待降節第一主日 2007/12/02
『主のはしため』

ルカ福音書1:26-38

 2007年も12月を迎え、この朝から待降節、アドベントに入ります。一本目のろうそくに火が灯されて、これから一週毎に御子イエス・キリストの御誕生を待ち望む喜びの中に過ごしてまいります。この年のアドベントの祝福が皆さんとともにあるように祈ります。 さて、今年の待降節(アドベント)から降誕節(クリスマス)に向かう主の日においては、ルカ福音書1章に記されたイエスの母マリヤの信仰の姿からご一緒に学びたいと願っています。そこでこの朝は、おとめマリヤが御使いによって主イエス・キリストの身籠もりを知らされる、いわゆる「受胎告知」と呼ばれる場面、この大変印象深く美しい場面を描き出す御言葉から、主に自らを明け渡して委ねる信仰の姿勢を学びたいと思います。

(1)受胎告知−驚きの逆説
 今年はマリヤの映画が公開されることもあって、ちょっとしたマリヤ・ブームが起こっているようです。これに合わせて、マリヤにちなんだ書物もいくつか出版されています。私の手元に一冊の大変興味深い本があります。神学界の碩学といわれるヤロスラフ・ペリカンという先生が記した邦題では「聖母マリア」、原題は「世紀を通じてのマリア」という書物です。これと同じ著者によって記されたこれと対になる書物、「世紀を通じてのイエス」という本も「イエス像の二千年」という邦題で講談社学術文庫から出ていますが、どちらもこの二千年の歴史の中でイエス・キリスト、そしてマリヤがその時代の中でどのように受け入れられていったかを文学、絵画、思想、その他のあらゆる文化に目を配りながら記した一大思想史、文化史として優れたものです。このマリヤの書物の最初の数頁に、古くは四世紀のフレスコ画、新しいものでは1940年代に前衛画家によって描かれた同じモチーフの絵が次々に並べられています。その一つのモチーフというのが、今日開かれている御言葉の箇所、すなわち「受胎告知」の場面なのです。それほどの、この場面は後の時代の多くの人々の関心を引き、またそこに様々なイマジネーションをかき立てられる神秘的で麗しい光景でありました。けれども私たちとしては、そのような絵画を通してではなく、御言葉に記された事柄に集中して、マリヤの姿を見つめておきたいと思うのです。
 まず26、27節を見ましょう。「ところで、その六か月目に,御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった」。この大変短い説明の中に、しかしやがて生まれ出る救い主の誕生がどれほど驚くべき出来事であるかを示す事柄がすでに明らかにされています。救い主イエス・キリストの誕生を告げる御使いガブリエルは、ガリラヤのナザレという片田舎の片隅につつましく生きる、まだあどけなさの残る一人の若き処女マリヤに現れたのです。ガリラヤという救い主誕生の舞台としては全く似つかわしくない貧しい村を舞台に、取り立てて特別な存在ではない一人のおとめを通して、全く新しい救いの歴史が始まろうとしている。ここに主なる神の大いなる逆説、驚くべき恵みの逆説があるのと言えるのです。御使いはマリヤに向かって告げます。28節。「御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます』」。御使いから「おめでとう」との言葉を掛けられても、マリヤにとってその言葉は戸惑いを生むものでしかなかったでしょう。29節。「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」。

(2)真の王、聖なる者、神の子イエス・キリスト
 このような突然の出来事に触れて、マリヤの驚きや戸惑いはどれほどのものだったでしょうか。しかし御使いは続けます。30節、31節。「すると御使いは言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい』」。ここで「おめでとう」と訳される言葉は、他では単に「こんにちは」と訳される一般的な挨拶ですが、元々の意味では「喜べ」という命令形の言葉です。また、生まれる子の名「イエス」は、旧約聖書で約束された「インマヌエル」すなわち「主があなたとともにいる」という救い主を表す言葉です。つまり御使いがマリヤに語った言葉は、喜べ、主があなたとともにいる。恐れるな。主があなたとともにいる、そのような名を持つ救い主があなたから産まれるということです。この言葉の背景にはイザヤ書7章や9章のメシヤ預言があるのですが、つまりマリヤにとっては突然の出来事が、神様にとっては救いのご計画の初めからの御心の実現の時であることが明らかにされるのです。とはいえ、それでマリヤの驚きが減らされるものではありません。それこそ彼女の人生に突然のように舞い降りてきた、いやむしろ強引に入り込んできた出来事です。けれども同時にこの出来事は、「おめでとう、恵まれた方」、「あなたは神から恵みを受けたのです」という言葉でもたらされたように、全面的に上からの神の恵みのゆえの出来事でありました。
 さらに御使いは、マリヤの驚きや戸惑いをよそにやがて生まれ出る救い主がどのような人物であるかを伝えます。32節、33節。「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」。ここで明らかにされるのは、生まれ出るお方がとこしえにイスラエルを治めるダビデの子、まことの王なるお方であるということです。これはかつてイスラエルの王ダビデが神殿建築に取りかかろうとした際に、神様が預言者ナタンを通して語られた救い主の預言の言葉でありました。I歴代誌17章13節、14節にこう記されている通りです。「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしはあなたに先立つ者から取り去ったように、彼から慈しみを取り去りはしない。わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる」。真の王なる主イエス・キリストは、私たちを苦しめる王でなく、御言葉と御霊によって私たちを守り、慈しみ、私たちをご自身の民として従わせ、救いを全うして下さるお方であられ、また35節に「生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」とあるように、罪なき聖なるお方として、しかし私たちの罪を贖う神のひとり子として、私たちの救いを全うして下さるお方なのです。

