの沈黙を通して、むしろその沈黙という姿を通して語られている言葉に耳を傾けていきたいと思うのです。
 18節、19節。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」。マタイ福音書はずいぶんと抑えた筆遣いで淡々と御子の誕生に至る経緯を記しますが、しかしここに記されるのは衝撃的な事実です。二人がまだいっしょにならないうちに聖霊によって身重になったマリヤ。前回見たようにアブラハムからイエス・キリストに至る系図の中には四名の女性が登場しますが、タマルは自分の父ユダとの間に子どもをもうけ、ラハブはエリコの町にいた遊女、ルツは異邦のモアブ人、ウリヤの妻バテ・シェバはダビデの罪のもとで召し入れソロモンを産む。いずれも当時のユダヤ社会においては正統な結婚関係で子を産んだ女性ではない。そしてここで第五の女性であるマリヤもまた普通では考えられない仕方で身重になったというのです。当時の結婚の習慣からすると、二人はすでに婚姻関係に入っていたものの一緒に生活を始めるには至っていませんでした。その段階で妻が身籠もるとは、彼女が不貞を働いたか、あるいは暴力的な仕方でそのような身にさせられたかのいずれかであって、旧約の規定によればいずれにしても夫から正式に離縁を申し渡すのは当然のこと、特に前者であれば妻は厳しい罰を甘んじて受けなければならないケースです。
 しかしヨセフはここで彼女をさらし者にすることを望まずに、内密に結婚関係を解消しようとした。つまりマリヤの名誉と尊厳を守る仕方で自分から身を引く道を選び取るのです。マタイ福音書はこれらをもってヨセフを「正しい人」と表現します。マタイ福音書は旧約聖書との結びつきをとても重んじる書物ですので、ここでの「正しさ」も旧約の律法に照らした正しさを意味しますが、そうであれば律法の規定に沿えばいくらでも妻を糾弾し自分の名誉を守ることができるはずのヨセフがその道を選ばないところに、彼が示した自分よりも弱い立場の人の尊厳を守り、その命を守ることこそが律法の目指すところだという、当時の律法を振りかざして人々を切り刻もうとする律法の専門家たちに対する警告を含んだメッセージが示されていると言えるでしょう。
 
(2)沈黙の人、ヨセフ
 それにしても、私たちがルカ福音書を読むと、天の御使いによる受胎告知から始まって、エリサベツを通してのメッセージなど、マリヤに対しての行き届いた心遣いがあったことを知ることができますが、それに比べてヨセフに対しては何の説明も予告もないままにまず事実が先行していく中で、それでもなおこのことを我が身に引き受けて行こうとするヨセフの姿に目が留まります。彼の中にはマリヤとの結婚を解消しようという思いがありましたが、なおそこには人知れぬヨセフの深い悩みの日々があったことと想像されます。20節の冒頭に「彼がこのことを思い巡らしていたとき」とあります。これもまたマタイ福音書は短い言葉だけでヨセフの姿を記しますが、しかし彼の心中を想像すれば溢れ出てくるようなヨセフの思いを想像することができるでしょう。マリヤに対する愛が深く、真実であればあるほど、様々な疑問も出てくるでしょうし、問い質したい衝動もあるかもしれない。彼女の言葉を信じたいという気持ちと、それでももしやと疑いたくなるような思いもあったでしょう。何よりも、思い描いていた幸せな結婚生活を諦めて、彼女との関わりを断ち切らなければならない、それこそヨセフにしてみれば、こんなことさえ起こらなければ、とその運命を呪いたくなるような出来事であったかも知れない。
 けれどもこの朝、私たちはそういう想像をあれこれと広げていくことよりも、むしろそういう思いを一切口にしないヨセフの姿をこそ見つめなければならないように思います。すべてを思いの丈を、感情の赴くままにぶちまけ、あらゆる不平不満を口にし、我が身を呪い、相手を糾弾し、責め立てる。そうする権利がヨセフにはあるかもしれない。けれども彼は口を開かない。ただひたすら沈黙し、思い巡らしている。そこにはいたずらに第三者が踏み込むことのできない実に真剣な格闘があるのです。21節。「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子、ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です』」。私はこの御言葉を何度も読みながら、この21節の順序について繰り返し考えました。彼が思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。マリヤの時のように、先に御使いが表れてお告げをくれていたら、ヨセフの思い巡らしは必要なかったのではないか、あるいはその思い巡らす方向も一つのところへ集中していたのではないか。どうしてこの順序は逆でないのか。どうして先に御使いは語ってくれなかったのか。しかし、やはりこのヨセフの沈黙の中での思い巡らしが必要だったのだと思います。その沈黙の中で一体彼が何を考え、何を問い、何を訴え、何を嘆き、何を怒り、何を願ったのか。そもそもそういうことがあったのか、そういうことすら私たちには分からない。分からないけれども、しかしそういう思いを抱えた沈黙があるに違いないと想像することのできる姿がヨセフにはある。ここに私は信仰の人としてのヨセフの姿を見るのです。
 この秋から月に一度、キリスト者学生会の集まりでボンヘッファーの『共に生きる生活』という書物を読み進めています。先週金曜日が第三章の「ひとりでいる日」という章を読むはずでした。「はず」というのは私が風邪で寝込んで一回お休みにしてしまったからなのですが、この章は私がこの本の中でも一番大事なところだと思っている箇所で、何度も読み返していました。ボンヘッファーはキリスト者にとって交わりに生きることが不可欠なものであることを十分に語った後でこう言うのです。「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい」。彼は信仰者がしばしばひとりでいることができずに交わりに依存し、あるいは過剰な期待を抱き、そこに責任を転嫁し、ついにはその交わりにつまづいて、相手を非難して終わっていくような姿を見ています。いつでも誰かに自分の悩みを吐き出さないと気が済まない。一人で黙って主の前にいることが出来ない。いつも誰かを巻き込み、誰かに共感され、誰かに聞いてもらい、誰かに自分と同じ気持ちになってもらえないと我慢できない。そういう私たちの弱さをボンヘッファーは鋭く指摘するのです。もちろん私たちは交わりを必要とします。誰かの励まし、慰め、共感を必要とします。けれども究極のところで、人は神の代わりには成り得ない。神の御前に沈黙することなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはない。ボンヘッファーはこうも言うのです。「神があなたを呼ばれた時、あなたはただひとり神の前に立った。ひとりであなたはその召しに従わねばならなかった。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかった。・・・もしあなたがひとりでいることを望まないなら、それはあなたに対するキリストの召しを否定することであり、そうすればあなたは、召された者たちの交わりとは何の関わりをも持つことはできない」。大変厳しい言葉です。しかしよくよく私たちが聞かなければならない言葉でもあるでしょう。一人、神の御前に立って思い巡らすヨセフ。そこに神の御心は明らかにされたのです。

