2013年聖霊降臨節記念礼拝 2013/05/19
『御霊に導かれて進もう』

 ガラテヤ5:16-26

 聖霊降臨節、ペンテコステの朝を迎えました。私たちに生けるキリストを証しし、キリストの似姿へと造り変え続けてくださる聖霊の恵みを待ち望んで、ともに主を見上げましょう。愛する皆さんお一人ひとりの上に、主の豊かな恵みと祝福がありますように。

(1)御霊によって歩む
「信じること」と「生きること」が分かたれない生き方をしたい。「生きること」を通して「信じること」が証しされるような生き方をしたい。一人のキリスト者として、この二つのものが一筋につながるような生き方をしたいと日々祈り願いながら生きています。けれども、それがそう簡単なことではない、ということにも気づかされています。「信じたように生きたい」と誰もが願っても、社会はそれをそう簡単には許してくれません。むしろ「あなたが心の中で何を信じていてもかまわないが、生き方はそれとは区別せよ」、「あなたが個人的に何を信じてもかまわないが、大勢の中ではそれを隠し、我慢して、みんなに合わせて生きよ」という声がどんどん大きくなって、それに同調させようとする力が強まっています。その声にうまく合わせていかなければ、どんどん生きづらいことになっていく。生活の様々な局面に差し障りが生じてくる。信じていることを上手に隠して心の内に秘め、周りと折り合いをつけて生きることが賢い生き方とされていく。信じていることを貫こうとすると「何もそこまでしなくても」と後ろからも腕を引っ張られ、「あまり大げさに騒ぐべきでない」と大人びた声によってたしなめられてしまう。そうしていつのまにか「内」と「外」とを上手に使い分け、信仰は「内側」のこととし、「外側」の生活はこの世の流れに乗って行く。「このままでいいのか」という漠然な不安を抱きつつも、それとまともに向き合ってしまうことを恐れて、なるべく深く考えないようにして生きていく。こういう現実の中に身を置く人は決して少なくないのではないでしょうか。
 そのような私たちにこの朝の御言葉はこう語りかけます。16節。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」。パウロが「歩む」と言う言葉を使う時、それは「生きること」そのものを意味しています。御霊によって歩むとは、聖霊の神の全面的な支配のもとにあって生きる。私たちの日々の具体的な営みのすべてを聖霊の御手のもとにあって生きる。そういうことがここで命じられているのです。私たちが生きることは、神を信じることと切り離されてはいません。私たちの生活のあらゆる事柄が、それが会社にあっても学校にあっても、家庭にあっても地域にあっても、親しい友人関係や夫婦、親子の関係にあっても、あるいはこの社会の事柄についてでも、それらすべての事柄が主イエス・キリストの御手のご支配の中にあることを認め、聖霊のご支配の中で営まれる生活として受け通り、すべてを神の御前にある事柄と信じて生きていくという生活のことです。

(2)御霊の実を結ぶ
さらに御言葉は、「御霊によって歩みなさい」という言葉の具体的な勧めとして、「御霊の実を結ぶ」ということを教えます。それは聖霊によって導かれる新しい生への促しです。22節、23節。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」。ここに挙げられている「実」のリストは三つずつ三つのグループに分けられます。最初の三つは神と私との関係として、神が私を愛し、喜びで満たし、まことの平安を与えてくださる、そのような意味で受け取ることができるでしょう。次の三つ、すなわち寛容、親切、善意は私と私の隣人との関係として、私が隣人に示す姿勢として受け取ることのできる勧めです。そして最後の三つ、誠実、柔和、自制は自分自身に対するとるべき態度ということができるしょう。
 しかもここで大切なのは、ここで挙げられている「実」は、それぞれバラバラに独立しているのではなく一つの実だということです。ここでの「実」という言葉は原文では単数形が使われています。つまり愛はあっても寛容はないとか、親切はあっても自制がない、というようなものでなく、一つのトータルな在り方として示されているもの、それが御霊の実ということなのです。
 次に考えたいのは御霊の実の性質ということです。ここで数え上げられている一つ一つを見る時に気づかされるのは、いずれのものも私たちの外から来て、私たちにつけ加えられ、習得されるような特殊な能力、技術、賜物というようなものでなく、それらは私たちの内側にあって形作られていく私たちの人間性、品性というようなものだということです。私たちは聖霊に支配される生き方というと、何か今までにはない劇的な変化を体験するとか、特殊な霊的な経験をするとか、これまでと違った能力や著しい賜物を身に着けることなどを考えがちですが、ここで聖書が語っていることを注意深く見る時に、むしろ聖書はそのようなあからさまなあり方というよりも、むしろじっくりと時間をかけて清められ、整えられていく私たちの人としてのあり方の深まり、品性の成熟と言うことを教えているということです。私はきよめられた信仰者というのは本当に深い人間への洞察や他者に対する豊かな共感、寛容の心とへりくだり、そして穏やかさをたたえた深い人間性を指すことと思います。つまり私たちがキリストの者とされていくことは、何か私たちが人間の姿から離れて別の存在になっていくということでなく、むしろ本来あるべき人間の姿に近づいていく、そのような真の人間性の回復ということであろうと思うのです。私たちが生きているこの時代は、まさに人間の心が失われつつある時代です。他者の痛みへの無関心や、自分の欲望へのあくなき追求、人の心を思いはかることのできない浅薄さ、表面的で空虚な言葉。しかしそんな時代のただ中にあって、御言葉は私たちに御霊によって歩めと命じ、御霊の実を結ぶ生へと私たちを押し出すのです。

