賛美夕拝  2013/09/22
『どんなときにも』

詩篇62:5-8

 今日も朝から夕べまで、主の御前に幸いな礼拝の一日を過ごしてまいりました。そしてこの夕べ、新しい賛美をともに主に捧げて礼拝する恵みを味わっています。今この時、しばらく御言葉の前に心静めて、詩篇を通して語りかけられる主のいのちのことばに耳を傾けてまいりましょう。

(1)沈黙の祈り
 詩篇は信仰者の生活、教会の営み、礼拝の生活においてとても大切なものです。詩篇の中には私たちの信仰の営みのすべてがあると言っても言い過ぎではないほどです。詩篇の中には主への賛美があり、感謝があり、喜びの歌がありますが、またそこには祈りがあり、悔い改めがあり、嘆きがあり、呻くような叫びがあります。喜びの大合唱もあれば、一人孤独な祈りや静かな沈黙があります。そのような中で、私たちは心から大きな声で主をほめたたえるとともに、静かに黙して主の御前に身を置く静かな祈りの大切さをも覚えたいのです。
 5節。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みはみな神から来るからだ」。ここで詩人が言い表している信仰の姿勢を短く言い換えると「沈黙・確信・集中」と言えるでしょう。今日は詩篇62篇全体を読むことはしませんが、ご覧いただくと分かるように、この5節、6節は冒頭の1節、2節のほぼ繰り返しとなっています。彼は今、敵対する者にいのちを狙われているようです。相手は色々と策を練り、陰謀を働かせ、多くの言葉をもって揺さぶりを掛けているようです。そんな中にあって詩人の姿勢はまったく対象的です。恐れ、狼狽え、饒舌になり、反撃に出たり、取り乱したり、というのではない。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」というのです。この敵の前での静かな姿、落ち着いた姿はどこから来るのか。そこに確信の拠り所があります。「私の望みはみな神から来るからだ」。1節では詩人はよりはっきりと「私の救いは神から来る」と言い切っていますが、この神の救いへの揺るがない確信が、彼の沈黙を生み出しているのであり、それらはここ一番の時に彼が誰を頼みとしているかをあらわす信仰の「集中」を表していると言えるでしょう。主の御前に集中するとき、そこに沈黙が生まれてくる。敢えて口を閉ざすことによって、主への確信が明確になってくる。そういう信仰の境地があることを今日の詩篇は教えてくれています。

(2)確信の中身
 さらに続く6節、7節には詩人の確信の中身が明らかにされています。「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある」。詩篇の中にたびたび見られる信仰の表現の言葉です。「岩」、「やぐら」とは堅固なもの、揺るがないもの、崩れ去らないもの、それゆえ自分を守ってくれるもの、匿ってくれるもの、ということです。私たちの神はそれほどに確かで、堅固で、信頼するに足りるお方である。詩人の信仰は敵の揺さぶりを前にしているにもかかわらず、より確かになっていることが分かります。試練の中で、困難の中で彼の信仰はますます集中し、それによって研ぎ澄まされ、主なる神御自身のお姿をより鮮やかに、より明瞭に、より身近に見ているのであり、それによって神御自身との結びつきがいよいよ堅く確かなものとなっていることが分かります。
 ここに聖書の信仰の世界のダイナミックさとユニークさがあると言ってよいでしょう。多くの場合、人は試練や苦しみに遭わないために宗教に頼り、神を求めます。しかし聖書が語る信仰の世界は、むしろ試練や苦しみの中で神と出会い、神に集中し、新しい信仰の経験をし、それによって神との結びつきが強く確かにされていくのです。苦難が意味を持つ信仰の世界、苦難のゆえに神を疑うどころか、苦難の経験を通して神に近づいていき、より一層確かな信仰へと導かれていく世界。それが聖書の教える信仰の世界なのです。

(3)どんなときにも
 このような信仰の世界を経験したゆえに、詩人は自分の経験を越え出て民に向かってこう呼び掛けるのです。8節。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」。長い沈黙の時を経てその口から発せられた言葉。それが「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ」という言葉であったことの意味深さを覚えます。もちろん私たちも神に信頼することの大切さは知っています。けれどもこの言葉は何か決まり切った信仰の公式のような言葉、通り一遍の決まり文句のように聞くことはできません。敵の揺さぶりの前でだまって静まり、ひたすら集中して神を待ち望むと確信を持って言い切った詩人の信仰の結晶としての言葉、それが「神に信頼せよ」でした。
 しかも重ねて大切なのが「どんなときにも」という言葉です。「どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」。ここには型どおりの形式的な信仰というようなものはありません。賛美の時も、感謝の時も、喜びの時も、悔い改めの時も、嘆きの時も、呻きの時も、孤独な祈りの時にも、いやそのような時こそ、神に信頼し、自分の心の全てを神の御前に注ぎ出す祈り。そのような祈りの交わりを持てる相手が、私たちの信じる主なる神なのです。今晩私たちはこの「どんなときにも」という神への信頼の姿勢をしっかりと心に刻みましょう。祈りも賛美も礼拝も、「どんなときにも」という信仰の営みです。祈れる時に祈る、賛美できるときに賛美する、礼拝できるときに礼拝する、ではないのです。祈れないような心騒ぐ時にも、賛美できないような辛い心持ちの時にも、礼拝さえできないような心乱れる試練の時にも、いやそういう時だからこそ、「主よ、祈れません」と祈り、「主よ、賛美できません」と祈りつつ歌い、「主よ、礼拝の心になれません」と祈りつつ、歌いつつ、礼拝の場に進むのです。そこで主は私たちを取り扱ってくださり、いやしてくださり、慰めてくださり、回復させてくださいます。この主なる神を信じて、どんなときにも神を信頼することをやめずに、このお方についていきたいと願うのです。




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