夕拝(バルメン宣言による説教9) 2004/09/05
『神の言葉はつながれず』
IIテモテ2:9

 およそ三ヶ月かけて学び続けてまいりましたバルメン宣言の学びもいよいよ今晩で終わることになります。今晩はバルメン宣言の最後、第六項に掲げられた第二テモテの御言葉を通し、神の言葉の自由という事柄についてご一緒に御言葉から教えられたいと思います。

(1)福音の自由、宣教の自由
 一ヶ月近く間が空きましたので、少し前回のおさらいから始めたいと思います。まずバルメン宣言の第六項には二つの御言葉が掲げられていました。そのうちの一つは前回取り上げましたマタイ福音書28章20節にある主イエスの大宣教命令の結びの御言葉。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。そして今一つが、今晩この学びの締め括りとして開かれております第二テモテ2章9節の「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません」です。今晩はこの二つ目に掲げられたテモテへの手紙の御言葉を中心に学ぶことにいたしますが、まずここでバルメン宣言第六項をもう一度見てみましょう。「『見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいるのである』(マタイ28:20)。『しかし、神の言葉はつながれてはいない』(IIテモテ2:9)。その中にこそ教会の自由の基礎があるところの教会への委託は、キリストにかわって、したがってキリスト御自身の御言葉と御業に、説教とサクラメントによって奉仕しつつ、神の自由な恵みの使信を、すべての人に伝えるということである。教会が、人間の自立性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめることができるというような誤った教えを、我々は斥ける」。
 前回学んだように、この第六項で宣言されていることは、主イエス・キリストが御自身のからだなる教会に委ねられた教会の使命についてであり、その使命とは「神の自由な恵みの使信をすべての人に伝えること」、その方法は「キリスト御自身の御言葉と御業への奉仕」により、そこで用いられる手段は「説教とサクラメント」でありました。つまり地上の教会は御言葉の説教と聖礼典の執行を通してキリスト御自身の御言葉と御業に奉仕し、それをもって神の自由な恵みの使信である福音をすべての人に伝えるという宣教の使命に生きるのです。そこで今晩注目したいのは、ここで繰り返される「自由」という言葉です。一つは「その中にこそ教会の自由の基礎があるところの教会への委託」、今一つは「神の自由な恵みの使信」という表現です。バルメン宣言第六項は、主イエス・キリストの教会が自由であること、そしてその自由の基礎は福音にあること、教会はこの自由な恵みの使信を自由に宣べ伝えるものであることを明らかにします。ここで言う自由さとは、何か憲法上保証されている信教の自由、思想信条の自由といったことを遙かに超えたより本質的な自由のことです。教会は福音の自由に立つものとして、自由なる福音を、それこそいつでも、どこでも、誰にでも宣べ伝えることのできる自由を与えられているのであって、誰によっても、どのような力をもってしてもこの自由を奪ったり、侵したりすることはできません。主イエス御自身が「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」とヨハネ福音書8章32節で言われた通りです。

(2)神の言葉の自由
 さて、バルメン宣言第六項が掲げる第二テモテの御言葉は次の通りです。「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません」。この御言葉が語られている2章の文脈に目を留めてみると、獄中にある老年の使徒パウロが若き伝道者テモテに対して1節では「わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」、3節で「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」、8節では「私の福音に言う通り、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」と続けられる命令形の中で語られていることがわかります。キリストに従う中で出会う様々な苦難の中で、しかし「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」と13節で語られる主イエス・キリストに従って歩むようにとの励ましが語られており、そのような励ましの根拠として、神のことばの自由であることが高らかに語られているのです。
 私たちがこの人生を生きていく中でも、もはやこれまでと思えるような極限的な状況、ぎりぎりの限界の場面に直面することがあるでしょう。仕事の上で、家庭生活の中で、自分自身の肉体の健康や経済状況。信仰生活においてですら例外ではありません。それらの中でもうこれが限界、これ以上先に進むことはできないというような状況のただ中に立たせられる時、しかしその中にただ一つだけ、そのような状況を突破するものがある。それが神の御言葉なのです。神の言葉の自由さを私たちはしっかりと今晩受け取っておきたいと思うのです。
 最後に、私自身がこれまで繰り返し読んでは心打たれ、また皆さんにも度々ご紹介してきたブルーダーの『嵐の中の教会』の一節をお読みしてこの説教を閉じたいと思います。「グルント牧師の説教のテキストは、『神の言葉は繋がれてはいない』でありました。牧師はこんな話をしました。既に使徒たちを迫害し、獄につないで、福音を宣べ伝えることを妨げようとした者があった。さらにその後のあらゆる時代にも、福音の敵は、キリストの福音の使者を桎梏のもとにつなげば、キリスト自身も沈黙するに違いないと、いつも信じていたのである。しかし神の言葉は繋がれたことがないのだ。御言葉とその宣教を誰かが束縛した時にこそまさに、御言葉はより高い調子で、またより明瞭に語りかけるのである。リンデンコップ村の教会もまた、小さい群れではあるけれども、実に単純な信仰を持った人々がいる。そういう人々は、そのキリストに対する信仰を一歩たりとも譲ろうとはしないのである。山の上にある町、あるいは村は隠れることができないというあの聖書の言葉がドイツにおいて成就する時が、今や間近に迫っているのだと、私は思う。そう話した後で、牧師はさらにこう続けました。『もっともっと困難な時代になって、あなたがたが、もう何もかも駄目になってしまった、というふうに考えることがあっても、どうか皆さん、神の言葉は繋がれてはいないということを思い起こし、またそのことに固着していただきたい。神の言葉は人間の束縛を受けることもないのです。私はこういうことがないことを望みますけれども、もし私たちのうちで最後まで抵抗する者が誰一人としてなかったとしても、神の言葉は私たちに左右されることはありません。神の言葉は自らその進む道を定めて、永遠に残るのです。なぜなら、それは神の言葉であるからです』」。

 



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