夕拝(バルメン宣言による説教1) 2004/06/13
『神のことばは永遠に立つ』

イザヤ40:6-8

 私たちが今晩から新たにこの夕の礼拝において取り組もうとしておりますのは、今からちょうど70年前、ドイツ告白教会によって作られたバルメン宣言と呼ばれる文書に基づく御言葉の学びです。ある特定の時代、ある特殊な状況の中に置かれた教会が、そこで御言葉を通して何を教えられ、何を確信し、何を言い表したのか。その一つの証しを通して、そこに込められた御言葉の真理に私たちも耳を傾け、私たちの教会の在り方を整えることを願いつつ、今日からご一緒に御言葉に教えられて行きたいと思います。

(1)状況の中で聞くことば
 私たちはこれまでこの夕拝において使徒信条を学び、またニカイア・コンスタンティノポリス信条を学んで来ました。また水曜夜の祈祷会ではこの四年間でハイデルベルク信仰問答を繰り返し繰り返し学んで来ました。これらの信条や信仰問答の類をコツコツと学び続けてきたことの意図は、それらを通して私たちが御言葉に立ち、その御言葉を聞き、信じ、告白し続けてきた教会の歴史に学ぶこと、またそこで培われてきた教理の言葉を通して教会の基礎を踏み固めることを願ってのことでした。しかしそのような学びを通して明らかにされてきたことの一つに、このような信仰の告白の言葉が、絶えずそこに生きてきた教会が直面していた具体的な状況と切り離すことのできない緊張関係の中で言い表されてきた「戦いの言葉」であったということです。教会が聞き、学び、そして服従し、応答し、告白する言葉。それは、その時代時代の教会が置かれた時と場という具体的な状況の中で、御言葉への応答としてなされた信仰の告白の言葉であると言えるでしょう。当然の事ながら、私たちの信仰の営みは決して真空状態の中で続けられるものではありません。私たちは極めて固有で具体的な状況の中にあって、一人の信仰者として信じ、生きているのであり、またそのような者たちの群れとしての教会において御言葉に聞き、従い、応答し、告白することが求められているのです。
 「信仰告白の事態」(status confessionis)ということが言われます。イエス・キリストをただ一人の主と言い表す告白が脅かされ、揺るがされるような事態、しかしそのような時だからこそ、私たちが何を信じ、何によって生かされているかを明確に告白すべき事態のことです。そして昨今の私たちの国や社会の有り様を見る時に、国が再び戦争に向かう備えをなし、日の丸・君が代が強制され、教育基本法や平和憲法の改正が声高に冴えばれ始めて、全体主義的な国の在り方への傾斜が強まるこの国の状況もまた、私たちに信仰の告白の戦いの時に生かされているという意識をいやが上にも生じさせているのではないかと思うのです。私たちはこのような2004年の日本という極めて限定された状況の中で、かつて1930年代のナチスの独裁主義国家において、御言葉の教えから多くの教会が離れていた中でひたすら御言葉に聞き従い、信仰の告白のために戦ったドイツ告白教会の、特殊な状況下で語られた告白の言葉に聞いていきたいと願うのです。それは単に過去の時代の教会を振り返ることを意味するものではありません。そうではなくそのような応答を引き出した御言葉の真理に目を留めて、私たちがさらに前へと歩みを進むためなのです。
(2)状況を越えていく永遠の御言葉
 1934年5月29日から31日にかけてドイツのバルメンという町の教会に国内の多くの地方から告白教会闘争に参加する教会の代表たちが集まって会議を開催しました。その最終日に採択されたのが、このバルメン宣言です。この宣言文の正式な名称は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」となっているように、文字通りこの時の教会は、自分たちの信仰の告白が脅かされるという緊急の状況の下で、その状況に向かって一つの言葉を言い表したのでした。その前文には次のように記されています。「我々は今日、この事柄に関して、ルター派・改革派・合同派各教会の肢々として、共同して語り得るし、また語らねばならない。我々がそれぞれの異なった信仰告白に対して忠実でありたいと願い、またいつまでも忠実でありたいと願うゆえにこそ、我々には沈黙が許されない。それは、共通の困窮と試練の一時代の中にあって、我々は一つの共通の言葉を語らしめられると信じるからである」。これから私たちが学ぼうとする一つの教会の証しの言葉、告白の言葉。それは確かにこのような今から70年も前のドイツにおいて語られた言葉ですが、しかしそれはその時代の教会の創作の言葉でなく、あくまでも彼らが信じてきた神の言葉に対する真摯な応答であったという点で、私たちはその御言葉の確かにしっかりと目を向けておきたいと思うのです。
 バルメン宣言は全六項目の宣言を結ぶにあたり、次の一句をもって締め括っています。「神の言葉はとこしえに保つ」(Verbum Dei manet in aeternum)。この言葉は明らかに今日開いているイザヤ書40章8節の御言葉と共鳴するものと言えるでしょう。神のことばは永遠に立つ。それこそがいつの時代にあっても、どんな困難な状況下にあっても、教会が依って立つことのできる確かな足場でありました。状況の中で聞く言葉は、しかしその言葉を生ぜしめるものが神の御言葉であるがゆえに、状況の中にありつつ、しかし状況に左右されない真理として、状況を越えていく大きな力を持つものです。預言者イザヤの生きた時代、それもまた彼の祖国である南ユダ王国においては国家存亡の危機の時代でありました。大国アッシリアによって北イスラエルは滅ぼされ、さらにその脅威は南にまで迫っていました。王たちがそのような事態に直面し、様々な政治的手段によってその危機を回避しようとする時に、しかしイザヤは神の言葉の確かさとその希望を指し示し続けたのです。主なる神は預言者イザヤを通して「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と、都エルサレムに向かって語りかけ、そして言われました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上を吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」。国家の一大事と人々がうろたえ浮き足立ち、軍事的な力や政治的な力によって生き抜こうと躍起になる中で、しかし主なる神は、そのような世界を透徹した眼差しで見つめ、それらの過ぎゆくべきものであることを見極めて事柄を相対化し、その中で変わらないもの、絶対のもの、永遠のものにこそ目を留めるようにと私たちを促されるのです。状況の中に生きつつ、しかしその状況を過ぎゆくものとして見つめ、しかし状況を覆し、それを突破する永遠の御言葉にのみ聞き従い、力ある福音に生きていくこと。これが私たちが今晩、イザヤ書の御言葉から聞きとり、またバルメン宣言から学び取りたいただ一つのことなのです。すべてのものが揺れ動き、過ぎゆく中でただ一つ変わることなく、確かなものに私たちはその土台を据えて生きる者でありたいと願います。「神のことばは永遠に立つ」のですから。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.