宗教改革記念賛美礼拝  2005/10/30
『礼拝の喜び』

ネヘミヤ8:1-12

 私たちはこの朝の礼拝を、宗教改革記念の主日として覚え、特に賛美礼拝を捧げています。1517年10月31日、カトリック教会の一修道士であったマルチン・ルターがヴィッテンベルク城教会の城門にあった大学掲示板に、罪の赦しの権威を巡る公開討論を求める質問状、いわゆる「95箇条の提題」を掲げたことをきっかけに始まった宗教改革運動を記念して、それ以来プロテスタント教会ではこの日を記念するのです。
 「宗教改革」と言いう日本語の表現は、本来のこの事柄の意味を十分に表しているとは言えません。「改革」という言葉は私たちの身の回りでも声高に叫ばれて、既成の事柄を打ち壊すことを指しているようですが、宗教改革運動は本来的にいって聖書に基づいた教会の回復、礼拝の回復であり、何よりも真の信仰の回復でありました。ですからそこでは絶えずすべての源である聖書に立ち返ってみることが必要なのです。このことを覚えつつ、今朝は旧約聖書ネヘミヤ記に記された御言葉を通して、私たちの礼拝の姿について教えられたいと思います。
 
(1)礼拝の回復(v.1-4)
 まず今日の御言葉の背景となる事柄をご説明しておきたいと思います。ネヘミヤの生きた時代は、イスラエルがバビロンに捕らえ移されたいわゆる「バビロン捕囚」の後、ペルシャ王クロスによって捕囚からの帰還が許され、祖国の地に戻ったイスラエルの民が、そこで再び神殿を再建し、神の民としての歩みを回復しようとする、そういった時代でありました。まず祭司エズラによって律法に基づいた社会の秩序の回復が図られ、続いてネヘミヤをリーダーとして神礼拝のための神殿の再建工事が行われていったのです。そしてついに神殿とその周囲の城壁の修復工事が完了し、その記念として「水の門の前の広場」に民は集い、神を礼拝する集いが持たれる。それが今日の8章に記されている出来事です。
 ここに描かれる神の民イスラエルの姿は、教会の改革と回復、再生はどこから始まるのかということを私たちに教えていると言えるでしょう。教会の改革は、その最も中心的なところ、一番大切なところ、教会のいのちに関わるところから始まっていく。すなわちそれは神への礼拝から、ということなのです。16世紀宗教改革も、この道を辿っていきました。礼拝の中から非聖書的で魔術的な習慣が取り除かれ、民衆たちがわかる言葉で説教が語られ、民衆たちの言葉で賛美が歌われるようになっていったのです。神の民の回復、それはなによりもまず礼拝の回復から始まっていったということを覚えておきたいと思います。

(2)神の言葉の回復(v.5-8)
 さて、この水の門の前の広場における集いの中心はなんと言っても祭司エズラによる律法の朗読とレビ人たちによるその説き明かしでした。3節。「水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた」。また7節、8節。「ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバテ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した」。ここには神のことばを巡ってそれを語り、聞くという礼拝の最も中心的な事柄が述べられています。ちなみに、ここでの礼拝は夜明けから真昼まで延々と続くのですが、その間、入れ替わり立ち替わりレビ人たちが立って律法の解き明かしをする。民はその間、立って聞いていたと言うのですから驚きです。一時間半の礼拝、30分ほどの説教。なにをか言わん、でしょう。しかしとにもかくにも大切なのは律法が読まれ、それが解き明かされ、そしてそれが理解されるということです。最近、ある説教についての学び会の中で、今日の教会における説教の喪失あるいは説教の放棄ということが指摘されました。教会が説教を重んじなくなってきている。視覚に訴えることが盛んになり、語り、聞くということが失われつつある。牧師が説教をしなくなっているというのです。旧約の南北分裂王国の時代、偶像礼拝に明け暮れた王たちはみな神の律法をことごとく軽んじました。わずかにヒゼキヤやヨシヤといった王が律法を重んじたくらいで後はそれらを顧みることすらしなかった。しかし今やエズラ、ネヘミヤ時代になり、国が再建されていこうとするこの時に、彼らがその中心に据えたのはやはり神の言葉であり、その説き明かしであったということの意味を思います。神の語りかけを聞くことなしに、私たちは自らが何者であり、何をなすべきであり、何を目指して歩むべきかを悟ることはできないのであって、私たちにはどうしても神の御言葉が必要なのです。それを外してはいかなる意味での教会の改革、礼拝の回復はないのです。

