夕拝(バルメン宣言による説教7) 2004/08/01
『正義、平和、自由』

ローマ13:1

 今日は先週に引き続いて、バルメン宣言の中でも議論になる条項である第五項の、キリストを主と信じ告白しつつ生きるキリスト者の、この世の国家や為政者たちに対する関わり方について、ご一緒に御言葉から教えられて行きたいと思います。

(1)国家の権威とその限界
 先週私たちは、バルメン宣言第五項がその冒頭の御言葉に第一ペテロ2章17節を掲げたことの意義について学びました。そしてその際に、古代教会の時代以来、教会と国家の問題を扱う際に引かれる聖句はもっぱらローマ書13章1節から7節の御言葉であったということを申し上げました。そこでまずローマ書13章1節の御言葉を見ておきましょう。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」。前回見た第一ペテロ2章17節の御言葉がそうであったのと同様に、国家には神によって与えられた権威とともに神によって定められた限界付けがあり、キリスト者が国家に従うのも、絶対的な服従と言うよりは終末の光に照らした自由に基づく服従という性格のものでした。今日のローマ書でも13章の勧めの前提となっているのはいわばローマ書の後半部分、倫理編のまとめともいうべき12章1、2節の御言葉です。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」。このように神のみこころに生きる真の礼拝者として、この地上で生きる時に、そこで避けて通ることのできない国家との関わりの中で、神によって立てられたがゆえに、上に立つ権威に従うことが教えられているのです。
しかしながら後の時代にはしばしばこの点が弱められて、この御言葉はしばしば国家の神的起源と神的権威を主張する御言葉として理解され、適用されてきました。国家は神の定められた「創造の秩序」であるので教会はこれに絶対的に服従すべきであるとの主張です。特にこのような理解が伝統的に受け継がれていたのが当時のドイツにおいてでした。そしてその思想的な根拠は宗教改革者ルターの教会と国家についての考え方にあると言われます。ルターの考え方は通常「二王国論」と称され、神のこの世に対する支配統治は霊的領域の統治と世俗的領域の統治とに分けられて、世俗の統治もまた神的な権威を帯びると理解されたのです。ルター自身は必ずしもそのような二元論的な理解を主張したわけではなく、むしろキリストの全領域にわたる支配の下での統治様式の違いを主張したのですが、後の時代には国家は創造の秩序に基づいて立てられた権威ゆえに、教会はこれに干渉しないという風潮を生み出す結果となったのです。そしてそのもっとも先鋭的かつ醜悪なかたちでの表れが、ヒトラー時代のナチ政権だったのです。そしてヒトラー率いるドイツ国家を神的な権威として崇め、これに進んで服従する教会も次々に生まれていったのです。
(2)正義、平和、自由
このような状況の中でバルメン宣言第五項は次のように言っています。「国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける。教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによって自ら国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける」。ここでバルメン宣言は第二項で「われわれがイエス・キリストのものではなく、他の主のものであるような、われわれの生の領域がある」というような誤った教えを斥けると語ったことを引き継ぎながら、この主イエス・キリストの被造世界全領域にわたる支配の下で、国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序になること、また教会がその特別の委託をこえて、自ら国家の一機関となるべきことの両者を斥けているのです。このように主イエス・キリストがこの世界の主であることを信じ、告白する中に、国家もまたそのキリストの支配の下に位置づけられ、教会もまたキリストを主と信じ、告白するゆえに、その国家の権威を重んじ、これに服するのです。しかしながら、このような国家に対する服従は、国家が正しくその委託と使命を果たす時に成り立つものです。そして国家がもし仮にその委託と使命とを放棄して暴走を始め、異なる使命に生き始めようとする時、教会はこれに対して警鐘を鳴らさなければなりませんし、またそれをもっても国家が暴走を止めない場合は、教会はこれに対して明確な「否」の声を発し、これに抵抗することをしなければならない局面があります。これは宗教改革の教会が多くの苦難と忍耐を経て思想化した「抵抗権」という思想です。これもまた今日の教会が自覚的に受け取り直さなければならない重要な事柄といえるでしょう。ドイツ教会闘争の殉教者であるディートリヒ・ボンヘッファーは言いました。「常軌を逸した者が自動車を暴走させた時、私はその場に居合わせた牧師として、車に轢かれた人を単に慰めたり、埋葬したりするばかりでなく、自ら自動車の前に躍り出て、それを止めなければならない」。まさにそのような抵抗の時があるということを心に刻んでおきたいと思います。
 最後に、バルメン宣言第五項は国家の果たすべき役割について「人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、正義と平和のために配慮する」ことと語りました。しかし今日の社会にあっては国家の果たすべき役割はいよいよ多様化し、さらにグローバル化の進んだ国際社会にあっては「国家とは何か」という事柄そのものが問われていると言わなければなりません。この宣言の草案執筆にあたったカール・バルトは、戦後にこのバルメン宣言第五項について論じた際、「正義と平和のために配慮するという課題」を「国家は公共の福祉に仕え、正義と平和と自由のために配慮する」と言い換えたいとのべました。そこでは人間の共同の幸せのために国家は奉仕し、正義と平和とともに、自由のために配慮する。ここに国家の使命があるというのです。人間が国家の秩序や権力に仕えるのではなく、国家が人間の共同の幸せに奉仕するのであり、国家は人間を力の行使によって画一化させ、全体主義的に一人の支配者に服せしめるのではなく、人間を正義と平和と自由のための配慮によって、自分たちと異なる隣人とともに生きる豊かな生へと生かしめるのです。

 



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