待降節第三主日 2007/12/16
『わがたましいは主をあがめ』

ルカ福音書1:46-55

 待降節第三主日の朝を迎えました。いよいよ来る主の日にはこの年のクリスマスを迎えようとしているこの朝、私たちはルカ福音書1章に記されたマリヤの賛美の歌を通して、低く貧しい者を高く挙げ、豊かに祝福してくださる神の大いなる御業をほめ歌う信仰の姿に教えられて行きたいと思います。

(1)神を大いなるものとする(v.46-49a)
 エリサベツのもとを訪れたマリヤに、エリサベツは「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と祝福の言葉を贈りました。これに応えるようにしてマリヤは神様をほめたたえる賛美の歌を歌い始めます。46節から49節前半。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」。このマリヤの賛歌、後の時代には「マグニフィカート」と呼ばれて、バッハや数多くの音楽家が曲を付けて歌い継がれてきたものとして知られた賛美です。「マグニフィカート」という言葉は、ラテン語聖書の46節冒頭の言葉から取られたのですが、もともとの新約聖書のギリシャ語では「大きくする」という意味の「メガリュノー」という言葉が使われており、直訳すると「私のたましいは主を大いなるものとします」ということです。またこの賛歌は、旧約のIサムエル2章1節から10節に記されるサムエルの母ハンナの歌と大変よく似ており、そこに詩篇やイザヤ書など多くの旧約からの引用がちりばめられた大変に凝った造りのスケールの大きな歌となっています。
 まずマリヤは「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と賛美の声を上げます。そして自分がこのように主をほめたたえるのは主が「この卑しいはしために目を留めてくださったから」であり、「力ある方が、私に大きなことをして」くださったからと、賛美の理由を明らかにします。さらには「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と言うのです。御使いの告げ知らせを聞いて、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、主の御心をその身に引き受けた時、彼女にとって主の母となる人生は喜びの人生、「力ある方」による大いなる人生として輝きだしたのです。この賛美には神に信頼して生きる人の人生の価値の置き所がどこにあるかが示されていると言えるでしょう。後の時代になってこそ、「主の母」として崇められるようになったとは言え、実際のマリヤの生涯を見れば、後の時代の人が彼女を「しあわせ者」と思うかというのは微妙です。むしろ主イエス・キリストの母として、苦しみを担わなければならなかったのが彼女の人生ではなかったでしょうか。見方を変えれば神の上からの介入によって思いも寄らない人生に導かれ、かき回されてしまった人生と言えなくもありません。けれどもマリヤはそのような自らの人生を喜び、自らの人生に介入された主なる神を喜びたたえるのです。そこには、自らの思い通りの人生を安穏無事に送ることを自らの喜びとするのではなく、神の救いのご計画にその身もろとも与っていくことに真の喜びを見い出した人の姿があるのです。主の御手の中で人生が導かれていく。マリヤはこのようにして主なる神のために生きる人生を喜びとし、しあわせとしました。この人生を生き抜いたという点で、確かに私たちは彼女をしあわせ者と認めることができるのです。

