待降節第二主日朝拝 2009/12/06
『喜びの賛美』

ルカ福音書1:46-56

 12月に入り、待降節第二主日の朝を迎えました。この朝も、主の御前に集められた愛するお一人一人に主の祝福が豊かにありますように祈ります。今年のアドベントからクリスマスに向かう主日にはルカ福音書の御言葉が与えられて、クリスマスの恵みを味わい続けています。この朝は、ルカ福音書1章に記されたマリヤの賛美の歌を通して、低く貧しい者を高く挙げ、豊かに祝福してくださる神の大いなる御業をともに崇めたいと思います。

(1)神を大いなるものとする
 ルカが描き出すクリスマスの特色の中に、女性たちが重要な役割を果たしていることとたくさんの音楽が溢れていることを前回申し上げました。先週のコンサートのあと、ゲストとしておいでくださった姫野さんとしばらくお話した中で、ルカ福音書のクリスマスにおける音楽ということに話題が及んだのですが、確かに今日のマリヤの賛歌のほかにも、「ベネディクトゥス」(ほめたたえよ)と呼ばれる1章67節からのザカリヤの賛歌、「グローリア」(栄光)と呼ばれる2章13節の天使たちの賛美、「ヌンク・ディミッティス」(今こそ去らせてくださる)と呼ばれる2章28節からのシメオンの賛歌などが次々と歌われ、また歴史の中でもこれらの御言葉を題材とした数多くの賛美が生み出されてきたのです。この時期になると巷でも様々なクリスマスのキャロルがBGMとして流されることがありますが、しかしこれらは本来クリスマスの雰囲気を醸し出すためのバックグラウンドミュージックとして用いられるようなものではありません。むしろそこで歌われている「ことば」が大切なのであって、そこに込められた祈りと信仰にこそ耳を傾けるべきなのです。
 思いがけない御使いの訪問によって、マリヤの人生には神の大いなる御業が飛び込んで来ました。神の御子をその胎に宿すという出来事に直面し、祈り、思い巡らし、親類エリサベツのもとを訪ね、そうやって自分の人生に突如として飛び込んできた神の御心を受けとめていったマリヤは、その心の思いを歌に託します。46節。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」。このマリヤの賛歌は「マグニフィカート」と呼ばれるものですが、この「マグニフィカート」という言葉は「あがめる」という言葉から取られたもので、新約聖書の言葉では「大きくする」という言葉です。そこでこの節を直訳すれば「私のたましいは主を大いなるものとします」となります。神を大いなるものとする。これは49節でも繰り返されているように、この賛美の主題となる言葉です。神を大いなるものとすると歌うということは、すなわちその神の御前に自らが小さくされていく、低くされていることを意味します。まさにこの歌い出しの第一声こそが、この賛美を貫く基調音となっているのです。神を神とするときに、人は人であることを知る。この位置関係が崩れてしまったところに人間の積みと悲惨の原因があると聖書は語ります。創世記3章の人間の堕落以来、人は絶えず自らを大いなるものとしようとする誘惑に捕らわれ続け、それによって結果的に神を小さなものとし、ついにはその神を無視して無き者のようにしてしまっているのです。
 しかしマリヤの賛歌を聞くとき、私たちは神を大いなるものとすることによって人が自分の小ささを認めることは、決して自分が自分であることを投げ出したり、必要以上に卑屈になったりすることでなく、むしろそこで小さな存在に過ぎない私たちに目を留めてくださる神のあわれみへの気づきをもたらすことを知るのです。「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」と歌っているとおりです。

