夕拝(バルメン宣言による説教6) 2004/07/25
『神を恐れ、王を尊べ』

Iペテロ2:17

 今日はバルメン宣言の中でしばしば最も議論になる条項である第五項に掲げられたペテロの手紙第一の御言葉を通して、この世に生きるキリスト者の国家や為政者たちに対する関わり方について、ご一緒に御言葉から教えられて行きたいと思います。

(1)神を恐れ、王を尊べ
 私たちが主イエス・キリストにあって生きていこうとする時に、必ず問わなければならないことは、私たちが何を信じるかという問いと、信じた私たちはいかに生きていくかという問いでしょう。キリストを信じた私たちは、このキリストにあって生きていくのであり、信仰の問題はそのまま私たちの日々の営みの在り方へと直結するものです。それゆえに私たちがイエス・キリストをただ一人の主、王の王、救い主と信じ、告白して生きていこうとする時に避けて通ることのできない重要な課題が、一方ですでにもたらされた神の国の民としてこの地上で生きつつ、しかも他方でいまだ完成していない神の国を待ち望みつつこの地上に生きる一人の国民、市民としての社会的かつ政治的な在り方ということでしょう。今日取り上げるバルメン宣言第五項が語るのは、まさしくそのようなキリスト者の国家に対する態度についての宣言なのです。そこでまず最初にバルメン宣言第五項の全体を見ておきましょう。「『神をおそれ、王を尊びなさい』(Iペテロ2:17)。国家は、教会もその中にある、いまだ救われていないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、正義と平和のために配慮するという課題を、神の定めによって与えられていると言うことを、聖書は我々に語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神に対する感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける。教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによって自ら国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける」。
 ここで注目したいのは、バルメン宣言第五項がその最初に掲げる御言葉がペテロの手紙第一2章14節であるという事実です。古代教会以来、このようなキリスト者の国家に対する関わりを論じる際に引用されるのは、ほとんどの場合においてローマ書13章1節の「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」の箇所でした。しかしバルメン宣言は敢えてここでペテロの手紙の御言葉を掲げています。そもそも今日の御言葉が語られた文脈を辿ってみると、「旅人、寄留者であるあなたがた」(11節)キリスト者が、「おとずれの日」(12節)に向かって生きるという終末論的なトーンの中での倫理的な教えが語られる箇所です。そこにおいてもまず13節で「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と権威一般への服従の勧めが教えられ、続いてキリスト者の基本的な服従の態度として16節で「あなたがたは自由人として行動しなさい」と教えられます。その上で14節で「すべての人を敬いなさい」と教えられたことに続いて「神を恐れ、王を尊びなさい」と勧められるのです。さらにその後に続いては18節以下ではしもべたち、3章1節以下では妻たち、そして7節以下では夫たちへの教えが続き、締め括りとして3章8節に「最後に申します。あなたがたは、みな心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい」と教えられています。すなわちここで確認しておきたいのは、王の権威への尊敬と服従が極めて相対化された仕方で教えられているということなのです。

(2)終末の光の下で
 このことは、ペテロの御言葉の「神を恐れ、王を敬う」という言葉の並べられている順序において決定的な意味をもって表現されています。まず何をおいても第一に神を恐れること、そしてそのもとにあって第二のこととして王を敬うこと。これが決して覆されたり、入れ替わったりすることのない神の定めたもうた地上の権威の立つ位置なのです。そしてバルメン宣言はこの「神を恐れ、王を尊ぶ」という在り方においてキリスト者の国家に対する態度を明らかにしていきます。まずバルメン宣言は「聖書が語る」という御言葉の権威に基づいて地上の国家制度とその役割を認めています。「国家は、教会もその中にある、いまだ救われていないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、正義と平和のために配慮するという課題を、神の定めによって与えられていると言うことを、聖書は我々に語る」。しかしこのことは無批判かつ無条件的な国家的権威の承認と服従を意味するものではありません。それはあくまでもキリストの王的支配のもとにおける相対的な権威であり、なおかつ「いまだ救われていないこの世にあって」、すなわち終末の完成から見るならば未だ不完全な状態における相対的な権威なのであって、そこにおいては国家の権威は限界性、暫定性、中間性を持つものであることが主張されるのです。
 その上で世にあるキリスト者、そして世にある教会は、バルメン宣言第二項の「他の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放」によってこの神のもとに立てられた国家とその権威に対して自由かつ主体的に奉仕するのです。この場合でも、その服従の根拠は「教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する」という確信です。これは言うまでもなくバルメン宣言第一項が「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」と宣言して以来貫かれている確信なのです。ナチス時代のドイツにあっては、国家の制度や権威は神の創造の秩序に基づくものとして絶対化され、教会もまたそれに服従する臣民たることが要求されていました。実際教会の側からも教会の使命は民族と血に仕えることであるというような言葉がまことしやかに語られた時代でした。そのような中でバルメンの会議に結集した告白教会は、国家もまた終末の光の下では暫定的な権威に過ぎないことを明らかにし、教会の国家への服従は、神の御言葉に照らした枠組みにおいて、という限界を持っていることを明らかにしたのです。この理解が私たちにとっても極めて今日的な意味を持つということを今晩改めて確かめておきたいと思います。

 



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