夕拝(バルメン宣言による説教8) 2004/08/08
『いつもともにある神』

マタイ28:20

 いよいよバルメン宣言の学びも終わりに近づいて来ました。今晩はバルメン宣言の最後の条項である第六項の、主イエス・キリストの委託とそれに応える教会の宣教の使命、主イエス・キリストのお約束について、ご一緒に御言葉から教えられたいと思います。

(1)教会への委託
 バルメン宣言の第六項には二つの御言葉が掲げられています。一つは今日お読み頂いたマタイ福音書28章20節にある主イエスの大宣教命令の結びの御言葉。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。今一つは第二テモテ2章9節の「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません」です。そこでこの第六項についても今回と次回の二回に分けて学んでおきたいと思います。まずはバルメン宣言第六項を見てみましょう。「『見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいるのである』(マタイ28:20)。『しかし、神の言葉はつながれてはいない』(IIテモテ2:9)。その中にこそ教会の自由の基礎があるところの教会への委託は、キリストにかわって、したがってキリスト御自身の御言葉と御業に、説教とサクラメントによって奉仕しつつ、神の自由な恵みの使信を、すべての人に伝えるということである。教会が、人間の自立性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめることができるというような誤った教えを、我々は斥ける」。
 ここで語られている一つのことは、教会のかしらなる主イエス・キリストが御自身のからだなる教会に委ねられた使命についてです。主からの委託された使命とは「神の自由な恵みの使信をすべての人に伝えること」であり、その方法は「キリスト御自身の御言葉と御業への奉仕」によるとされます。そしてそのために用いられるのは「説教とサクラメント」であるというのです。つまり地上の教会は御言葉の説教と聖礼典の執行を通してキリスト御自身の御言葉と御業に奉仕し、それをもって神の自由な恵みの使信である福音をすべての人に伝えるという宣教の使命に生きるのです。ここでまず私たちが覚えたいことは、教会が恵みの使信、喜びの訪れである福音の宣教に生きるのは、この世界に対する教会の奉仕の業であると以上に、キリスト御自身に対する奉仕であるということです。私たちは聖霊の注ぎを受け、福音を携えてこの世に派遣されていくのですが、しかしその時にも絶えず、この宣教の業がキリストに対して捧げられている奉仕であることを忘れてはなりません。そしてさらに言えば、そのような私たちのキリストへの奉仕が成り立つのは、実は父なる神が、御子イエス・キリストを通し、聖霊によって私たちに福音の内実である救いの御業を成し遂げてくださったという三位一体の神の側からの私たちに対する奉仕があったからなのであり、それゆえに私たちも聖霊の力を受けて、御子イエス・キリストの御言葉と御業に奉仕しつつ、神の国の前進に参与しているのだということになるのです。さらに今一つのことは、この教会の果たす宣教の業は、主イエス・キリスト御自身に代わっての、いわば代理としての業であり、さらにそこで差し出されるのは生けるキリスト御自身であるということです。私たちが御言葉を宣べ伝える時、そこでは生けるキリスト御自身が差し出されているということ、これを覚える時に私たちの宣教の言葉にはキリスト御自身の魂に対するあつい思いが宿るのです。パウロが第二コリント5章20節で次のように語っている通りです。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」。

(2)いつもともにある神
 さらにバルメン宣言は排斥の部分で次のように宣言します。「教会が、人間の自立性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめることができるというような誤った教えを、我々は斥ける」。ここでは教会が主イエス・キリスト御自身から委託された業を、キリストから離れて、人間の自立性において果たそうとすることの誤りが斥けられています。私たちは主イエス御自身から委託された使命を主から離れて成し遂げるのではなく、絶えずこの使命を委託された主なるイエス・キリスト御自身の守りと支えの中にあって全うするのであり、いかなる場面においても「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」という主イエスの御言葉は私たちにとって真実なお約束として鳴り響いているのです。
 バルメン宣言が出された1930年代のドイツの多くの教会は、この主からの委託に応答して生きることを止めてしまったのでした。しかもそれはドイツだけの話ではなく、同じ時代の日本の教会についても言えることです。そこでは始めから敗北があったわけではありませんが、しかし「いつも、ともにある」主のお約束を信じ切ることができなくなった時、教会は主からの委託を放棄することになっていったのです。しかしそんな中でバルメンに結集した告白教会の一団は、主から託された教会の使命にどこまでも単純に、誠実に従っていこうとした群れでありました。そこには一方ではパウロが第一コリント9章16節で語った「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしてもしなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います」という意識があったことでしょう。しかしそれ以上に彼らの戦いを支えたのは「いつも、ともに」おられる主イエス・キリストのお約束であったに違いありません。バルメンの戦いは政治的な戦いではなく、主の委託に答えるための教会的な戦い、信仰告白的な戦いでした。これまで学んできたように、バルメン宣言においても直接的な政治的発言や主張は見受けられません。あるのはただ教会がまことに教会であるための極めて当たり前な基本的な言葉だけです。しかしその当たり前の言葉を語ることが極めて重い意味を持った時代の中で、主の委託に応答しつつこれらの言葉を語り切ることができたのは、ただひたすらに「いつも、ともに」ありたもう主なる神の約束の確かさと、その確かさに対する信頼のゆえに他ならないのです。私たちが生かされているこの時代も、教会がその委託に応えて生きるには決して優しい時代ではありません。しかしそのような時こそ私たちは、あの主の弟子たちとともに、そしてバルメンに結集した兄弟姉妹たちとともに、時代を超え、場所を越えてなお確かに鳴り響く、主イエスのお約束の御声に聞き続ける者でありたいと願います。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。

 



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