待降節第一主日朝拝 2009/11/29
『おことばどおりこの身に』

ルカ福音書1:26-38

 2009年の待降節、アドベント第一の主の日を迎えました。一本目のろうそくに火が灯されて、これから一週毎に御子イエス・キリストの御誕生を待ち望む喜びの中に過ごしてまいります。この年のアドベントの祝福が皆さんとともにあるように祈ります。
 さて、今年の待降節から降誕節、クリスマスに向かう主の日においては、ルカ福音書に記されている最初のクリスマスの出来事を通して、私たちのもとに訪れてくださる救い主イエス・キリストとの出会いを果たしてまいりたいと願っています。ルカ福音書は私がこの教会の牧師として赴任して最初に講解説教に取り組んだ御言葉でもあるのですが、あらためて新しくこの御言葉に聞きながら、クリスマスの恵みをご一緒に味わってまいりましょう。そこで今朝は与えられておりますルカ福音書1章に記された出来事、すなわちおとめマリヤが御使いによって主イエス・キリストの身籠もりを知らされる出来事を通して、主なる神の御手に自らをまったく明け渡し、主に委ねる生きる信仰の姿勢を教えられてまいりたいと思います。

(1)受胎告知−驚きの逆説
 毎年この時期になりますと、クリスマスに関する書物を買い求めて学ぶようにしています。先日も銀座の教文館に出かけて数冊の本と一緒に、クロッサンとボーグというアメリカの聖書学者二人が書いた『最初のクリスマス 福音書が語るイエス誕生物語』という本を手にし、少しずつ読み進めているところです。著者たちの立場は私たちのそれとは必ずしも一致しないのですが、しかしできる限り歴史の文脈の中で聖書の出来事を理解しようとする姿勢からは大いに示唆を与えられています。この本の中で著者がルカ福音書のクリスマス描写の特徴をいくつか挙げています。一つは女性に重要な役割が与えられているということ、次に音楽に重要な役割が与えられていること、また社会の周縁や底辺で生きる人々への眼差しがあること、そして聖霊の働きが強調されていることなどです。私の書斎のパソコンのデスクトップには今年のクリスマスの説教計画のメモが貼ってあるのですが、ちょうど今日がマリヤ、次週がマリヤの賛美、その次が貧しさの中での誕生、そしてクリスマス礼拝では御子の降誕の「しるし」を主題に扱うことにしていましたので、この本の指摘と通じるところが多くて一人うなずいていたところです。このような福音書記者ルカの持つダイナミックで繊細で、そして愛と配慮に行き届いた視点に寄り添うようにしながら、クリスマスの恵みを新しく受け取っていきたいと願っているのです。
 まず26、27節を見ましょう。「ところで、その六か月目に,御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった」。この大変短い説明の中に、しかしやがて生まれ出る救い主の誕生がどれほど驚くべき出来事であるかを示す事柄がすでに明らかにされています。救い主イエス・キリストの誕生を告げる御使いガブリエルは、ガリラヤのナザレという片田舎の片隅につつましく生きる、まだあどけなさの残る一人の若き処女マリヤに現れたのです。ガリラヤという救い主誕生の舞台としては全く似つかわしくない貧しい村を舞台に、取り立てて特別な存在ではない一人のおとめを通して、全く新しい救いの歴史が始まろうとしている。ここに主なる神の大いなる逆説、驚くべき恵みの逆説があるのと言えるのです。御使いはマリヤに向かって告げます。28節。「御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます』」。御使いから「おめでとう」との言葉を掛けられても、マリヤにとってその言葉は戸惑いを生むものでしかなかったでしょう。29節。「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」。

(2)真の王、聖なる者、神の子イエス・キリスト
 このような突然の出来事に触れて、マリヤの驚きや戸惑いはどれほどのものだったでしょうか。しかし御使いは続けます。30節、31節。「すると御使いは言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい』」。ここで「おめでとう」と訳される言葉は、「喜べ」という命令形の言葉です。また、生まれる子の名「イエス」は、旧約聖書で約束された「インマヌエル」すなわち「主があなたとともにいる」という救い主を表す言葉です。つまり御使いがマリヤに語った言葉は、喜べ、主があなたとともにいる。恐れるな。主があなたとともにいる、そのような名を持つ救い主があなたから産まれるということです。この言葉の背景にはイザヤ書7章や9章のメシヤ預言があるのですが、つまりマリヤにとっては突然の出来事が、神様にとっては救いのご計画の初めからの御心の実現の時であることが明らかにされるのです。とはいえ、それでマリヤの驚きが減らされるものではありません。それこそ彼女の人生に突然のように舞い降りてきた、いやむしろ強引に入り込んできた出来事です。けれども同時にこの出来事は、「おめでとう、恵まれた方」、「あなたは神から恵みを受けたのです」という言葉でもたらされたように、全面的に上からの神の恵みのゆえの出来事でありました。
 さらに御使いは、マリヤの驚きや戸惑いをよそにやがて生まれ出る救い主がどのような人物であるかを伝えます。32節、33節。「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」。ここで明らかにされるのは、生まれ出るお方がとこしえにイスラエルを治めるダビデの子、まことの王なるお方であるということです。これはかつてイスラエルの王ダビデが神殿建築に取りかかろうとした際に、神様が預言者ナタンを通して語られた救い主の預言の言葉でありました。I歴代誌17章13節、14節にこう記されている通りです。「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしはあなたに先立つ者から取り去ったように、彼から慈しみを取り去りはしない。わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる」。真の王なる主イエス・キリストは、私たちを苦しめる王でなく、御言葉と御霊によって私たちを守り、慈しみ、私たちをご自身の民として従わせ、救いを全うして下さるお方であられ、また35節に「生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」とあるように、罪なき聖なるお方として、しかし私たちの罪を贖う神のひとり子として、私たちの救いを全うして下さるお方なのです。

