聖霊降臨節記念朝拝 2010/05/23
『いのちの息吹によって』

エゼキエル37:1-14

 「ペンテコステ」、「聖霊降臨節」を記念する主の日の朝を迎えました。ペンテコステとは使徒の働き2章に記されている出来事で、主イエスの復活と昇天の後、天より聖霊が降り、教会が誕生し、宣教の歩みが始まったことを記念する日で、御子イエス・キリストの降誕を祝うクリスマス、その復活を祝うイースターと並んで教会の大切な祝いの日となっています。主イエス・キリストはかつて「わたしはあなたがたに助け主、慰め主を送る」と約束してくださいました。この助け主、慰め主こそが、私たちのもとに降ってこられ、今、私たちに主イエスを信じる信仰を与え、私たちのうちに留まり続けて、私たちを主イエスに結び合わせ、私たちを新しい人として生まれさせ、神の子どもとしてのすべての祝福に与らせていてくださる聖霊なる神であられます。この朝、ここに集いお一人一人に聖霊の神さまが豊かに臨んでくださり、新しい人として生かしてくださるように主の特別の祝福を祈ります。ご一緒に主がお語りくださる御言葉に聞いてまいりましょう。

(1)洗礼−新しく生まれるしるし−
 この朝の礼拝では洗礼式が執り行われようとしています。幼い頃から教会に集い、祈りの中で育まれてきた若い姉妹が、自分自身で主イエス・キリストを救い主を信じ、自らの口で信仰を告白するに至ることができました。イースターに続いて大きな喜びを主が備えてくださったことを心から感謝するとともに、ご一家の上にも主の特別の祝福があるように祈りたいと思います。春の松原湖の中学キャンプで洗礼の決心をして帰ってきてから、えり子ちゃんと毎週の礼拝後に洗礼準備会を行ってきました。準備会の最初には洗礼を受ける意味について学ぶのですが、そこで必ずお話しするのが、洗礼とは新しく生まれることのしるしだ、ということです。ヨハネ福音書3章には、夜ひっそりと主イエスのもとを訪ねてきたユダヤ教指導者ニコデモと主イエスのやりとりが記されていますが、そこで主はニコデモにこう言われました。3節。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。この言葉を聞いて驚いたニコデモは尋ね返します。4節。「人は老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎内にはいって生まれることができましょうか」。もちろん主イエスが言われたのはそういう意味ではありません。そこで主イエスは5節で次のように言われたのです。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」。
 ここで主イエスが「水と御霊によって」と言われたのが洗礼のことです。洗礼を受けるとは人が聖霊によって「新しく生まれる」ことの目に見えるしるしです。主イエスの十字架の贖いによって私たちのうちにある罪の中にあった古い人が死に、主イエスのよみがえりの命に結び合わされることによって私たちが新しい人として誕生する。洗礼とは、聖霊がこのように私たちとキリストとを一つにしてくださり、新しく神の子どもとして誕生させてくださる、いわば私たちの新しい人としての誕生日ということなのです。
(2)谷間にある干からびた骨
 聖霊による新しい人の誕生という驚くべき恵みの出来事を目の当たりにしようとするこの朝、私たちの前に与えられております旧約聖書エゼキエル書37章の御言葉は実に象徴的な意味を担っていると言えるでしょう。エゼキエルという預言者は、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされた後、勢力を増してアッシリヤを倒したバビロン帝国によってイスラエルの民が捕らえ移されたいわゆる「バビロン捕囚」の時代の預言者です。主はエゼキエルに対して様々な象徴的な出来事、体験を通して御自身の御心を示し、それらを通してイスラエルの民に御自身のメッセージを伝えられるのですが、今日の37章も1節から10節で主なる神の預言の言葉とその実現となる出来事が記され、続く11節から14節でその意味が説き明かされていくのです。
 1節、2節。「主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた」。ここに描き出されるのは実に不思議で不気味な光景、なにか世界の終わりを思わせるような強烈な光景です。しかしそこで主が預言者エゼキエルに命じられた言葉は、さらに驚くべき言葉でありました。主はこう命じられます。4節から6節。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう」。この命令を受けてエゼキエルが預言した結果、起こった出来事が7節から10節に記されます。「私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。『息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった」。このように干からびた骨々がエゼキエルの預言の言葉をきっかけにして再生し始め、ついには自分の足で立ち上がったというのです。
 
