降誕節記念朝拝 2009/12/20
『あなたがたのためのしるし』

ルカ2:8-14

 2009年のクリスマスを迎えました。御子イエス・キリストの御降誕を喜び、互いに挨拶を交わしたいと思います。クリスマスおめでとうございます。この礼拝に招かれたお一人一人、また神の家族に連なる兄弟姉妹の皆さんの上に主なる神様の大いなる祝福がありますよう祈ります。
今日の礼拝では四名の兄弟姉妹たちが私たちの教会に転入され、またこの後はお二人の兄弟姉妹の洗礼式を執り行おうとしています。教会にとって一番の喜びがこのクリスマスに与えられることを特に神に感謝します。それぞれに誠実に主を求めながら礼拝の生活を守り、真剣に御言葉を学びながら今日の日を迎えられましたが、生ける主イエス・キリストとの出会いを果たされたことを思うと、生きておられて人をお救いになることができる主イエス・キリストが、今日も皆さん一人一人を招き、導いておられる、その深い御愛と真実を覚えさせられます。この朝、私たちもまた新しく主イエス・キリストの御愛を受け取り、このお方をお迎えする者でありたいと思うのです。

(1)恐れることはない
 私たちがそれまでの人生の中でかつて経験したことのない新しいものと出会うとき、驚きや恐れを抱くものです。ルカの福音書が描き出す最初のクリスマスにおいても、人々の中に湧き上がる心は恐れの心でした。この朝、転入会された兄弟姉妹たちに続いて、お二人の兄弟姉妹が洗礼を受けられます。私は牧師としてこの二年ほどの日々、ご一緒に聖書を学び、信仰のお導きをさせていただきました。ですからこの朝の洗礼式には特別の感慨があるのですが、これまでのお二方の歩んでこられた人生、そして主イエス・キリストとの出会いを果たされるまでのいきさつを思う時、それは決して平坦な道のりではなく、多くの乗り越えなければならないことや解決されなければならないことがあったことです。そしてやはりイエス・キリストを信じて洗礼を受けるという決断を下すにあたっても、様々な不安や恐れの心があったことを思います。しかしそのたびごとに主は時に適った助けを、さまざまな信仰の経験を通し、あるいは主が遣わしてくださった兄弟姉妹たちを通し、そしてなによりも御言葉を通して与えてくださり、恐れの心を取り除いて主イエスに出会う心を備えてくださいました。それはまさにあの洗礼者ヨハネの父親ザカリヤや主イエスの母マリヤ、そして今日の羊飼いたちが経験したことでもあったのです。1章13節。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです」。1章30節。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」。そして2章10節。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」。そして神はこの朝も私たちに主イエス・キリストのお生まれの知らせを届けるにあたり、「恐れることはない」と語りかけてくださいます。
 さらに御使いは告げます。10節、11節。「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。主イエス・キリスト誕生の知らせは私たちにとって恐れを引き起こすものではありません。むしろ全く正反対にそれは「この民全体のためのすばらしい喜びの知らせ」です。なぜならお生まれくださったお方は「救い主」なるお方であられるからです。「救い主」という称号は当時のローマ帝国にあっては神格化された皇帝に向けて用いられる呼び方でした。しかし福音書はこれを飼葉おけの幼子イエスに向けて用いることによって、このお方こそがまことの王、まことの救い主、まことの主なるお方であると宣言しているのです。

(2)あなたがたのためのしるし
 このようなお方と私たちはいったいどこで出会うことができるのでしょうか。この問いに対する御使いの言葉は驚くべきものです。12節。「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。11節の「すばらしい喜び」とは直訳では「大きな喜び」です。大きな喜びの実体は小さな小さな幼子、飼葉おけに眠る幼子であります。その喜びの訪れを知らされたのは暗闇の中で小さな光のもとに集まるまことに貧しく慎ましい人々です。そしてその喜びの舞台となったは「最も小さいもの」と呼ばれるベツレヘムでした。ここには大いなる逆説があると言わなければなりません。しかし御使いは、「これがあなたがたのためのしるし」だと言います。そしてこれを手がかりに主キリストを捜し出し、見つけ出すようにと羊飼いを送り出すのです。ここで御使いが「あなたがた」と呼ぶ羊飼いたちは社会の周縁に生きる小さい人々、日々の労苦を背負いながら慎ましく、しかしコツコツと日々を生きる人々です。そしてそれは紛れもなく私たち、今ここに集められてクリスマスを祝う私たちの象徴でもあるのです。この小さい人々のところにまず御使いは「この民全体のためのすばらしい喜び」を告げ知らせてくださる。それはこの知らせがある特別な人々にのみ限られて伝えられるものではなく、まさに「あなたがたのため」、「私たちのため」の喜びの知らせであることを意味しているのです。さらに御使いは「あなたがた」とは誰であるかをさらに明らかにするのです。13節、14節。「するとたちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように』」。御使いが呼ぶ「あなたがた」とは「御心にかなう人」です。では御心にかなう人とは一体誰か。神の側に何かしらの条件があって、それをクリアして神の眼鏡にかなった人でしょうか。神の気に入る何かでその身を飾っている人でしょうか。もしそうであるならば、この歌声はこの夜、この荒野で響き渡ることはなかったでしょう。羊飼いたちはそのような基準で言えば真っ先にはねられてしまうような人々でありました。では御心にかなう人とは誰か。それは「神がよしとされる人」ということです。神がただ全く自由なご自身の恵みにおいて、私たちに好意を寄せてくださる。私たちを喜んでくださる。この神の喜びの中にある人々こそが「御心にかなう人々」なのです。
 今日クリスマスの喜びの中で、私たちは先週天の御許に召された私たちの大切な神の家族のお一人である高橋道子姉のことを思います。道子さんは重い心の病を長く患っていましたが、その中で若い日に信仰に導かれ、やがて導きがあってこの教会に集うようになり、私がこちらに来てまもなく転入会されました。当初は礼拝や祈祷会を欠かさず、また教会のお掃除にも一生懸命に励んでくださいました。少女のような信仰の心をお持ちでした。しかしこの数年で病がいっそう進んで行きました。私もたびたびご自宅に出かけたり、一緒に病院にお伴してお医者さんに相談に上がったこともありましたが、ある問題をきっかけにして教会の交わりから遠ざかり、私に対しても心を閉ざしてしまわれました。病も進んで通常のコミュニケーションをとることも難しくなり、晩年は信仰の心すらもご自身で覚えておられるかも分からないようなことでした。人間的にはいろいろと悔いや無念さがあるのですが、しかしこの朝の御言葉を通して私自身、道子さんは確かに神の喜びの中に招かれた「御心にかなう人」の一人であり、今、御国に迎えられて地上の病や苦しみ、悩みからすべて解き放たれて完全な平安の中におられることを確信するのです。この朝、神の喜びの中に見つめられる皆さんお一人一人、神の喜びのもとに集められている皆さんお一人一人こそ、神の御心にかなう人々です。そしてこの神の私たちへの喜びの心が、飼葉おけのキリストにおいて形を取った。あなたを救いたいと欲する神の愛が、飼葉おけに眠るみどりごにおいてまざまざとしるされているのです。飼い葉おけに寝ておられるみどり子が私たちのためのしるしであるとは、まさに神の愛、皆さんを愛してやまない神の愛のしるし、一人子を惜しまずに与えてくださるほどに私たちを愛してやむことのない神の愛のしるしなのです。