(3)主のはしため
 御使いの告げたこれらの言葉は、、マリヤにとって御使いの突然の訪問以上の驚きをもたらしたに違いありません。その驚きはまず何と言っても未婚の処女が子を産むという言葉に対するものです。34節。「そこでマリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに』」。このマリヤの言葉には、彼女の心の中に吹き出してくるあらゆる恐れや不安、疑問などが詰まっていたでしょう。許嫁の身であるマリヤが子を身に宿すことは、当時の社会では姦淫の罪、すなわち石で打たれるべき死に値する罪であり、夫となるべき愛するヨセフを裏切る行為でありました。ましてさらなる驚きは、そうやって身に宿した幼子が、神の救い主、いと高き方の子、聖なる者、神の子であられるというのです。彼女の心に中に沸き上がってくる言葉に言い表しきれない様々な感情が、しかしやがて一つの言葉に収束されていくようになる。そのために決定的な役割を果たしたのが御使いのこの言葉です。36節、37節。「ご覧なさい。あなたの親類エリサベツも、あの年になっていて男の子を宿しています。不妊の女と言われていた人なのに、今はもう六ヶ月です。神にとって不可能なことは一つもありません」。
 「神にとって不可能なことは一つもありません」。この言葉を御使いから聞いた時、マリヤの中に一つの決断が起こります。そしてその一つの決断によって、様々な恐れ、不安、疑問あるいは怒りすらもわき上がってきたであろう彼女の心は凪いで、そこから一つの忘れがたい信仰の言葉、そこに自らの人生を丸ごと委ねた言葉が発せられたのです。38節。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。私たちはこの朝、このマリヤの言葉をしっかりと聞き届けたいと思うのです。ここに示される生き方は決して消極的な、単なる受け身の生き方ではありません。自分の力ではどうしようもできない運命に対して降参してしまった人の諦めの姿ではないのです。そうではなく、ここには神の計り知れない御旨をこの身に引き受けて、その通りに生き抜いていく生き方、生かされている日々を生かされている日々として、一日一日と生き抜いていく生き方。大いなる受動性の中にある確かな能動性というものがあるのです。
 自分の予想だにしない大いなる神の救いのご計画の中に巻き込まれ、自分の理解を遙かに超えた神の御心の中に投げ込まれて、しかし彼女はその人生を引き受けたのであり、ここに私たちはマリヤの信仰を見るのです。福音書はこのマリヤの人生を神から恵みを受けた人の人生として描きます。けれどもその人生とは、むしろ苦しみを引き受けて生きる道でした。愛する息子を手放して生きなければならない生き方、その息子の地上の最後をしっかりと見届けなければならない生き方、しかしそこに神の救いの成就を見つめなければならない生き方でありました。自分の身に起こる全てのことが上から来ることを認めて、それを引き受ける人、そこに生かされてある信仰の人生があるのです。マリヤもヨセフもクリスマスに登場してくる人々は皆、本当に小さな、普通の人々です。けれどもそのような人々の信仰の決断が神の大いなる御業の舞台となっていった。決して彼らが望んだからではない。彼らにそのような役目を担うべく選ばれる何かがあったわけではない。けれどもそこに神の自由で主権的な御業が始まっていくのです。

(4)おことばどおりこの身に
 マリヤは主のはしための一人として、主なる神から与えられた人生をそのまま丸ごと引き受けた人です。このような人生、神の下さった賜物としての人生を丸ごと受け入れていく人生。喜びもある。楽しみもある。それとともに、悲しみもある。苦難もある。けれどもそれが主から与えられた人生であるという、ただその一点ゆえに、「ほんとうに、私ははしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いうる人生は、この主の招きに答えて生きる人生なのです。
詩篇119篇で詩人がこう祈ってます。「主よ。みことばのとおりに私を生かしてください」。マリヤの信仰はまさにこの詩人の信仰に連なるものでありました。ひるがえって私たち自身の信仰はどうでしょうか。「みことばのとおりに私を生かしてください」、「おことばどおりにこの身になりますように」、そのように主の御前に言うことのできる信仰があるでしょうか。むしろ私の願い、私の都合、私の計画、私の人生設計、私の自己実現のために神を用いたり、動かしたりしようという心はないでしょうか。クリスマス、それは神の愛のみこころが実現する時です。そしてそのために神の御子イエス・キリストが私たちのもとに貧しく小さな者となってきてくださいました。主イエスは神の子としての特権をかなぐり捨てて、神の御心に従って、私たちのもとに来てくださったのです。そしてこの御子の誕生に際して神が用いられたのも、同じく貧しく小さい存在でありながら、しかも主の御心の前に自分の願いを従わせ、おことばどおりにこの身に、と自らの人生を差し出した女性であったことを思うとき、私たちはあらためて神を信じる信仰ということの基本的な構えを再点検させていただきたいと思うのです。ある先生がアドベント、神が来たりたもうということは、神の冒険、神のアドベンチャーであると言われました。それは神の愛の決断によって始められた冒険です。この神の愛の中に巻き込まれて、私たちもまたこの神の冒険、神のアドベンチャーの中をともに生き始めています。確かに先のことがすべて明らかになってはいない。苦難や涙の谷を過ぎることもあるかもしれない。でもそれでこの人生をあきらめてしまうことなく、投げ出してしまうことなく、マリヤの信仰の言葉を私たち一人一人の信仰の言葉として口ずさみながら、この日々を神に委ねて歩んでまいりたいと願います。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」



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