待降節第三主日説教 2009/12/13
『まぶねの中に』

ルカ2:1-7
 
 神の御子イエス・キリストの誕生を待ち望む待降節の第三主日を迎えました。この朝もここに集う愛する皆さん一人一人を闇の中から光の中へと招いていてくださる主イエス・キリストの恵みと祝福が豊かにあるように祈ります。今朝与えられている御言葉は、ルカ福音書の描き出すクリスマスの光景です。もっとも美しく、もっとも厳かで、そしてもっとも質素な救い主の誕生の御言葉を通して、貧しい者の姿をとってこの地上に来てくださった主イエス・キリストをお迎えする備えをさせていただきたいと思います。

(1)主イエス誕生の舞台
 昨日の教会学校の子どもクリスマス会には五十名近い子どもたちが集まってくれました。会堂いっぱいに子どもたちが集い、ともにクリスマスを喜び祝うことができるのは本当にうれしいことです。そこではCS教師の先生方がよい準備をしてくださり、子どもたちが一生懸命に取り組んだイエス様の後降誕のアニメが上映されたのですが、現代風に脚色されて子どもたちが喜んでそのストーリーを見た後で短くクリスマスのメッセージを語りました。クリスマスの驚き、それは救い主なるお方が貧しい馬小屋の飼い葉桶にお生まれになったということです。救い主誕生の舞台としてはあまりに不釣り合いなところに主イエスはお生まれくださった。その驚きを子どもたちだけでなく私たち皆がこの朝、新しく受け取りたいと思うのです。
 1節から3節。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、ぞれぞれ自分の町に向かって行った」。ルカ福音書が描き出すクリスマスの舞台設定は大変大がかりなものです。ルカはギリシャ人の医師であると同時に神の救いのご計画の進展というダイナミックな歴史を記す歴史家として福音書と使徒の働きを記しますが、ここでもルカは主イエス誕生の出来事を世界史的な出来事の中に置いて私たちの前に示そうとするのです。当時の人々にとっての「全世界」とはローマ帝国を中心とした地中海世界から見た世界ということですので、今の世界地図から見れば非常に限られた地域と言うことになりますし、そもそも主イエスの誕生を知る人はこの時代のほんの一握りの人々にすぎません。むしろ世界のほとんどの人々が全く知らないといってもよい世界史の片隅で起こった実に小さな出来事を、実に大胆に「全世界」のただ中に書き込んで強調するのは、実にこの主イエス・キリストの誕生こそが11節にある「この民全体のためのすばらしい喜び」の知らせであることを証しするためだったのです。確かにこの時代、人知れず世界の片隅でお生まれになったお方を救い主と仰いだ人々はほんの一握りの人々でした。しかし今やこの喜びは全世界に及び、こうして東の果ての私たちのもとにまで届き、私たちもまたクリスマスを喜ぶことが許されていることを思うとき、まさにこのイエス・キリストこそが真の意味での歴史の中心、時の中心なるお方であられることが証しされているということができるでしょう。