(3)キリストにつく者
 次に考えたいのは御霊の実の起源ということです。私たちは何故に御霊の実を結んで生きることができるようされるのか。パウロは言います。24節。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」。ここでパウロの心の中には私たちが罪に対して死に、キリストにあって生きるために受けた洗礼の恵みが思い描かれています。ですからパウロがここで言わんとしていることは、洗礼を受け、自分の罪を十字架につけて一度決定的に罪に死んだ私たちは、今や聖霊によって新しく生まれて、キリストに結ばれて生きる者とされたのであって、そこではもはや肉の欲望や罪の問題は根本的に解決済みであり、むしろ御霊の支配の中で、礼拝の歩みの中で、日ごとに御霊の実を結びながら生きる生へと今まさに生き始め、生き続けているのだということです。
 パウロが御霊の「実を結ぶ」という植物の生育を例に引いていることの意味も大切です。確かに御霊の実を結ぶ歩みは、私たちに新しい決意を促すのですが、しかしそれは私が私の意志の力や努力によって獲得していくようなものではありません。むしろ私たちは実を結ぶことが全く受け身の事柄であるように、私たちのうちに働いてその実を結ばせてくださる聖霊の神に全面的に自らを委ね、明け渡し、その導きに従順に従うようにと促されているのであって、その聖霊の働きかけに対して頑なになったり、体をこわばらせるのではなく、むしろ素直に聖霊の大いなるお働きに信頼して自らを委ねていくことが大切です。実は自らの力で実を実らせるのではなく、育て上げてくださる神のいつくしみと恵みの御手の中で確かに育まれ、養われ、やがては豊かに実りを結んでいくことができるのです。

(4)御霊に導かれて進もう
 最後に25節、26節。「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」。ここで目を留めておきたいのは、「もし私たちが御霊によって生きるのなら」という一節です。この「もし」は、本当にそうであるか分からない、はっきりしない、そのような仮定の意味での「もし」ではありません。むしろ主イエス・キリストにある者が今まさに聖霊によって生かされている現実を指す言葉であって、その意味を汲み取って言い直すならこう言うことができるでしょう。「私たちは今まさに御霊によって生きているのだから、御霊に導かれて進もうではありませんか」。これはパウロが繰り返し用いる大変重要な命令の言葉です。パウロが私たちにキリスト者としてのあり方、生き様についての命令を与える時には、いつも「このように生きなければ救われない。そんな生き方をしていてはキリストのものとなれない」という私たちを絶えず不安の中で緊張を強いて、律法の中を歩ませるような言葉ではなく、「すでに救われているのだから、神の子とされているのだから、自由の子とされているのだから」、その恵みによって生きようではないか、という励ましの言葉なのです。
 このように、私たちは主イエス・キリストを信じる時に罪赦され、神の子とされ、罪と死の奴隷の状態から解き放たれて自由な者とされると聖書は教え、さらにそこで終わりではなく、そこから今度は真の人間として生きるために、御霊の実を結んで生きる人生へと導かれていくと聖書は教えます。どんな人でも、今あるところから悔い改めて立ち返り、主イエス・キリストを私の救い主と信じ受け入れるならば、主は私たちを新しくし、本当に自由な者として生きることのできる日々、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結びながら生きる日々へと生かしてくださるというのです。御霊の実を結び、御霊によって歩み、御霊に導かれて進む。主イエス・キリストによって生まれた神の子どもとして、御言葉に養われ、主の命に生かされつつ、御霊の実を結びながら、一人のまことの人間としての自由なる歩みを、ここから新しく歩み出してまいりたいと願います。



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