(3)喜びの回復(v.9-12)
 このように神の言葉なる律法が語られ、それが解き明かされたとき、そこで起こったことはいったい何だったでしょうか。9節。「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。『きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである」。律法の解き明かしを聞いたとき、民はみな、涙を流して泣いたというのです。その涙は悔い改めの涙にほかならないでしょう。単に自分たちの罪だけでなく、そこでは長い間神に反逆して偶像礼拝にふけり、律法の教えから遠く離れて歩んできた先祖たちの罪をも含めた神の民イスラエルの負の歴史、罪と反逆の歴史全体を担うゆえの涙です。御言葉が語られる時に、こういう経験、御言葉に打たれ、御言葉に刺され、悔い改めに促される涙の経験が起こる。それが御言葉が聴かれるということの一つの真実な姿です。神の御言葉を聴いても何も変わらない、何も動かされない、何も打たれない、悔い改めも起こらないとするならば、そこでは本当に真剣に神の言葉が語られ、聞かれているかが問われなければならないでしょう。宗教改革の教会が御言葉の説教を重んじたのは、罪の赦しの問題と切り離すことのできないことでした。御言葉の解き明かしを通して罪の赦しを受け取っていくのであって、そこでは主の日の度ごとに私たちが主の御言葉によって心打ちのめされると言う経験が起こらなければならないはずなのです。
 しかし同時に、ここが大切なことですが、では私たちはみな、日曜に礼拝に来て、牧師のよって罪の裁きが語られ、皆がその言葉によってうちのめされてとぼとぼと帰って行くのかというと、そうではないということなのです。むしろ事柄は全く逆です。つまりそこには悔い改めのゆえに引き起こされる真の喜びの経験が待っているというのです。10節から12節。「さらにネヘミヤは彼らに言った。『行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。』レビ人たちも、民全部を静めながら言った。『静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。』こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである」。
 この礼拝全体を包むものは「喜び」でありました。しかし問題はその喜びの質です。彼らの喜びは罪に対する涙の悔い改めをくぐり抜けて初めて味わうことのできる、そういう質の喜びであったことを忘れてはなりません。その道を通らずして単に喜びだけを追求するならば、それは真の礼拝の道から逸れていくことになるでしょう。16世紀宗教改革が取り戻したものも、そのような道筋を通った喜びの礼拝と言うことができるのです。皆が自分たちの言葉で賛美をささげ、祈りをささげ、自分たちの言葉で聖書の御言葉を聴き、その解き明かしにあずかり、その御言葉によって明らかにされた主イエス・キリストの福音の恵みによって罪の悔い改めと赦し、そして真の救いを得ていくことができるようになったのです。礼拝の喜び。それは単なる雰囲気ではない、人間たちが趣向を凝らし、演出をして作り出していくようなものではない。それはそこで真実に主の御言葉が語られ、心から主がほめたたえられ、主の聖なる御臨在のもとで真の礼拝が捧げられていくところにわき上がってくる喜びであり、御言葉によって罪が示され、悔い改めへと促され、そして主イエス・キリストの贖いのゆえにもたらされた赦しが与えられるところに豊かにあふれ出る喜びなのです。私たちの捧げる礼拝もまた、このような喜びに包まれたものでありたいと願います。人間的な作為によって生み出される喜びでなく、聖霊が与えてくださる深いところからの喜び。御言葉が語られ、聞かれ、罪の悔い改めと赦しが与えられ、老いも若きも幼子たちも、皆が神の家族、神の民として私たちの救いの神、天地万物を創造し、今もその世界を御手をもって治め、そこに生きる一人一人に恵みを施し、御子イエス・キリストの十字架の恵みをもって私たちを救ってくださる主なる神を喜ぶこと。そこにこそ真の礼拝の姿が現されるのです。そしてそのようにして私たちが捧げる喜びの礼拝こそが、実は主イエス・キリストが再び来られる終わりの時に、私たちが主とともにあることが許され、そこで主を永遠にほめたたえ、主とともに食卓を囲む。そのような天の御国の前味を味わうことなのです。 私たちの礼拝が、このような救いの喜び、神の国の喜びに満たされたものであるように、いつも御言葉への心からの信頼と服従に生き、聖霊による罪の赦しのうちを歩み続ける私たちの歩みでありたいと願います。

 



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