(2)まぶねの中に
 このような大がかりな舞台設定のもとに置かれる神の御子イエス・キリストの誕生の光景は、そのような舞台装置とは全く対照的なほどに実に簡潔なものでした。けれども主イエス誕生の描写が簡潔であればあるほど、そこに起こった出来事の驚くような有様は私たちの心を捕らえて離さないのであります。4節から7節。「ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」。この主イエスの御降誕の出来事全体を覆っている空気、それは貧しさ、慎ましさ、静けさです。決して豊かとは言えない年若い夫婦が初めての子どもを身に宿しながら、ローマ皇帝の勅令のゆえに、税金を課せられるための人口調査のためにその身をおしてベツレヘムまで旅をしなければならない。不安と恐れを抱きながら、それでもそれらに抗うことのできない大きな力の中に置かれて旅を続けていく。それが彼らの現実です。そのようにしてやっとの思いでベツレヘムに着いたものの今度は彼らが泊まる宿がない。けれどもすでにマリヤは臨月を迎えて出産の時を迎えてしまっている。初めての出産に際してどんな不安の中に置かれたことでしょうか。そしてやむなく彼らのためにあてがわれた出産の場所は、岩に横穴をくりぬいて造った家畜のための場所でありました。そして生まれた赤ん坊は家畜が餌をはむために備えてあった飼い葉桶に寝かされるのです。神の子キリストを迎えた地上で最初の場所は飼い葉桶であった。それは特別に備えられた場所ではなく、虐げられ、疎んじられ、拒まれた末にあてがわれた場所であった。この落差、このコントラストが意味するところをこの朝しっかりと受け取っておきたいと思うのです。キリストがこの地上に来てくださったことの一つの意味が、ここの実に印象深い仕方で描き出されているのです。主イエスは貧しい者の姿をとって来てくださった。私たちを罪の奴隷の状態から解き放ち、自由と喜びに生きる神の子の身分へと取り戻してくださるために主は敢えて貧しい者の姿をとってこの地上に来てくださった。しかしその貧しさをその身に引き受けてでも私たちの救いを成し遂げようとしてくださっている神の本気の愛、諦めない愛の凄みというものを私たちはこの飼い葉桶のキリストのお姿から受け取るのです。
この朝の説教題に掲げた「まぶねの中に」は日本の代表的な賛美の一つ、この後でご一緒に歌う讃美歌121番からとりました。日本の讃美歌の父と言われた由木康という牧師が作られた曲です。この121番のもとになった詩は1923年、由木牧師が二十七歳の時に作ったもので、それを後に四行詩に整え直して曲が付けられ1930に発表されたのですが、簡潔なことばで主イエス・キリストの誕生から地上の御生涯のすべてが見事に描き出されています。よく親しんでいる曲ですがあらためてその歌詞を味わっておきたいと思います。「まぶなの中にうぶごえあげ、たくみの家に人となりて、貧しきうれい生くるなやみ、つぶさになめしこの人を見よ。食するひまもうちわすれて、しいたげられし人をたずね、友なきものの友となりて、心くだきしこの人を見よ」。若き由木牧師はその当時キリスト教界を揺るがしていた新神学というものによって信仰を激しく揺さぶられていました。聖書をすべて人間の理性の枠の中で理解しようとし、イエス・キリストが神であられることの確信が揺らいでいたのです。まぶねの中にお生まれになった神の御子イエス・キリストのお姿とその御生涯を深く思い巡らす中で、このお方のお姿にこそ神の愛が輝き出でていることに気づき、この方こそが生ける神であるという確信に立つことができたのでした。その時のことを後に次のように回想されています。「そのころ私は本当の愛というものが果たしてこの世にあるのだろうかと疑っていました。親子の愛、兄妹の愛、恋愛、夫婦の愛などたくさんの愛があるけれど、それらはいずれも利己心や打算や情欲や恩を着せる思いや報酬を求める心や売名的な動機などにゆがめられていて、純粋なものではないと暗い気持ちになりました。そのとき私の心に一つの光がひらめいたのです。たとい人間の世界に本当の愛はなくても、イエスのうちにはそれがある。イエスの生活と苦難と十字架には、少しのまじり気もない純粋な愛が現れている。イエスこそほんとうの愛の化身であるという確信です」。このような信仰の経験の中から確信されたのが四節です。「この人を見よ。この人にぞこよなき愛はあらわれたる。この人を見よ。この人こそ人となりたるいける神なれ」。

