賛美夕拝  2013/04/28
『新しい歌を歌おう』

ヨハネ黙示録14:1-5

幸いな主の日を過ごして,昨夜を迎えました。主の御名を心から賛美するこの夕拝で、黙示録の御言葉にご一緒に聴きましょう。

(1)小羊の名を記された民
 1節。「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」。これだけ読むと、ああ小羊イエスの民はそんなにたくさんいるのか、と思うかもしれません。しかしそうではないのです。この御言葉の背景にはローマ帝国が皇帝礼拝を強制し、それに従わない者たちを迫害した時代があり、そしてそれと同じような、あるいはそれ以上に過酷な迫害の時代がやってくることを私たちに示すのですが、先の13章16節、17節にはこう記されています。「また、小さい者にも、大きい者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした」。
 この「刻印」とは獣の支配をあらわす六百六十六という数字です。その刻印がされなかった人々は売ることも買うこともできないというように、実際の社会生活の中で様々な差別を受け、疎まれ、のけ者にされ、様々な迫害と困難の中に置かれた人々でありました。しかし聖書はそのような彼らについて、彼らは小羊とともにいて、その額に小羊の名を記された小羊の民、すなわちキリストの御名をその身に帯びた民だと証ししていてくださるのです。小さな民ではあるけれど、そこに真実が証しされる民。それが小羊の名を記された民の姿です。そしてその民の存在が、嵐のような時代の中で良心の声を挙げ続けるとき、イエスは主であるという告白の歌を歌い続けるとき、そこで嵐の中にあってもなお確かに揺らぐことのない希望の在処を指し示すことになる。それが私たちの存在の理由であり、使命であり、また責任なのです。

(2)新しい歌を歌う民
 続いて2節、3節。「私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった」。ここには小羊の民が新しい歌を歌ったと言われます。
 小羊の民たちが歌う新しい歌とはいったいどのような歌なのか。5章9節、10節。「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです』。12節。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」。そして13節。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」。
 小羊の民が歌う新しい歌。それは神の御子イエス・キリストがほふられた小羊となり、十字架で流された血潮によって私たちを罪の中から贖い出してくださったという救いの御業への賛美であり、この小羊なるイエス・キリストこそが賛美と栄光をお受けになるに相応しいただお一人の救い主、王の王、主の主であられるとほめ歌う頌栄の歌です。けれどもその歌の内容は、神の民にとっては決して目新しいものではありません。むしろずっと教会が歌い続けている賛美のことばといってもよい。ならばこの歌のどこが「新しい歌」なのでしょうか。3節で「地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった」と言われます。つまり小羊の民である教会だけがこの歌を学び、そして歌うことができる、そういう意味でこれは新しい歌であると言われているようです。賛美は神にささげられる私たちの祈りであり、また信仰の告白でもありますから、その言葉の意味をしっかりと受け取り、それを自らの信仰の確信として、自分の言葉として歌うことが大切なことであり、それが「歌を学ぶ」ということでしょう。
 
(3)新しい歌を歌おう
 小羊イエスへの賛美を、自らの信仰によってしっかりと理解し、確信を伴った信仰告白の歌として歌うことができる。これが小羊の血によって贖われた民のしるしであり、この歌は贖われた者たちだけが本当に心から歌うことができる歌であるということにおいて「新しい歌」であるということなのです。主イエス・キリストが私たちのただ一人の贖い主であり、この方こそ賛美と栄光を受けるに相応しいただ一人のお方であると歌う新しい歌を、礼拝の交わりの中で今こうして歌うことができる。ともに祈ることができる。私たちが礼拝に集い、祈りを捧げ、賛美を捧げることは、それを通して自らが小羊の民の一人とされている事実を確かめることでもあるのです。
 ヨハネはこのことをたった一人パトモス島に流されて、孤独の中でささげる礼拝の中で実感し、そこから深い慰めを得たのではないでしょうか。教会の交わりから遠ざけられ、たった一人で孤独に信仰の歩みを支えなければならない、そういう状況の中に私たちも置かれることがあるかもしれません。病いを得て、長く病床に伏さなければならない。様々な事情の中で礼拝の自由が狭められて、ともに礼拝に集うことが許されない環境の中に置かれてしまう。そういうときに信仰が揺らいだり、弱ったりすることがある。ヨハネも落ち込んだり心萎えたり、意気消沈することもあったに違いない。でもその時に、たった一人でありつつもそこでいつも教会の皆でともに歌う賛美を口ずさみ、ともに祈る主の祈りを祈るとき、彼は自らがそれでも確かに神の民の交わりの中に覚えられている、数えられている。そのことを思い起こし、大きな慰めの中に包み込まれていったに違いないのです。新しい歌を歌う民としての教会は、その歌を歌うことで自らの救いの確かさを覚える民でもあるのです。




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