(3)信仰の人、ヨセフ
 沈黙の中でヨセフは神の御心を知らされました。「ダビデの子、ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」。御使いだけはヨセフの沈黙の中身を知っていました。だからこそ御使いは彼に「恐れないで」と言ったのでしょう。御使いはまたヨセフが沈黙の中でいだいたあらゆる想像、あらゆる怒り、あらゆる疑いをも知っていたのでしょう。それで御使いは彼に、マリヤの胎に宿されたお方がいかなるお方であるかを明らかにしたのでしょう。そして福音書記者であるマタイは、孤独な沈黙の中にいるヨセフにこそ、クリスマスの祝福が訪れたことを明らかにするのです。22節、23節。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神が私たちとともにおられる、という意味である)」。ダビデの子孫であるヨセフ、そんなことは誰の目にも忘れ去られていたかのようなヨセフに、しかしあのイザヤの預言が成就する。イエス、「神は救う」という名を持つ男の子がまさに自分たちのもとに生まれようとしている。しかもその名は「インマヌエル」と呼ばれる。ただ一人、神の前に沈黙して立たなければならないヨセフに、しかし神が与えてくださる救い主の名は「インマヌエル」、「神が私たちとともにおられる」という名なのです。
 ヨセフはこの名を握り締めました。そしてこの名を握って生きていこうと決断したのです。24節、25節。「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた」。ここでもヨセフは沈黙したままです。マリヤを疑うことなく、マリヤを詮索することなく、マリヤと関わりを持つこともなく、しかし身重のマリヤに向けられる周囲からの様々な疑いや詮索の声の前に立ちはだかり、ヨセフのもとにも聞こえて来るであろう様々な雑音のような声にも、彼はただひたすら沈黙して、人の無理解、人の好奇心、人の噂、人の決めつけ、人の分かったような口ぶり、そういう一つ一つの言葉の只中に身を置きながら、しかし彼が頼みとしたのはインマヌエルの約束でした。ヨセフは神の救いにすべてをかけて生きていったのです。
 私たちの人生において、一人黙していなければならない時がある。そこでは誰も手を貸すことが出来ない、助け船を出すことが出来ない。安易な慰めや励ましも含めて余計な口を差し挟むことが出来ない、沈黙という形を取った神との真剣な対話の時がある。しかしそういう時を私たちは主にある交わりから離れて経験するのではありません。神の民の交わりの中に身を置いてこそ、そういう神との真剣な対話が成り立つのです。そういう沈黙の中で、インマヌエルの主が語ってくださる。沈黙は言葉の喪失ではなく、神が語られることへの傾聴です。クリスマスに向かう日々、私たちもまた饒舌の嵐の中に身を置くところから、主の御前での沈黙の時へと導かれていきたいと思います。そこで神が語ってくださる約束の御言葉。真実な御言葉、「わたしがあなたとともにいる」というインマヌエルの言葉と出会い、その言葉によって生かされていく。そのような日々を送らせていただきたいと願います。



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