(3)へりくだって主を見る
 さらには、この飼い葉桶のキリストこそが、私たちの救い主であることをルカは御使いの言葉によって高らかに宣言するのです。続く2章11節。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」。ここでの「救い主」という言い方はマタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書の中でルカ福音書だけが用いる特徴的な言葉ですが、これはもともとローマ皇帝に対して用いられる称号でした。しかしルカはこの本来ローマ皇帝に向かって用いるべき称号を、ここで敢えて飼い葉桶に眠るみどり子イエスに対して用いているのです。確かにローマ皇帝は強大な神聖ローマを率いる一大権力者であり、神格化された存在です。その皇帝アウグストの前には飼い葉桶に眠る一人の赤ん坊など無きに等しい存在です。しかしこの無きに等しい存在が、実は私たちの救い主である。これが私たちの信仰であります。さらにもう一つのことを申し上げておかなければなりません。それは飼い葉桶に眠る幼子イエス・キリストのお姿には、主の貧しさと謙遜の象徴であるとともにもう一つの大変重要な意味が込められていると言うことです。イザヤ書1章2節には次のように記されます。「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉桶を知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない』」と。このイザヤの言葉は、背信のイスラエルが当然知っているべき主なる神の姿を悟らないことを「家畜さえもその飼い主、その飼い葉桶を知っているのにも関わらず」と嘆いている言葉です。けれどもルカは、飼い葉桶に寝かされた幼子を救い主として示すことによって私たちの頑なな心を砕き、閉じた眼を開かしめ、この驚くべき救いの出来事に目を向けさせるのです。その時、あのイザヤの嘆きの言葉はもはや退けられる。そのような暗黒の時代が去ったことが宣言される。確かに目に見えるところ、ローマの強大な力が覆い被さるような時代にあって、しかしあの最も小さな町と蔑まれたベツレヘムに救い主がお生まれになった。そのようにしてろばが持ち主の飼い葉桶を知っているように、主の民たちが、主の飼い葉桶を知り始める、人々が悔い改めて主のもとに立ち返る、そういう時代の幕が開かれたことをルカはこのまぶねの中に眠るみどり子イエス・キリストのお姿を通して私たちにはっきりと教えているのであります。
(4)クリスマスの挑戦
 ここには私たちに対する一つの挑戦、チャレンジがあります。私たちのためにへりくだって貧しい者となって来てくださった主イエス・キリスト、このお方の御前に私たちもまた謙遜が問われています。あの東の博士たちのようにこの幼子の御前にひざまずいて礼拝する心が問われています。シメオンのように幼子イエス・キリストの姿に「私の目はあなたの救いを見た」と祈ることのできる謙遜なまなざしが問われているのです。こんな幼子を神と呼ぶほど自分は落ちぶれてはない、馬鹿馬鹿しくて膝をかがめるなんて屈辱的なことができるか、という私たちの内側にあるおごり高ぶる心が挑戦を受けているのです。しかしこの朝、本当に私たちはこの高ぶる心を打ち砕かれてこのまぶねの中の幼子を礼拝する者とならせていただきたいのです。おごり高ぶる思いを捨て、主の御前にへりくだり、主が差し出してくださる救いを自らのものとして受け取っていただきたいのです。これまでにも幾たびがご紹介してきたディートリヒ・ボンヘッファーのクリスマス黙想の中の一節をお読みします。「われわれはあまりにも高慢になってしまっているのではないか。われわれはこの『みどりご』に、どのように出会おうとするのであろうか。われわれの手は日々の労働のためにあまりにも堅くなってしまい、あまりにも誇りに満ちたものとなってしまっているため、この子どもを見て祈るために手を合わせることができなくなってしまっているのではないか。われわれの頭は、多くの困難な問題を抱え込み、その問題を解くことであまりにも高慢になってしまっているのではないか。われわれは、自分の様々な努力や、業績、重要な事柄に気を奪われすぎているため、良い羊飼いや東方の博士たちとともに、飼葉桶の中の神の子の前にひざまずき、この子どもを見てわれわれの生全体が成就したのだということを感謝をもって認識することができなくなってしまっているのではないか。自分を誇りに思う強い人間がこの子どもの前で膝をかがめることや、単純な心を持ってこの子どもの中に救い主の面影を見出すことは、本当に希なことであろう」。
 まぶねの中に眠るみどり子イエス・キリスト。ここに救いを見る人は幸いです。愛する皆さん。皆さんは上に上り詰めることだけを見て主の御前にへりくだる心を置き去りにしてしまってはいないでしょうか。横ばかりを見て主に信頼する心を忘れてしまってはいないでしょうか。キリストに表された愛を小さなもののようにして簡単に置き去りにしようとしてはいないでしょうか。讃美歌121番はこう歌います。「すべてのものをあたえしすえ、死のほかなにもむくいられで、十字架の上にあげられつつ、敵をゆるししこの人を見よ」。イエス様はすべてを私たちのために与え尽くしてくださった。それを受けた私たちはなんとしばしば簡単にその与えられたものを捨て去ってしまうことの多い者でしょう。しかしこの朝、まぶねの中のキリストは私たちに神の愛をもって挑んで来られます。この愛を受け取るようにと私たちを主の飼い葉桶のもとに招いておられるのです。その招きに応えてこのお方の御前にひざまずき、へりくだって、ここに真の救いがあると信じ、告白し、このお方を心から礼拝する人々こそが、真にクリスマスを喜び祝う幸いな人なのです。この喜びの中で私たちもまたこのお方をしっかりと見つめ、心から主を崇める者でありたいと願います。「この人を見よ。この人にぞこよなき愛はあらわれたる。この人を見よ。この人こそ人となりたるいける神なれ」と心から神への賛美をささげさせていただきましょう。



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