待降節第二主日 2007/12/09
『女の中の祝福された方』

ルカ福音書1:39-45

 二本目のろうそくに火が灯されて、待降節第二主日の朝を迎えました。今年の待降節から降誕節に向かう礼拝では、ルカ福音書1章に記されたイエスの母マリヤの信仰の姿からご一緒に学びはじめています。そこでこの朝は、神の救いのお約束を信じる者の祝福と幸いについて御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)エリサベツとマリヤの出会い(v.39-40)
 御使いガブリエルによって、聖霊によって身ごもり、やがて男の子を産む、その方は神の子であるという驚くべき知らせを受けたおとめマリヤは、すでに高齢になってから神の恵みを受けて子を授かり、お腹の大きくなっている祭司ザカリヤの妻エリサベツのもとを訪れます。39節、40節。「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした」。福音書を記すルカはすでに36節の御使いの言葉によってマリヤとエリサベツが親戚関係であったことを示していますから、恐らくマリヤは自分の身に起こったこの驚くべき出来事、しかも誰にも相談することのできない大きな心の重荷を背負わされて、すがるような思いでエリサベツのもとを訪れたのではないでしょうか。しかしその一方で、福音書はこの二人の女性が引き合わせられる光景を、一方では年老いたエリサベツが子を身に宿し、他方では年若き処女マリヤが聖霊によって身籠もるという、どちらも主なる神の不思議で特別な御業の中に今まさに巻き込まれている共通の経験を持つ二人の出会いとして描き出されています。
 それにしても、他の福音書に描かれることのない主イエス誕生以前のエピソード、しかも主イエスと洗礼者ヨハネとの関わりが実はその母親たちの時からすでに実に濃密な交わりとして存在していたというこれらのエピソードを、ルカがこれほどまでに丁寧に描き出すのにはどういう理由があるのでしょうか。ここでルカが描き出すマリヤとエリサベツの出会いの光景には、そこに神が導かれる大きな救いの歴史のつながり、すなわち旧約の時代と新約の時代との間の結び目と区切り目が示されていると言えるのです。つまり年老いたエリサベツとその胎にある洗礼者ヨハネは旧約時代の幕が閉じられることのしるしであり、若きマリヤと彼女から生まれる主イエス・キリストこそは、新しい新約時代の幕開けを示しています。神の救いの約束と待望を示す旧約聖書と、救いの約束の成就と実現を示す新約聖書の繋がりを、ルカはこのような二人の女性とそのお腹に身ごもられた二つの新しい命の存在を通して鮮やかに描き出し、そこに旧約と新約を一貫して進む神様の恵み深い救いの歴史の道筋を示そうとしているのだと言えるのです。

(2)聖霊による喜び(v.41)
 続いて41節。「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた」。マリヤの訪問を受けたエリサベツは、彼女のあいさつの声を聞いた時に「子が胎内でおどり、聖霊に満たされた」とあります。マリヤのエリサベツへの「あいさつ」は、「こんにちは」というような単なる「あいさつ」ではありません。むしろそれは、御使いガブリエルがマリヤのもとに来て告げたのと同じような特別なあいさつであります。ここでの「あいさつ」という言葉は、29節でマリヤがガブリエルから「おめでとう、恵まれた方」という言葉を聞いた際に「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」という時のあいさつ、つまり「喜べ」と語られたのと同じ言葉です。さらにこの時、エリサベツの胎内で子がおどったとあります。ここでの「おどる」という表現は新約聖書で三回だけ、しかもいずれもルカ福音書だけ、さらにそのうち二回は今日の41節と44節で用いられる珍しい表現です。一読すると「ああ、これは子どもがお母さんのお腹を蹴飛ばしているのだ。ずいぶん元気な赤ん坊だ」とほほえむような場面ですが、この「おどる」という言葉は、それこそ文字通り「踊る」、あるいは「飛び跳ねる、飛び上がって喜ぶ」という意味を持つ表現で、とても普通の胎動どころではない動きを示しています。もう一カ所この言葉が用いられるルカ6章23節を見ると「その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい」とあります。つまり、御使いがマリヤに語った「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられます」と同じ祝福の言葉がマリヤからエリサベツにも告げられて、マリヤが聖霊の臨在のもとに覆われたのと同じように、この時エリサベツもまた聖霊に満たされ、胎の実がおどるという仕方で主イエス・キリストを迎えたことによって引き起こされる聖霊による喜びが湧き起こっているのであります。
 ここには主イエス・キリストを迎える人々のうちに起こる喜びが、どれほど大いなるものであるかが先取りした形で示されていると言えるでしょう。主イエス・キリストが私たちのところに来てくださる、私たちのもとを訪れてくださる。それは大いなる喜びの出来事、それこそおどり上がり、飛び跳ねて喜ぶほどの大いなる恵みに満ちた喜びの出来事なのだということです。この福音書を記したルカは、主イエスを迎えることの喜びを知った人であったようです。彼はこの福音書を「テオピロ」という一人の友の救いを願って書いているのですが、ルカはまことにこのテオピロにも主イエス・キリストを救い主と信じて心に迎える時に与えられる大いなる喜び、他の何ものによっても得ることができず、また他のなにものにも替えることのできない本当の喜びを知ってほしいと切に願っているのであり、またルカ自身がその喜びをすでに味わい知って、喜びおどる人として、この福音書を書いているのです。クリスマスの夜に、地上にお出でくださった主イエス・キリストは、失われた人である私たちを捜し出して救うために来てくださったまことの救い主であり、このお方をお迎えする時、私たちのうちにもまた聖霊による喜びがわき起こるのです。

