聖霊降臨節記念朝拝 2008/05/11
『ともに、うちにおられる聖霊』

ヨハネ福音書14:16-17

 「ペンテコステ」、「聖霊降臨節記念」の主の日を迎えました。私たちの信じる神は、父なる神、その独り子であられる御子イエス・キリスト、そして父のもとから出で、御子イエス・キリストを通して、私たちのもとに遣わされた聖霊の神の、三つにして一つなる三位一体の御方です。ペンテコステとは使徒の働き2章に記されている出来事で、聖霊の神が主イエスの復活と昇天の後、天より降り、そこで教会が誕生し、宣教の歩みが始まったことを記念する日です。ですからしばしばペンテコステを指して「教会の誕生日」などともいわれたりします。またその時に降られた聖霊の神が、今も私たちのうちに、私たちとともにいてくださる恵みを喜び祝う日でもあるのです。
 そこで今朝は、私たちにうちに今も住んでいてくださる聖霊の神の豊かな恵みと、聖霊に自らの御思いを託された主イエス・キリストの深い御愛をご一緒に受け取ってまいりたいと思います。

(1)残していく言葉、残していく思い
 今年も秋学期から始まる神学校の講義に備えて、少しずつ時間を見ては学びの準備を進めています。特に来学期は新しく宗教改革者カルヴァンの『キリスト教綱要』という書物についての講義をおこなうことになっており、あらためて綱要を読み返しているところですが、こちらに赴任してまもなくの月報「徳丸が丘」にこんな文章を書いたことを思い起こしました。拙い文章ですが少し読ませていただきます。
 「ある時、私はカルヴァンの主著であるキリスト教綱要を精読するために、全文を写経するように書き写すということを始めました。もちろん手書きではなくコンピューターに打ち込むという仕方でですが、それこそ一字一句を書き写し始めたのです。時間を見つけては少しずつ少しずつページをめくっていきました。この方法は、キリスト教綱要の日本語訳者である渡辺信夫先生が、若き日にカルヴァンを精読するためにラテン語テキストを書き写していたという話に触発されてのもので、ラテン語というわけには行かずとも、せめて日本語で、と思い立って始めたことでした。そうしますと、ページをめくるごとに朱線が引いてあったり、書き込みがしてあったり、小さなメモがはさみこんであったりすることに気付いたのです。それは父が自分で綱要を読んだ時に記したものでした。最初は何の気なしに読み飛ばしていましたが、書き写すためには一字一句に集中しなければなりません。そうするとそこに引いてある線や書き込みが、そのテキストを父がどのように読んだかを指し示す貴重な証言として私の前に立ち上がってきたのです。これは大変新鮮な経験でした。神の啓示について、三位一体について、キリストの贖いについて、教会について、あるところにはうなずくように力強く線が引かれ、あるところには引っかかりを感じたような疑問符が付され、その当時牧していた教会の現実を思いながら改革者と向き合い、対話したその息づかいが伝わってくるようでした。そのことを通して、私自身もカルヴァンの書物の中で牧師としての父との対話を許されたのです」。
 私は高校一年で父を天に送っていますので、牧師として対話をしたことはありませんし、臨終間近の時には言葉を交わすこともできませんでしたので、もっといろいろなことを聴いておけばよかったと思うことがしばしばです。けれども、こういう仕方である対話が許されるという経験を通して大変豊かな気づきが与えられたのです。

(2)ともに、うちにおられる聖霊
今日開かれているヨハネ福音書14章は、実は13章から17章にかけて、主イエス・キリストが十字架の死を目前にした最後の晩餐の席で、愛する弟子たちに心を込めて語られた告別の説教の一部です。弟子たちはこの期に及んでも主イエスの十字架の苦しみの本当の意味を悟るには至っていないのですが、主イエスはそんな彼らを励まし、慈しみ、慰めるようにして、次のような約束の言葉を語ってくださったのです。16節、17節。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」。
 主イエスはもうすぐ十字架につけられて、そして愛する弟子たちのもとを去って行かなければならない。たくさん言い残したいこと、伝えたいことはあるが、そのすべてを語り尽くすことはできない。残される者たちも寂しさはありますが、残していく方にもやはりそれだけの、いやそれ以上の思いがある。なので主イエスは、あなたがたのために助け主を送るとお語りくださり、そればかりでなく18節では「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」とお約束くださるのです。あなたたちを見捨てては行かない。主の溢れるほどの愛が伝わってくる言葉です。この主イエスの弟子たちに対する愛、それはまた私たち主の弟子に連なる者たちにも傾けられている愛ですが、その愛と私たちとを結び合わせるのが、助け主なる聖霊の神であられるのです。
 ここで「助け主」と訳されている言葉は、「慰め手」、「励まし手」をも意味する「パラクレートス」という言葉です。これは本来、「傍らに呼ぶ」という意味を持つ言葉で、傍らに寄り添って慰め、励まし、とりなしてくれる存在を指しています。時には法廷で傍らに立って弁護してくれる弁護人を意味することもありました。主イエスは聖霊の神を指して「助け主」と言われ、また「真理の御霊」とも言われます。先日の修養会で朴先生を通しても学んだことですが、ヨハネ福音書において「真理」というのは、主イエスご自身を指すといってもよい言葉で、「真理の御霊」とは、真理なるイエス・キリストを私たちに明らかにしてくださる聖霊ということです。そしてその聖霊の神が、助け主、慰め主、主イエスを証しする真理の霊として、私たちとともに住み、私たちのうちにとどまってくださるというのです。このことをヨハネは手紙の中でも次のように記しています。ヨハネの手紙一3章24節。「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」。同じく4章13節。「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」。