(3)喜びの中で救い主を迎える
 このクリスマスにおいて御子イエス・キリストに示された神の愛、それはやがて主イエス・キリストの十字架によって極まります。ルカ19章37節、38節。「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。『祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に』」。福音書記者ルカはクリスマスにおいでになった主イエス・キリストを、その地上の生涯の終わりにおいても「主の御名によって来られる王」として呼びます。主イエスはまことの王なるお方として、神の国の王座から立ち上がり、もっとも貧しく、もっとも小さな者となって私たちのところに来てくださいました。そして主イエスは地上の生涯において罪人の友となり、失われた者を捜し出して救うために旅を続けてくださいました。そしてついにその地上の生涯の終わりにおいて、私たち罪を赦すためにご自身をその身代わりとして差し出して、十字架に命を捨ててくださったのです。しかし十字架に死なれた御子イエス・キリストを、父なる神は三日目に死人の中から甦らせ、天へと挙げられました。これがイースターにおいて起こったことです。そこにおいてはまさしく先ほどのクリスマスの夜に鳴り響いた御使いの賛美を共鳴するようにして「祝福あれ、主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高きところに」との賛美の声が鳴り響くのです。「地には平和」と主イエスの来臨によって地上にもたらされた平和が、今ここでは十字架と復活を経て天へとやがて挙げられていく主イエスのお姿を先取りしつつ、「天には平和」と歌われる。そのことは、この天へと移された平和が、しかしやがて再び王位を受けて主が帰って来られる時に、再び完全な仕方でこの地上にもたらされる平和の約束となるのです。その時には、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられる」のです。
 私たちはこのクリスマスの礼拝の朝に、新しく御子イエス・キリストにおいて示された神の愛を受け取りたいと思います。父なる神の私たちに対する救いの愛は、神の自由で主権的な恵みに基づくものですが、その愛はまた私たちの中に染み渡って、私たちの中に神への愛を産み出す愛です。そうであるならば、この喜びの知らせを受けた私たちは、飼葉おけの主イエス・キリストによってしるされているところにまで進んでいくべきであります。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主が生まれた」と御使いが語る「きょう」とは、昨日と明日の間という意味ではなく、ある決定的な意味を持つ「きょう」、主イエス・キリストとの出会いが起こる決定的な時を意味しているのです。このすばらしい喜びの福音が教会を通して宣べ伝えられるどこにあっても、その御言葉の前に招かれている一人一人にとっての「きょう」なのであり、そしてこの「きょう」という時、飼葉おけのキリストが私たちに求めてやまない一つの応答があるのです。それは一つの言葉の信仰の言葉、しかも私たちを全く新たに作り替える言葉です。
 私たちがこのクリスマスの朝に応答する一つの言葉、それは「この方こそ主キリストです」との信仰告白の言葉です。この告白を生み出すためのしるし、それが飼い葉桶の幼子イエス・キリストのお姿でした。そして私たちはみな、羊飼いたちと共にこのお方のもとに導かれ、このお方こそが私たちのただ一人の救い主であると信じ告白するようにと招かれているのです。今日洗礼を受けるお二人も、まさにこの幼子をわが救い主と信じ、告白してあたらしい歩みを始められます。私たちもみな、この朝、「あなたがたのためのしるし」をほかならぬ「わたしのため」のしるしと受け取って、この方の御前にひざまずき、このお方を心から礼拝し、喜びの中でイエス・キリストを救い主としてお迎えさせていただきましょう。



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.