(2)大いなる救いの歴史を歌う
 神を大いなるものとし、その御前にある己れの小ささを見つめるとき、マリヤはそこに歴史を支配される神の文字通り大いなる御業へと心開かれていきます。49節後半から53節。「その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たないで追い返されました」。ここではマリヤがあがめる神のお姿とその救いの御業が告白が歌われます。救い主の訪れを通して表される神の御業は大いなる逆転の時です。やがてお生まれになる神の御子イエス・キリストは、やがてここに歌われたような地上の価値観を根底から覆される神の国をもたらされるお方です。後のルカ福音書6章では、貧しい者を幸いと呼び、飢えている者、泣いている者、はずかしめを受けている者を幸いと呼び、その者たちに、喜び踊れとお語りになる。本当に自分自身の罪を知り、惨めさを知り、助けを求める私たちをこそ高く引き上げてくださるために、父なる神は御子イエス・キリストを私たちに救い主として与えてくださったのです。しかもこの主イエス・キリストのお生まれこそが、この大いなる逆転、大なる逆説の最たるものでした。卑しいはしためマリヤに目を留めて彼女を主の母として引き上げてくださるのみならず、神の子自らがその身分と特権のすべてをかなぐり捨てて、貧しい姿でこの地上に来てくださった。このクリスマスの驚きにこそ、神の御業の逆転が示されているのです。
さらにマリヤは今置かれている自分の場所からずっと目を上げて自分の属する民、イスラエルに為された神様の約束のご真実に目を留めていきます。54節、55節。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです」。マリヤは今自分の身に起こっている救い主の誕生の出来事が、主なる神が先祖イスラエルの民との間に結んでくださった救いのお約束、かつて旧約聖書においてアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約の成就であると受けとめているのです。詩篇98篇3節にこう歌われています。「主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる」。神は私たちを忘れ給わない。私たちに対する恵みのお約束を忘れてはおられない。これまでにイスラエルに神は真実を尽くしてくださった。だからこの真実のゆえにこれから後についても希望を抱くことができるのです。
 今ここに生かされている小さな存在にすぎない私が、しかし今ここから神の救いの歴史の全体を思い巡らして神をたたえることが許される。そして神の歴史のすべてを見極めることはできなくても、今ここで自分が生かされていることの中に託されている大切な神の御心を受けとめ、そこに生きることのできる光栄と喜びを味わうことが許されている。ここにある信仰の醍醐味をこの朝、よく味わっておきたいと思うのです。先日の週報でもご紹介した宮村武夫先生の著作集の中に『保線夫として』という講演が収められているのですが、その中にこんなくだりがあります。ずいぶん前にもご紹介したことがあるのですが、あらためてぜひ味わっていただきたいと思い引用しておきます。「『保線』の線は、線路のことです。『線路は続くよ、どこまでも』の線路です。線路を、列車の運転に支障のないように保守、管理する、そのことを保線というわけです。安全で円滑な輸送を確保するために、線路の構造、機能を維持管理すること、これが保線です。そして保線のために働く方を保線夫と呼ぶのです。保線作業の種類は、極めて多いのです。保線夫には、線路全体への揺るがない信頼があります。線路全体に対して信頼のない中で、保線の仕事なんか出来ません。列車が出発する駅、その出発点からずーっと、今、自分の目の前までちゃんと線路が続いている、この確信です。そして今、自分が受け持つ区間。保線夫は線路を初めから終わりまで全部を自分たちだけで担当するわけではないのです。保線区といって、割り当てられた一定の区間があります。この区間に対し責任を持ち、この分の責任を果たすのです。自分が受け持つ保線区を過ぎて後も、この線路は続き、必ず目的地に着く。この確信があるからこそ汗水流して働き、責任を果たすのです。自分が責任を果たさなければ、他の保線区の同僚の働きに大きな躓きを与えてしまいます。また自分がどれだけ忠実に分を果たしたところで、他の保線区の保線夫が忠実に役割を果たさなければ、自分の働きは無に帰してしまう。他者に依存され、他者に依存する存在、それが保線夫なのです。そうです。そうです。保線夫は全体を担うことなど決してできない。またできていると錯覚してはいけないのです。しかしまた自己の役割を卑下することも許されないのです。私たちも、保線夫的自覚を与えられています。天地創造から新天新地へ向かう主なる神の救いの歴史。新天新地を思うと、私は胸が熱くなります。『それはよく分かるけど、今晩のおかず何にする?』との妻の一声。このコンビでなければ、沖縄で十五年生きてこられないのです。父、御子、御霊なる神のご統治のもと、新天新地に向かう万物に及ぶ、この驚くべきご経綸。静かに確実に進展する救いの歴史の中で、私たちのような者にも、分に応じた短い保線区を委ね、保線の役割を与えてくださっているとは。極めて多い作業を含む保線作業、そのことごとくは、実に地味な目立たないものです。汗と見えざる涙を流し、一歩一歩地道に役割を果たします。そして、聖霊なるご自身の列車が通過するときには、保線夫は身を隠すのです。あくまでも線路が中心、列車が中心なのです」(宮村武夫「保線夫として」、『宮村武夫著作I 愛の業としての説教』62-64頁)。
 この朝、神に歌うマリヤの姿はまさにこの保線夫の姿です。そしてその線路のずっと先に、今私たちが担うべき神の救いの歴史の保線区があり、ここで私たちもまた神の大いなる救いの歴史を歌いつつ、それを前へ前へと切り開いていくのです。