(3)教え、思い起こさせ、証しする聖霊
 次に、私たちとともに、私たちのうちにいてくださる聖霊の神のお働きについて見ておきましょう。これは聖書全体を見ていけば数多くあるのですが、特にこの朝は次のことに集中して目を留めておきたいと思います。それは、主イエス・キリストの言葉を教え、思い起こさせ、主イエス・キリスト御自身を私たちに証ししてくださるいうお働きです。14章25節、26節をお読みします。「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」。このように、助け主なる聖霊の神は、主イエス・キリストがお語りくださった父なる神について、神の国について、救いの御心について、それらすべてのことを教え、思い起こさせてくださるというのです。ではそれは何によってでしょうか。いつも申し上げることですが、神様のことは、私たちがどれだけ生まれもって感覚や、後から手に入れた知識を総動員しても、それですっかり分かるということではありません。それが神の言葉である聖書です。聖霊の神は、今、この時も、御言葉とともに働いて、聖書の御言葉を通して、主イエス・キリストの御心を私たちに教え、思い起こさせてくださるのであり、だからこそ礼拝においていつも、聖書の朗読とその説き明かしである説教の前に、「聖霊の照明を求める祈り」が捧げられるのです。
 次に15章26節も読みましょう。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」。助け主なる聖霊の神が御言葉とともに働かれるということは、突き詰めればただ聖書の言葉の意味を明らかにするということにとどまりません。それによって「わたしについてあかしする」、つまり主イエス・キリスト御自身をはっきりと証ししてくださるのです。5章39節でこう言われているとおりです。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」。さらに主イエス・キリストが私たちに証しされるとき、私たちは自らの罪を示され、義を教えられ、裁きについて知らされ、それらをもって悔い改めから救いへと導かれていくことになります。16章7節、8節。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」。こうしてついに、聖霊の神はまこと唯一の救い主であられる主イエス・キリストの御栄光を私たちの前に鮮やかに現してくださるのです。16章12節から14節。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」。

(4)主イエスの燃えるような愛を
 こうして見てまいりますと、ヨハネ福音書における告別の説教、それはまさに主イエス・キリスト御自身の遺言のような御言葉でありますが、そこで主イエスがどれほど繰り返して助け主なる聖霊の神について語っておられたかが分かってまいります。そしてそれほどまでに弟子たちに向けて、私は助け主をあなたがたに送る、聖霊はあなたがたの助け主なのだと言われた主イエスのお心が迫ってくるのです。この時の主イエスのお心をもっともよく表しているのが、これら一連の告別説教が語られる最初の場面です。13章1節をお読みします。「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知らされたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」。新改訳聖書の欄外注を見ますと「残るところなく」の部分は「最後まで」とも訳せる言葉であることがわかります。前にもご紹介しましたが、遠藤勝信先生がヨハネ13章から17章までの説教を出版されました。その本には『愛を終わりまで』というタイトルが付けられています。主イエスが愛をあますところなく、終わりの時まで代わらずに示してくださった、その愛の言葉がここには溢れているのです。
 一昨日の夜のニュース番組で、末期癌を患って余命わずかとなった方が、その残された時間を子どもたちにいのちの尊さを語る働きに用い尽くした様子が紹介されていました。いのちを大切に生きてほしい。そう語る言葉は、それを語る人がまさにそのいのちの終わりを生きているだけに非常に重く、そして確かに子どもたちに響いたことでしょう。一方で、いのちを自ら絶って行く人々が絶えない中で、必死に生きようとするいのちがあり、またいのちの終わりを見つめながら、そのいのちを燃焼し尽くそうと懸命に生きるいのちがある。思いを残して先に逝かなければならない寂しさを心に抱えながら、それでもそのいのちの証しを、それこそ溢れるようなほとばしるような言葉で語り尽くしていこうとする姿を見て、この時の主イエスのお心をあらためて思い巡らすのです。主イエスもまた、どれほど弟子たちを愛しておられたことでしょうか。彼らを残していくのはいろいろと心残りであったに違いない、もっと伝えておきたいこと、もっと言い残しておきたいことがあったに違いない。けれどもすべてを語り尽くすことはできない。もはや時が近づいている。そんな中で主イエスはその思いを、燃えるような愛の心を、助け主なる聖霊の神に託して行かれたのです。そしてその主イエスの燃えるような愛の心を受け取られた聖霊が、「あなたがたとともに住み、あなたがたのうちに」いてくださる。そして主イエスの私たちに対する溢れんばかりの燃えるような愛を、今、聖霊の神が私たちに明らかにしてくださるのです。
 この朝、私たちも、私たちとともにあり、私たちのうちにおられる聖霊の神に信頼し、この御方が証ししてくださる聖書の御言葉を通して、主イエス・キリストの愛をしっかりと受け取り、主イエス・キリストと結び合わされて生きる、その新しい人生のスタートを切っていきたいと思うのです。その時に、聖霊は「あなたがたを捨てて孤児にはしない」と言われた主イエスのお約束の通りに、私たちを終わりまで主の愛のうちに生かし続けてくださり、やがての時に主のもとへと迎え入れてくださるのです。私たちのうちに、私たちとともに。この聖霊の神に導かれてここから歩み出してまいりたいと願います。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.