夕拝(バルメン宣言による説教3) 2004/07/04
『キリストの義と聖』

Iコリント1:30

 今日はバルメン宣言第二項に掲げられた、コリント人への手紙の御言葉を通して、主イエス・キリストが私たちの義となり、また聖となって下さった贖いの恵みと、そのキリストが私たちに求めておられる歩みについて、御言葉から教えられて行きたいと思います。

(1)キリストの義、キリストの聖
 今日取り上げるバルメン宣言第二項は、その冒頭に掲げられている御言葉も、またそこで論じられている事柄も、私たちの信仰の確立の上で極めて重要なテーマが扱われている箇所と言えるでしょう。まず第二項全体を見ておきたいと思います。「『キリストは神に立てられて、私たちの知恵となり、義と聖と贖いとになられたのである』(Iコリント1:30)。イエス・キリストは、我々のすべての罪の赦しについての神の慰めであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼は、我々の全生活に対する神の力ある要求でもある。彼によって我々は、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放が与えられる。我々がイエス・キリストのものではなく、他の主のものであるような、われわれの生の領域があるとか、我々がイエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるなどという誤った教えを、我々は斥ける」。
 ここで掲げられているコリント人への手紙の御言葉は、私たちの救いの教理の核心とも言うべき義認と聖化について教えている御言葉です。私たちが父なる神の御前に罪赦され、義と認められるのも、また罪赦された私たちが聖なる者とされているのも、それら全ては私のうちにある何物かによるのではなく、ただただ主イエス・キリストによることであるとパウロは教えているのです。そして主イエスが十字架の贖いによって勝ち取って下さった義と聖が、聖霊によって私たちが主イエス・キリストと一つに結び合わされることにより、主イエスを信じる私たちにもたらされるので、私たちはこのキリストの義によって義と認められ、キリストの聖さに与って聖化の道を辿ることができるのです。

(2)神の慰め、神の要求
 このように、キリストが私たちの義となり、聖となり、贖いとなって下さったという御言葉を通して、バルメンに集まった教会は一体何をそこから何を学び、またどのようなチャレンジを受け取ったのでしょうか。第二項はここでまず二つのことを語ります。「イエス・キリストは、我々のすべての罪の赦しについての神の慰めであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼は、我々の全生活に対する神の力ある要求でもある」。イエス・キリストは私たちにとって神の慰めであり、また同時に神の力ある要求であるというのです。先の第一項ではキリストは「我々が聞くべき、また我々が生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」と語られていました。この私たちの生と死において信頼し、服従すべき御言葉なるキリストが、第二項においてはそのリフレインのようにして、神の慰め、また力ある要求であると繰り返され、言い直されているのです。私たちの全存在とその全生活、時間も身体も経済も政治も、その全領域を貫いて、キリストが我々の主であることを告白するということは、ただイエス・キリストだけが私たちを罪の縄目から解き放ち、全き赦しを与えて下さると言う恵みの事実においてただ一つの慰めであり、しかも同時に、このお方によって罪赦された者として生きる新しい人としての歩みは、この地上で神の力ある要求に答えて生きる、恵みへの応答の歩みであると言えるのです。私たちはただ神から受ける罪の赦しの慰めにおいて生きるだけでなく、その慰めの中にあって与えられる神の求めに応じて生きる者でもあるのです。ここに信仰の戦いの論理が生まれ出ると言えるでしょう。
 信仰の戦いは、根本的に神の慰めからの求めに応じて始まるのであって、神があっての人の順番です。その逆ではありません。最初に神の要求があって、それに縛られて生きるのではなく、神の与えたもう罪の赦しの慰めがあって、それから神の要求が来るのです。それゆえに神の求めに応じて生きる道は、たとえそれが重く辛く厳しい道であったとしても、しかしそこにある種の明るさ、朗らかさが絶えずあるのです。第二項は続けます。「彼によって我々は、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放が与えられる」。このように、罪赦された者として神の求めに答えて生きる信仰者の道は、束縛の道でなく「自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放」の道であるとバルメン宣言は語ります。この言葉の持つ明るさは一体どこから来るのでしょうか。それは主イエス・キリストの福音そのものの持つ明るさです。この福音の持つ慰め、明るさ、朗らかさのゆえに、私たちは信仰の戦いの中を歩まされる時にもユーモアをもってその道を進むことができるのです。

(3)我らのすべてなるキリスト
 最後のバルメンの第二項は次の排斥の言葉で締め括られます。「我々がイエス・キリストのものではなく、他の主のものであるような、われわれの生の領域があるとか、我々がイエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるなどという誤った教えを、我々は斥ける」。これこそが、ローマの迫害下にあった初代教会の時代からこのかた、イエスを主と告白する教会の信仰の中心であり、そしてナチス時代のドイツ告白教会はこのことをよりリアルに告白しなければならない状況下に生きていたのです。それでは翻って私たち今日の日本の教会の置かれている状況はどうでしょうか。私たちにとってはキリストだけがあらゆる生の領域の主であることは自明なことなのでしょうか。これに対してむしろ私たちは甘い認識を持つことはできないでしょう。イエス以外がその主であることを主張するような生の領域が、私たちの周りに広がり続けているという危機感を持ってこの時代を見据えることが今日の教会には必要なのではないでしょうか。
 かつてオランダの神学者であり首相でもあったアブラハム・カイパーは、イエスが主であることを主張されない領域は、この地上に1インチたりとも存在しないと語りました。キリストが我らの全てである。キリストが我らの知恵であり、義であり、聖であり、贖いである。日曜日だけでなく月曜日も火曜日も水曜日も、教会の歩みだけでなく会社でも家庭でも学校でも、心の中だけでなく、身体においても、信仰の領域だけでなく、経済においても政治においても、主がすべてのすべてであられることを信じ告白しつつ、神の力ある要求に喜びをもって答えながら、今日からまた戦いの日々へと祈りつつ神と世界に仕える自由なる奉仕の道へと赴いていく私たちでありたいと願います。

 



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