(3)喜びの賛美
 マリヤは今自分が生かされているところで、今自分が経験している事柄を通して神をほめたたえています。しかもその賛美は、彼女の個人的な証しの歌にとどまることなく、むしろ神のご計画にしたがって導かれていく御自身の大いなる救いの歴史の全体を見渡し、そこに現れる愛と慈しみに富んだ救いの御業を歌う歌なのです。小さなはしために過ぎないマリヤが、神の大いなる救いを歌い、その御業を歌う。ここに神を信じる者たちに与えられている賛美の特権を味わうことができるのではないでしょうか。しかもマリヤがこのような歌を歌うことができたのは、彼女の幼い時からの生活の中に神の言葉があり、この神への信仰があったからにほかなりません。マリヤは幼い頃から教えられ、聞かされて蓄えてきた旧約の数々の御言葉、イスラエルの救いの物語、詩人たちの祈り、預言者に約束された救い主の預言の御言葉、そういうものによって育て上げられて来ました。そのようにして受け継いできた信仰が今この時に一気に花開いたといえるのであって、このマリヤの賛歌はただマリヤ一人の歌ではなく、彼女の信仰の中に積み重ねられてきた多くの信仰の先達たちの歌、まさに教会の歌なのです。先の宗教改革記念の礼拝でも申し上げたことですが、教会は詩篇を歌うことを大変重んじてきました。また多くの信仰者たちが詩篇によって慰められ、励まされてきたことです。祈れない時には詩篇を唱え、詩篇をもって自らの祈りとするということを多くの方も経験されてきたのではないでしょうか。自らの思いを御言葉に託して祈り、歌う時、私たちの思いは遙かに高く引き上げられ、聖書の民の経験の中に自らを置くことがゆるされる。その時にはマリヤが経験したのと同じように、神がイスラエルに尽くしてくださった真実の故に、私のこれからの歩みにもまた確かな希望を見つめることが許されるのです。
 主イエス・キリストによって成し遂げられた神の救いの御業にあずかり、その歴史の中に巻き込まれて生きる私たちは、たとえたとえ貧しいはしための一人のような小さな存在であっても、ほかならぬ私のこの口で、大いなる救いの神をほめたたえる歌を歌うことができるのであり、また歌わなければなりません。しかもそこで歌われる歌は、決して己れを誇る自己賛美の歌ではなく、むしろ神の御前にある自らの罪や過ちを見つめ、心の底から悔い改め、自らの小ささ、貧しさ、卑しさを受け入れながら、しかしそのような者を愛し、赦し、あわれみの中で生かしていてくださる主なる神のご真実を歌うまことに神への賛美です。私たちはこの神の救いを声高らかに歌う教会でありたいと思います。迎える年、教会は宣教45周年を迎えます。これもまた過去を回顧しつつ、未来を展望する一つの通過点です。しかしそこに至までに神の民が歩んできた歴史、この教会が歩んできた歴史、そこにあった一つ一つの恵み、洗い流されなければならない人間の過ち、それでもなお代わることなく注がれ続けている主の真実をしっかりと担いつつ、また私たちは喜びの賛美を歌いつつ神の御救いを告げ知らせて、今日もここから出て行く。天の御国を目指して進む教会の歩み、私たちの歩みなのです。



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