(3)女の中の祝福された方(v.42-45)
 聖霊に満たされたエリサベツは、マリヤに対して心からの祝福の言葉を述べます。この場面もまた後の出来事を先取りした形で記されていますが、それは後の洗礼者ヨハネと主イエス・キリストとの関係、また主イエス・キリストと世の人々との関係が先取りした形で表されていると言えるのです。42節から45節。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」。ここで本来なら年長者であるエリサベツが年若いマリヤに対してこれほど身を低くした態度をとることは考えられないことですが、エリサベツもまた聖霊に満たされた人として、聖霊の力におおわれたマリヤの胎において始まっている神の御業を認めているのです。すなわち、マリヤの前に己れを低くするエリサベツの姿は、後の日に主イエス・キリストの前に「靴のひもを解く値打ちもない」とそれこそ身を低くして語る洗礼者ヨハネの姿を先取りしているとも言えるのです。さらにまたエリサベツのマリヤへの祝福の言葉は、主イエス・キリストと世の人々との関係の先取りでもあります。この点をルカ11章27節から28節の箇所との比較で確かめておきたいと思います。「イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。『あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。』しかし、イエスは言われた。『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです』」。
 今日の1章とこの11章を読み比べてわかることは、今日の場面でのエリサベツとマリヤのやりとりが、後の11章での群衆の中から叫ぶ婦人の言葉とそれへと主イエス・キリストの答えの先取りとしての意味を担っているということです。すなわち42節の「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています」は、11章27節の「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」に対応し、45節の「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」は、11章28節の「幸いなのは、神の言葉を聞いてそれを守る人たちです」に対応しているのです。さらにこの28節の言葉はルカ8章19節から21節の「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです」という言葉とも響き合う言葉として記されているのです。つまりエリサベツのマリヤに対する祝福の言葉は、マリヤ一人に語られているようでありながら決して彼女一人に限定された言葉としてではなく、実はマリヤとともに、後の時代に神のことばを聞いて信じる人々、神のことばを聞いて行う人々、さらにはこの御言葉を今、まさにこうして受け取っている私たち一人一人への言葉として語りかけられているということなのです。
 ローマ・カトリック教会はエリサベツのマリヤに対する「女の中の祝福された方、私の主の母」という言葉から、マリヤを「神の母」として特別な存在、礼拝の対象としてさえ崇めようとするマリヤ崇拝の教理をうち立てて行きました。しかしそれはマリヤ自身の自覚とはほど遠いものであります。なぜならマリヤ自身の自覚と言えばそれは先週学んだ「私は主のはしためです」という言葉の通りであり、聖書もまた一貫して彼女を「祝福された方」、つまり神の恵みの中に巻き込まれていった受け身の人として描き出しているのです。むしろここでの中心点はマリヤを特別視することにあるのではありません。そうではなく、マリヤのように主の御言葉に自らの身を委ね、その約束を信じきる人がどれほど幸いであるかを示すところにその中心があるのです。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いでしょう」との言葉は、そのような意味で、決してマリヤ一人に向けて語られた祝福の言葉ではなく、マリヤとともに主イエス・キリストの言葉を信じきって身を委ねる者に向けられている言葉なのです。本当に幸いな人、喜びにおどることのできる人、神の祝福を受けた人、それはただ「主の言葉を信じきる者」です。そしてそのようにして神の言葉を聞いて信じる人たちは、神に祝福された人であるというのです。私たちも主イエス・キリストの御声に聞いて信じる者、信じきる者とさせていただきたいと思います。さらにこの信じること、信じきることもまたそれは全く受け身の事柄です。聖霊なる神様が私たちのうちにあって働いてくださる時に、聖霊が私たちの中に信仰を起こしてくださるのであって、そこで必要なことはただ一つ、自らをその御霊の促しの前に開かれた者とすること、自分自身を明け渡し、委ねることです。その時に「祝福された方」という呼びかけの言葉を私たち自身への言葉として聞くことができるのです。この大いなる喜び、大いなる祝福の中に主イエス・キリストが招いていてくださる。その招きに応えて、主からの喜びと祝福に与る私たちでありたいと願います。

 



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