降誕節記念主日 2007/12/23
『すべて心に納めて』

ルカ福音書2:1-20

2007年のクリスマスを迎えました。御子イエス・キリストの御降誕を喜び、主にあって互いに挨拶を交わしたいと思います。クリスマスおめでとうございます。今年の待降節ではルカ福音書に描き出されたマリヤの信仰の姿からご一緒に学んできました。そしてこの朝、私たちの前には世界で最初のクリスマスの姿を示す御言葉が開かれています。教会では幾度となく開かれる御言葉であり、明晩の燭火礼拝でも語られることになっているよく知られた御言葉ですが、特にこの朝、私たちは一つの御言葉に集中してみたいと思っています。それが19節の御言葉です。「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」。
 聖書が描き出すマリヤの一つの姿、それは間違いなく深く考え、心に留め、思い巡らす人ということでしょう。御使いガブリエルの突然の訪問を受けて聖霊によるみごもりについて知らされたときのことを1章29節はこう記します。「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」。また主イエスの誕生後、少年となられた主イエスがエルサレム神殿でその知恵深さを人々の前に示されたときのことを記す2章51でも「それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた」と記されます。慌てふためく人、浮き足立つ人、落ち着きなく動き回る人でなく、ある出来事、しかも自分の想像もしないような突然の出来事に出会ったときに、彼女はじっと考え、心に留め、思い巡らす人であったのです。今日の19節でもマリヤは「これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」とあります。では、ここに記される「これらのこと」とはいったい何を指しているのでしょうか。それはすなわち、マリヤの身を通して起こった主なる神の大いなる御業の全体とその驚くような進み行きということでしょう。私たちもこの朝、このマリヤの視点に立ってクリスマスの出来事に目を注いでいきたいと思うのです。

(1)最初のクリスマス(v.1-7)
 1節から7節。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけのマリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」。とても印象深い最初のクリスマスの時の光景です。ここでは一方では神の御子イエス・キリストの誕生が世界史的な出来事の中に位置付けられるというスケールの大きな描き方がされていますが、その一方で、このような大きな舞台設定のもとで描き出される事柄そのものは、驚くほどに質素で慎ましいものでした。
 貧しく年若い夫婦が初めての子どもを身に宿しながら、税金を課すための住民登録という決して喜ばしくない理由のためにその身をおしてベツレヘムまで旅をしなければならない。それは抗うことのできない大きな力の中に置かれた彼らの現実です。そのようにしてやっとの思いでベツレヘムに着いたものの、今度は彼らが泊まる宿がない。そうこうするうちにマリヤは出産の時を迎える。初めての出産に際してどんな不安の中に置かれたことでしょうか。そしてやむなく彼らのためにあてがわれた出産の場所は、岩に横穴をくりぬいて造った家畜のための場所です。そして何と生まれた赤ん坊は、その飼い葉桶に寝かされるのです。「おめでとう。恵まれた方」と言われ、あなたから生まれる者は「聖なる者、神の子と呼ばれる」と告げられたその神の子イエスの誕生というにはあまりに粗末なこの光景の真ん中で、彼女はこのことの意味を深く心に納め、思い巡らしたのではないでしょうか。

(2)クリスマスを祝う人々(v.8-14)
 続いて描かれるのは、この最初のクリスマスの知らせが届けられた人々の姿です。それは身を寄せ合って夜を過ごす小さな羊飼いたちの集いでありました。羊飼いという職にある人々は、当時の社会にあってはその最も低い層に属する人々でした。町の囲いの外にあって昼夜を分かたず羊の世話をし、囲いの中で営まれる人々の日常から切り離された人々。囲いの中からは卑しい存在とされた虐げられた人々です。けれどもそのような羊飼いのもとに主の使いは現れます。8節から11節。「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです』」。ここには後の教会が信仰の告白、福音の宣教に用いるようになる大切な言葉が登場します。その一つは「すばらしい喜びを知らせに来た」という言葉です。これは「喜びの知らせを福音宣教しに来た」とも訳せる表現であり御子イエス・キリストの誕生を知らせる御使いの言葉が、そのまま教会の宣べ伝えるべき福音宣教の言葉となっていることがわかるのです。今一つは「救い主」と言う言葉です。これは本来はローマ皇帝に向けて用いられる呼び方でしたが、福音書はルカはこれを飼葉おけの幼子イエスに向けて用います。さらにもう一つが「この方こそ主キリストです」という言葉です。この方こそ、私たちを罪の中から救ってくださるただ一人の救い主、私たちの主なるお方である。これはキリストの教会が二千年にわたって告白し続けてきた信仰の告白そのものであります。
 しかも、そのようなお方の誕生のしるしを知らせる御使いの言葉は驚くべきものでした。12節。「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。この民全体のためのすばらしい喜びは飼葉おけに寝かされたみどり子にあらわれたというのです。「すばらしい喜び」とは直訳では「大きな喜び」です。大きな喜びの実体は小さな小さな幼子、飼葉おけに眠る幼子だというのであり、その喜びの訪れを知らされたのは暗闇の中で小さな光のもとに集まるまことに貧しく慎ましい人々であり、その喜びの舞台となったは「最も小さいもの」と呼ばれるベツレヘムであったというのです。ここには大いなる恵みの逆説があると言わなければなりません。しかし御使いは、「これがあなたがたがのためのしるし」だというのです。これを手がかりに主キリストを捜し出し、見つけだせと言うのです。ある人は言うかも知れません。「自分はそれほど落ちぶれてはいない。そこまで切羽詰まってはいない。飼い葉おけの赤ん坊に助けを求めるほど追いつめられてはいない。バカにするな」と。しかしこのしるしは神の愛のしるし、喜びのしるしです。罪人を救う救い主、主キリストがこの地上にこのような姿でお出でになったのは、この上ないほどの具体的で生々しい神の愛のしるしです。またそのようにしてまで私どもを救うことをよしとされる神の喜びのしるし、そして何としてでも私たちを救い出そうという神の決断のしるしなのです。