(3)主のはしため
 御使いの告げたこれらの言葉は、、マリヤにとって御使いの突然の訪問以上の驚きをもたらしたに違いありません。その驚きはまず何と言っても未婚の処女が子を産むという言葉に対するものです。34節。「そこでマリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに』」。このマリヤの言葉には、彼女の心の中に吹き出してくるあらゆる恐れや不安、疑問などが詰まっていたでしょう。許嫁の身であるマリヤが子を身に宿すことは、当時の社会では姦淫の罪、すなわち石で打たれるべき死に値する罪であり、夫となるべき愛するヨセフを裏切る行為でありました。ましてさらなる驚きは、そうやって身に宿した幼子が、神の救い主、いと高き方の子、聖なる者、神の子であられるというのです。彼女の心に中に沸き上がってくる言葉に言い表しきれない様々な感情が、しかしやがて一つの言葉に収束されていくようになる。そのために決定的な役割を果たしたのが御使いのこの言葉です。36節、37節。「ご覧なさい。あなたの親類エリサベツも、あの年になっていて男の子を宿しています。不妊の女と言われていた人なのに、今はもう六ヶ月です。神にとって不可能なことは一つもありません」。
 「神にとって不可能なことは一つもありません」。この言葉を御使いから聞いた時、マリヤの中に一つの決断が起こります。そしてその一つの決断によって、様々な恐れ、不安、疑問あるいは怒りすらもわき上がってきたであろう彼女の心は凪いで、そこから一つの忘れがたい信仰の言葉、そこに自らの人生を丸ごと委ねた言葉が発せられたのです。38節。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。私たちはこの朝、このマリヤの言葉をしっかりと聞き届けたいと思うのです。ここに示される生き方は決して消極的な、単なる受け身の生き方ではありません。自分の力ではどうしようもできない運命に対して降参してしまった人の諦めの姿ではないのです。そうではなく、ここには神の計り知れない御旨をこの身に引き受けて、その通りに生き抜いていく生き方、生かされている日々を生かされている日々として、一日一日と生き抜いていく生き方。大いなる受動性の中にある確かな能動性というものがあるのです。
 自分の予想だにしない大いなる神の救いのご計画の中に巻き込まれ、自分の理解を遙かに超えた神の御心の中に投げ込まれて、しかし彼女はその人生を引き受けたのであり、ここに私たちはマリヤの信仰を見るのです。福音書はこのマリヤの人生を神から恵みを受けた人の人生として描きます。けれどもその人生とは、むしろ苦しみを引き受けて生きる道でした。愛する息子を手放して生きなければならない生き方、その息子の地上の最後をしっかりと見届けなければならない生き方、しかしそこに神の救いの成就を見つめなければならない生き方でありました。自分の身に起こる全てのことが上から来ることを認めて、それを引き受ける人、そこに生かされてある信仰の人生があるのです。マリヤもヨセフもクリスマスに登場してくる人々は皆、本当に小さな、普通の人々です。けれどもそのような人々の信仰の決断が神の大いなる御業の舞台となっていった。決して彼らが望んだからではない。彼らにそのような役目を担うべく選ばれる何かがあったわけではない。けれどもそこに神の自由で主権的な御業が始まっていくのです。
 マリヤはそこから逃げませんでした。自分の幸せを優先しなかった。その人生をそのまま丸ごと引き受けたのであります。このような人生、神の下さった賜物としての人生を丸ごと受け入れていく人生。喜びもある。楽しみもある。それとともに、悲しみもある。苦難もある。けれどもそれが主から与えられた人生であるという、ただその一点ゆえに、「ほんとうに、私ははしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いうる人生は、この主の招きに答えて生きる人生なのです。

 



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