(2)大いなる救いの歴史を歌う (v.49b-55)
 続いて49節後半から53節。「その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たないで追い返されました」。第二の区分では、マリヤが受け取った神のお姿と、その救いの御業についての告白が歌われます。この賛美の背景にあるのは詩篇103篇17、18節、「しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ」という旧約の賛美です。彼女はこのように自らが体験した神のあわれみとご真実を、詩篇の詩人の心に重ね合わせて歌うことのできる人でした。また、救い主の訪れを通して表される神の御業は大いなる逆転の時です。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました」と歌われる通りです。事実、主イエス・キリストが宣べ伝えられた福音には、このような神の国の大いなる逆説が込められていました。マタイ福音書の山上の説教に対して「平地の説教」と呼ばれるルカ6章では、貧しい者を幸いと呼び、飢えている者、泣いている者、はずかしめを受けている者を幸いと呼び、その者たちに、喜び踊れとお語りになる。本当に自分自身の罪を知り、惨めさを知り、助けを求める私たちをこそ高く引き上げてくださるために、父なる神は御子イエス・キリストを私たちに救い主として与えてくださったのです。しかもこの主イエス・キリストのお生まれこそが、この大いなる逆転、大なる逆説の最たるものでした。卑しいはしためマリヤに目を留めて彼女を主の母として引き上げてくださるとともに、神の子であられる御方がその身分と特権のすべてをかなぐり捨てて、貧しい姿でこの地上に来てくださった。このクリスマスの驚きにこそ、神の御業の逆転が示されているのです。
そして第三の区分で、マリヤは今置かれている自分の場所からずっと目を上げて自分の属する民、イスラエルに為された神様の約束のご真実に目を留めていきます。54節、55節。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです」。マリヤは今自分の身に起こっている救い主の誕生の出来事が、主なる神が先祖イスラエルの民との間に結んでくださった救いのお約束、かつて旧約聖書においてアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約の成就であると受けとめているのです。この時代、人々は未来への希望を持ち得ない暗い闇の中に歩んでいました。ローマの圧政、ヘロデの暴政に苦しめられて、神の民としての栄光はそれこそ風前の灯火でありました。しかしそのような中で、マリヤはそれでも神のご自身の民へのお約束が真実であることに堅く信頼を寄せたのです。
 この賛美の背景にある詩篇98篇3節には次のようにあります。「主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる」。神は私たちを忘れ給わない。私たちに対する恵みのお約束を忘れてはおられない。これまでにイスラエルに神は真実を尽くしてくださった。だからこの真実のゆえにこれから後についても希望を抱くことができるのです。キリスト教信仰とは、希望の宗教であるといってもよいでしょう。そしてこの希望は失望に終わることがないとパウロが語るように、そこにはそれが希望となるだけの確かな根拠がある。それが主なる神のお約束とそのお約束を果たされる主の御真実だということなのです。希望と約束。これが一つとなって私たちを支え、明日へと一歩を踏み出させてくださるのです。

(3)わがたましいは主をあがめ
 以上のように、このマリヤの賛歌は主なる神の私たちに対する愛と慈しみに富んだ救いの御業を、旧約聖書に記された救いの歴史とそれを表す数々の御言葉を見事なモザイクのように的確に組み合わせて歌ったスケールの大きな賛美です。ところで今日の聖書の研究者の中には、マリヤのような一介のおとめがこのようにスケールの大きな、そして深い信仰の理解を含み持った賛美を歌えるはずがないとして、この歌は元々マリヤが歌ったものではなく、後の時代に旧約に親しんでいたユダヤ人キリスト者が教会で歌った賛美をルカがマリヤの賛美として歌わせたのだとというように考えます。一見なるほどと思わせる説明ですが、考えてみるとこれはマリヤに対して大変失礼な言い方のように聞こえます。マリヤにこんな高尚な歌が歌えるか、というのですから。
 しかし私たちはこの歌をマリヤの歌であり、マリヤでなければ歌えなかった歌として読む時にはじめて、そこから私たちもまたマリヤと共にこの喜びの賛美を歌うことのできる道に立つことができるのであります。マリヤは幼い頃から教えられ、聞かされて蓄えてきた旧約の数々の御言葉、イスラエルの救いの物語、詩人たちの祈り、預言者に約束された救い主の預言の御言葉に自らの思いを重ねて歌ったのでしょう。自分が経験しなかった時代に、しかし神が確かに為したもうた恵みの御業を思いながら、その御業の確かさの故に今の自分の置かれているそのままの姿を御言葉に託して歌うことができる、この幸いを覚えたいと思うのです。教会は詩篇を歌うことを大変重んじてきました。また多くの信仰者たちが詩篇によって慰められ、励まされてきたことです。祈れない時には詩篇を唱え、詩篇をもって自らの祈りとするということを多くの方も経験されてきたのではないでしょうか。自らの思いを御言葉に託して祈り、歌う時、私たちの思いは遙かに高く引き上げられ、聖書の民の経験の中に自らを置くことがゆるされる。その時にはマリヤが経験したのと同じように、神がイスラエルに尽くしてくださった真実の故に、私のこれからの歩みにもまた確かな希望を見つめることが許されるのです。
 主イエス・キリストによって成し遂げられた神の救いの御業に与った者は、たとえ貧しいはしための一人であっても、この救いの神をほめたたえる歌を歌うことができるのであり、また歌わなければならないのです。その意味で私たちは神の御救いを声高らかに歌う教会でありたい。神の民が歩んできた歴史、この教会が歩んできた歴史、そこにあった一つ一つの恵み、洗い流されなければならない人間の過ち、それでもなお代わることなく注がれ続けている主の御真実、それらすべてをひっさげて、私たちは今日も歌い、また明日も歌うのであります。それが御国を目指して進む教会の歩み、私たちの歩みなのです。

 



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