(3)神をあがめ、賛美しながら(v.15-20)
 この知らせを聞いたとき、羊飼いたちは立ち上がります。15節。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」。彼らをこの応答に駆り立てたもの、彼らを単に聞くだけの者で終わらせなかったものは一体何だったのでしょうか。それは御使いが繰り返し語った「あなたがたのため」という言葉であります。「この民全体のためのすばらしい喜び」が、「あなたがたのために救い主が生まれた」という仕方で差し出され、飼い葉おけに眠るみどりごが、「あなたがたのためのしるし」であると語られた時、彼らはこれを「主が私たちに知らせてくださった」出来事と受け取ったのです。「福音」とは本来このような「私たちのための」、「私のための」語りかけです。それは上からの、外からの語りかけでありますが、しかしただ漠然と宙に漂う言葉ではありません。それは「あなたがたのため」という明確な的に向かって語り出される言葉です。そしてこの言葉が私たちの存在に触れる時、それは確かに「私たち」のうちに語り込まれ、鳴り響く言葉となり、さらには応答を引き起こす言葉となるのです。では羊飼いたちに引き起こされた応答とは何でしょうか。それは16節。「そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼い葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」ということです。「すばらしい喜びの知らせ」が「あなたがたのために」告げられる時、その喜びの知らせは私たちをその場から立ち上がらせ、主イエス・キリストのもとへと急ぎ走らせるのです。そしてついに彼らは飼葉おけに眠る神の御子イエス・キリストとの出会いを果たすのでした。
羊飼いたちは主イエスを捜し当てると、荒野での御使いたちの現れとそこで知らされた言葉、そこで与えられたしるし、それを頼りにこうしてここに辿り着くまでのいきさつをヨセフとマリヤに語ります。17節、18節。「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことをしらせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた」。さらに20節。「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった」。神をあがめ、賛美する羊飼いの姿。ここには主イエス・キリストとの出会いを経験した人々の中に引き起こされる喜びの礼拝の姿が描き出されています。彼らはそのように賛美しながら帰っていく。町囲みを出て、再び彼らは羊たちの待つ荒野に戻っていく。あの日常、人々から虐げられ、疎んじられた生活へと帰っていくのです。ではこの夜の出来事は何であったのか。一晩だけの夢のようなおとぎ話のような出来事であったのか。これだけは確かなこととして言えるのは、主イエス・キリストとの出会いを経験した人々は賛美と礼拝の人生を新しい人となって歩みを始めるということです。

(4)心に納め、思い巡らし(v.19)
 こうした一連の出来事を自ら体験し、また言葉で伝え聞いたマリヤの姿を最後にもう一度見つめておきましょう。19節。「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」。ここには驚きや戸惑い、恐れを突き抜けて、さらにそこに込められた主の御心に聴き、それを深く把握することへと進む思いが表れています。「心に納める」、「思い巡らす」と訳された二つの言葉は、それぞれ「一緒に、共に」という言葉が頭についた「共に保つ」「共に投げ入れる」という意味から生まれた言葉です。二つの、あるいはそれ以上の様々な思い、それらは時に相反するような、バラバラに見えるような思いかも知れません。けれどもそれらを心の内でぎゅうっと一つにまとめ上げていく、そういう営みを意味する言い方です。マリヤは天使の告げ知らせから始まってこれまで自分の身に起こった「すべての出来事」を心の中に投げ入れました。そしてそれを心の中に忍耐強く保ち続けたのです。ここでさらに大切なのはマリヤにとってのこの心の動きは、信仰の決断や服従と連動しているということです。マリヤが心に納め、思い巡らすのは決断するためではありません。どうしようか、従おうか従うまいか、ということを逡巡する悩みの時ではありません。彼女の態度はすでにあの1章38節で決まっています。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。つまり決断のための思い巡らしではなく、決断のゆえの思い巡らしなのです。
 私たちはしばしば日々の生活の中で起こってくる出来事に振り回され、その中で心騒ぐものです。相反する言葉や思いの中にどうして良いか分からずに慌てふためき、その答えをじっと待つことの難しさをおぼえるものです。けれどもそこで私たちは主なる神が御子イエス・キリストを通して私たちにどれほどの愛を注いでいてくださるかを覚え、その主の愛によって愛されている者として、このお方に従う決断のもとにすべてを心の中に投げ入れて、そこから本当に熟成された信仰の歩みを取り出していく。そのような信仰の働く時間や空間を確保したいと願うものです。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.