聖霊降臨節記念朝拝 2009/05/31
『ことばの回復、交わりの回復』

使徒の働き2:1-21

 「ペンテコステ」、「聖霊降臨節記念」の主の日を迎えました。ペンテコステとは、本来は「七週の祭り」と呼ばれるユダヤの祭りの日で、これは過ぎ越しの祭りから数えて七週目、五十日目に祝う春の収穫感謝の祭りでした。しかし私たちにとっては、真の過ぎ越しの小羊となって私たちの罪を贖うために十字架にかかられた、神の御子イエス・キリストの受難と復活から五十日目に、イエス・キリストが約束された慰め主なる聖霊が地上に降り、弟子たちによって福音が宣べ伝えられ、教会が生み出されていった、いわば教会の誕生の日、そして教会による福音宣教の始まりの日なのです。
 今朝は使徒の働き2章に記されたペンテコステの日の出来事のうち、そこで「ことば」がどのように扱われたのかに特に注目し、さらにはあわせて朗読された創世記11章のバベルの出来事と考え合わせながら、聖霊によることばの回復、交わりの回復の恵みについてともに教えられてまいりたいと思います。

(1)聖霊の降臨と福音の宣教
 まず初めに、ペンテコステの日にいったいどのようなことが起こったのかを見ておきましょう。1節から8節。「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。『どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう』」。このようにペンテコステの出来事のポイントは、弟子たちが聖霊に満たされた時に、さまざまな国の言葉で福音のメッセージを語り出したことでありました。ペンテコステに起こったこと、それは聖霊によって神の福音が語り出されたということであったのです。
 聖霊に満たされた弟子たちを見て「彼らは酒に酔っている」といぶかる人々もいたほどの驚くべき出来事の中、ペテロが立ち上がって演説を始めます。14節から20節。「そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。『ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる」』」。ここでペテロは預言者ヨエルが語った「終わりの日」を父なる神の救いのご計画の中で旧約時代に預言され、主イエスの到来によって始まり、十字架と復活、聖霊の降臨によって成就し、さらに主イエスの再臨によって完成する神の国のこととして示しています。そしてこの終わりの時は、聖霊の注ぎの時であると同時に聖霊の注ぎを受けた者たちが預言する時代、すなわち聖霊が御言葉をもって語られる福音宣教の時代なのだといっているのです。聖霊は今、私たちを通して福音を語られる。あなたがたの息子、娘も、青年も年老いた者も、神の国の福音を宣べ伝える者とされる。それこそがペンテコステにおいて成就した預言なのだというのです。そしてその最も中心となるメッセージが21節。「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる」。このようにペテロは、神が御自身の民イスラエルに与えられた救いの約束が今や主イエス・キリストにおいて成就し、さらに主イエスのお約束の通りに聖霊が注がれたことで、救いの御業が証言されていく聖霊の時代が始まったことを語ります。聖霊の注ぎを受けて力を与えられた主の証人たちと、聖霊によって生み出された教会が、この福音の喜ばしい知らせを携えて遣わされて行くのです。

(2)聖霊による統一性と多様性
 このようなペンテコステの日に起こった一連の出来事の中で、この朝、特に注目したいのは、そこでの「一つであること」と「多様であること」についてです。1節でペンテコステの日、弟子たちは「みなが一つ所に集まって」いました。3節ではその一つの群れの上に降られた聖霊は「ひとりひとりの上にとどまった」とあります。4節では「みなが聖霊に満たされ」、6節ではその弟子たちの姿を見た人々が、「それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった」と記されます。7節、8節にあるように人々は、彼ら弟子たちが「みなガリラヤ人」であるのに、「めいめいの国の国語で話すのを聞」いて驚き惑っているのです。このようにペンテコステの日に起こったこと、それは一つの弟子たちの群れの上に一つの聖霊が降られ、しかもその聖霊は弟子たち一人一人の上にとどまって、それぞれがめいめいの国言葉で語るようにされたというのです。
 ここに起こった出来事の中に示される「一つであること」と「多様であること」の関わりを考える上で、避けて通ることのできない御言葉が創世記11章1節から9節です。1節、2節。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した」。ノアの洪水の後、人々の生活は安定し、発展を見せていきました。その理由の一つを創世記は全地が一つの言葉であったことに見出しています。しかしこのことが次第に人間の罪の性質を引き出すことになっていったのです。3節、4節。「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから』」。この「天にまで届こう」、「名をあげよう」という思い。それはあのアダムの堕落の時以来の人間の罪の本質です。神になろうとすること、神と人との間に横たわる超えることの出来ない境界を越え出て、自らに与えられた人間としての限界を超えること。それを聖書は罪と呼ぶのです。彼らはなぜそのような企てを持ったのでしょうか。4節には「全地に散らされるといけないから」とあります。確かに人は孤独に生きられないものです。そして本来人は神との交わりの中に生き、それゆえに隣人との交わりに生きる存在です。ところが、神を抜きにして人間たちだけで生きていこうとする時に、神はそこに言葉の混乱をもたらされたのでした。