(3)新しい人の誕生
 このような驚くべき出来事の後、主なる神御自身によってこの出来事の意味が説き明かされます。11節。「主は私に仰せられた。『人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である』」。さらに14節。「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。−主の御告げ−」。この谷間で起こった出来事について聖書は実にリアルにその事の次第を描き出していますが、この人体再生の様子を通して主が伝えようとしておられる一番のメッセージはイスラエルの民の再生ということでした。主はイスラエルの民の状態を「枯れた骨」だと言われ、その民がまことの命を取り戻し、再び立ち上がるためには「おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう」と言われるように、「息」が必要だというのです。
 「生ける屍」という言い方があるように、私たち人間は生きてはいても、生きる目的や生きる望み、人としての尊厳を失ったならば生き甲斐を持って歩むことは実に困難です。相撲で「死に体」と言いますが、まだ土俵を割っていなくても、体勢が崩れてしまってもはや自力で持ち直すことができなくなっている姿を表す言葉です。聖書はまさに罪の中にある私たちの姿を冷静に見つめながら、枯れた骨のようなもの、罪の中に死んだものだと言っています。エペソ2章1節でこう言われるとおりです。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった」。私たちはなかなかそのような自らの姿を認めたくありません。いや自分はちゃんと生きている。まだ大丈夫、まだ持ちこたえられる。すでに死に体になってしまっていても自分の現状を認めることができずに悪あがきを続けるのです。確かに心臓が動き、呼吸もして、毎朝起きて学校や仕事に行き、食事をし、健康に気をつけながら、ともかくも体の営みを続けているという意味では「生きている」と言えるでしょう。しかし聖書はそのような私たちになおもこう問いかけてくる。「あなたは本当に生きているのか」と。
 今日のエゼキエル書の光景で興味深く思うのは、「私が見ていると、なんと、その上に筋がつき肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった」とあるように、人体再生において決定的な役割を果たしているのは「息」だということです。「見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」とも言われている通りです。骨があり、筋が尽き、肉が付き、皮膚が被っても、それでもまだ人は生きてはいない。人が生きるために一番必要なのは「息」「が吹き込まれることなのです。ここで私たちが思い起こすのは、あの創世記の主なる神による人間の創造の光景です。特に2章7節に注目したいと思います。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」。ここには人が主なる神によっていのちの息を吹き込まれたことで「生きものとなった」と記されます。ただ肉体的に活動していることが生きていることではない。生きるとは「神によっていのちの息を吹き込まれる」こと。それこそが聖書が語る人間の生きる姿なのです。

(4)命の息吹によって
 ここで繰り返し「息」と言われる言葉、これは旧約聖書の「ルーアハ」という言葉で、「息」とも「霊」とも訳される言葉です。神が吹き入れられる息、それは真のいのちに人を生かす神の霊、聖霊であられます。人は神の霊を吹き込まれて新しい人として生きるものとなる。谷間の枯れ骨たちも、神の霊を吹き込まれて立ち上がることができる。この聖霊による再生こそが、エゼキエルの時代に神の民イスラエルが再生するためにはどうしても欠かすことのできないことであったのです。26章26節、27節をご覧ください。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」。主なる神に背いて頑なに自分勝手な道を歩んでいたイスラエルの霊的状態を主は「石の心」と言われ、その石の心を聖霊によってやわらかで従順な「肉の心」に作り替えてくださると言われました。それは人間の努力や犠牲によって獲得されるものではなく、まったくの神の恵みの賜物です。しかし主なる神は枯れ骨のような私たちにも、この朝、私たちのうちに聖霊を送ってくださり、私たちの石の心を柔らかな肉の心に作り替え、私たちを新しい人に作り替えてくださるのです。使徒パウロはテトスへの手紙3章3節から6節でこう語っています。「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです」。ここでパウロが語っていること、それはまさにあのエゼキエルが見た谷間の枯れ骨の再生そのものであり、今日、私たちがここで一人の姉妹の洗礼を通して目の当たりにするのも、まさに聖霊によっていのちの息吹を吹き入れられることによる新しい人の誕生の姿です。
 今回、えり子ちゃんと洗礼準備を重ねてくる中で、うれしく思ったことがありました。洗礼式の後で証ししてくださることですが、今年の春の中学生キャンプの中で講師の先生が「新しいことを始めてみよう」とチャレンジしてくださった。彼女はその言葉を聞いて、自分にとっての新しいこと、それは洗礼を受けることだと受け取り、決心してこの道を歩み出したのです。新しく始めるに一番ふさわしいこと、新しい人として歩み出すこと。この一番ふさわしいことを彼女は主の御前に決心して、今日の日を迎えているのです。またえり子ちゃんはお祈りがとっても苦手で、なかなか自分の言葉でお祈りができない。そこで準備会の時には始まりは私が祈り、終わりはえり子ちゃんに祈ってもらうようにしていたのですが、準備会の最後の時に彼女は祈りの中で「神さま、私が迷ったときには助けてください」と祈られました。私はそのお祈りに本当に感動しました。新しい人として生きることは、いつでも神様にすがりながら生きることです。私はこのお祈りができるならもう大丈夫だと思いました。そしてずっとこのお祈りをしていこうねと話しました。
 いのちの息吹を吹き込まれて歩み出す新しい人は、一人で自力で生きる人ではありません。いつでも主ともに生きる人、主により頼む人、主のことばに聞いて、主に祈って、主によって握りしめられて生きる人です。このペンテコステの朝、私たち一人ひとりも新しく聖霊の息吹を吹き込まれて、新しい命に生かされて、主とともに歩んでまいりたいと願います。



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.