(3)ことばの混乱・交わりの断絶から、ことばの回復・交わりの回復へ
 5節から7節。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。『彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう』」。このようにして、神に対抗して一致団結し、神のもとにまで名をあげようと企てる人間たちのもとに神は下っていかれました。そしてそのような人間の企てへの裁きとして、言葉の混乱をもたらされたのです。その結果、人々の間には言葉の混乱が生じ、神なき団結は崩れ、地の全面に散らされていくことになりました。8節、9節。「こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち主が人々をそこから地の全面に散らしたからである」。バベルの塔の出来事が人間たちにもたらした結果は言葉が混乱させられるということと、地の全面に散らさせていくということでした。神を無視した人間の団結の結果は悲惨です。今日の国と国との対立、民族と民族との対立、あるいは言葉が通じ合っていてもなお、「話せば分かる」、「問答無用」というようなことが起こる現実の根を突き詰めていくと、その行き着くところは既にあのバベルの塔においてすべて表れていたということになるでしょう。
 しかしそれでこの物語は終わるのではありません。ことばの混乱と交わりの断絶が、しかしやがて聖霊の恵みの中で取り戻され、ことばの回復、そして交わりの回復へと導かれていく。そのような新しい転機の時が訪れたのです。それが今日、私たちがともに記念し、祝っている聖霊の降臨、ペンテコステの時に起こった事柄なのです。あらためて使徒の働きに戻ってみましょう。聖霊が下られた時、「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話し出し」、それを聞いた人々は「それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれて」、「あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは」と驚きの声を挙げるのです。しかもここで注目したいのは、ペンテコステによって再び言葉が一つになったわけではない。相変わらず言葉は様々、多様なままですが、しかし散らされた言葉、散らされた民族のそれぞれの言葉で、今度は「神の大きなみわざ」を語る一つの福音の言葉が語られ、聞かれる、そういう時代が到来したのだというのです。
 主なる神様はそのように救いのご計画の中でバベルの塔において起こった言葉の混乱が過ぎ去り、今や主イエス・キリストによる救いの言葉が聖霊の神によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられ、彼らの言葉でその福音を語り、聞くことが出来るようにしてくださっているのだというのです。聖霊は混乱の神でなく、秩序の神であられ、私たちの間で失われてしまった交わりを回復してくださる神であられます。神になろうと成り上がっていき、その結果、言葉が通じ合うことなく、心をも通じ合うことなく、交わりが断絶してしまった私たちの罪を贖い、私たちにもう一度、神との交わりを回復させ、それによって人と人との交わりを回復させ、私たちを一つに結び合わせるために、神の御子イエス・キリストは、十字架と復活を経て天に挙げられた時、約束の聖霊を私たちに送ってくださったのです。この神のへりくだりと聖霊の降臨によって、混乱の地、バベルの地であるこの地上に神の恵みは注がれ、今や私たちは言葉の回復と交わりの回復へと召され、様々な言葉、文化、人種、民族を越えて、一人の主なる神を信じ、礼拝することができるようにされているのです。人々の間から真実な言葉が失われ、それによって真の交わりが失われてしまっている今日、聖霊が与えてくださる主イエス・キリストの救いの恵みを告げ知らせる言葉、神の大いなる御業を語る福音の言葉によってこそ、人は真の言葉を回復し、それによって神との交わりを回復し、隣人との交わりを回復することができる。この恵みの事実を、この朝、感謝をもって受け取り、そのような真実な言葉をもって、神の恵みの言葉を語り続けていく私たちでありたいと願います。

 



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