元旦礼拝説教  2016/01/01
『天が地よりも高いように』

イザヤ55:8-13
 
 新しい年、2016年の元旦の朝を迎えました。主にあって心からの挨拶を申し上げます。新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。愛する皆さんの上に、この一年、主イエス・キリストからの恵みと平安、祝福が豊かにあるように心からお祈りいたします。

(1)言葉の確かさを求めて
 新しい年が明けました。あちらこちらで「一年を漢字一文字で表すと?」というのを目にしましたが、私も少し考えて思いついたのが「言」というものでした。昨年一年、様々な言葉を聴きました。中でも夏から秋にかけて、政治の場から聞こえてきた言葉、町中や国会前の路上から聞こえてきた言葉が強く印象に残っています。とりわけ若者たちが安保法制反対のデモや国会前行動の中で語ってくれたスピーチの数々、そして参議院の中央公聴会での奥田くんの歴史的な陳述など、若者たちが語ってくれた言葉の中に、「存在をかけた言葉」、「本物の言葉」の響きを聴き、一つの希望を見た思いがしました。
 その一方で、年の終わりにいわゆる戦時中の「従軍慰安婦問題」について韓国と日本の政府間で最終合意を見たというニュースが入ってきました。この問題を取り巻く複雑な背景などひとまず置くとして、今回の決着が日本の国のかつて犯した罪に対する心からの謝罪となるかは、政治家たちをはじめ、私たちの社会がどういう言葉を口にするかに掛かっているように思います。口先だけの謝罪なのか、心からの謝罪なのか。「最終的かつ不可逆的に解決する」という合意の言葉が本物の言葉になるためには何と言ってもすでに高齢になっている慰安婦として大きな傷を受けた方々に対する真摯な謝罪が為されることが必要でしょう。しかし今の政権中枢にある人々が果たしてそういう言葉を持ち合わせているか、心からそのような言葉を口にすることができるかと言えば、ついこの前までの言動を見ればはなはだ疑問が残るのも事実です。
 元旦早々から重たい話題で恐縮ですが、「言葉の確かさ」が問われている。これが今の私たちの時代の姿ではないかと思うのです。確かな言葉はどこにあるのか。口先だけでなく、責任を伴う言葉はどこにあるのか。ことばに生きるキリスト教信仰にとって、これはきわめて本質に関わる問いと言わなければならないでしょう。

(2)生ける神、語られる神
 旧約聖書の最初、創世記1章には天地創造の出来事が記されていますが、ここでまず私たちの目に留まるのは、創造の神が「語られる神」であられるという事実です。1章2節に「そのとき、神が、『光よ。あれ。』と仰せられた」とあるように、神が御自身の造られる世界に対して最初になさった最初の働きかけは「語る」ということであったのです。神が「語られる神」であられるということは、生ける人格的な神、交わりの神であられることを表しています。これは教理の言葉で言い換えれば、私たちの神は、父と子と聖霊の三位一体の神であられるということです。三位一体の神の各位格の間に生きた豊かな愛の交わり、完全な調和と一致の交わりがあるので、神はその交わりを開いて、その交わりを広げ、あるいはその交わりの中に迎え入れるために、この世界をお造りになり、そしてそこにいのちある者たちを生かしめてくださっているのです。
 ここに神の言葉の確かさの根拠があります。神は無責任に言葉を発するお方ではありませんし、見せかけだけの耳あたりの良い言葉を語ることもありません。聞こえは良いが中身のない空虚な言葉を語ることもありません。虚勢を張って人々を煽動する言葉を語ることもない。神の言葉は決して?偽りのない真実な言葉であり、神が語られればそれは必ず実現する言葉であり、語られた言葉に対してどこまでも責任を担われる確かな言葉なのです。

(3)天が地よりも高いように
 そこでこの朝、ともに心に刻みたいのが、主が預言者イザヤを通して語ってくださった御言葉です。8節、9節。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。−主の御告げ−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」。
 この御言葉は、祖国イスラエルの滅亡という悲惨な現実を前にして主が預言者イザヤを通して民に語られた言葉です。目の前の悲惨で過酷な現実を前に、預言者の言葉をなかなか信頼できない、そんな彼らに対して主なる神は、人間の基準でわたしの思いを測るな、と言われる。人間の考えの中にわたしの考えを取り込むな、と言われるのです。私たちの思いを遙かに超えた神の言葉。私たちの限界を超えて上からもたらされる恵みの言葉。私たちの小さな考えを圧倒し、私たちが見渡す道を遙かに超え、私たちの限りある思いを無限の天の高みへと引き上げてくださる神の言葉。
 そしてこの確かな言葉が、私たちに向けて、私たちのために、私たちを生かす言葉として語りかけられているのです。10節、11節。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」。主なる神が私たち、疑いやすく、惑いやすく、神の言葉になかなか信頼を置くことのできない私たちに示される、その確かさの根拠として、ここで繰り返される「〜のように」という比較級に注目します。
 「天が地よりも高いように」、そして「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように」と。聖書の中に出てくる比較級は、小さな事から大きなことへ、という数や量の比較級でなく、人間の現実から神の国の現実へ、身近に手で触って私たちが確かと思うことから、信仰によってのみ捉えられる、私たちの確かさを超えた神の確かさへと私たちを携え挙げるものです。そしてこの神の言葉の確かさを信頼して歩むとき、そこに神の祝福が約束されていることを御言葉は伝えています。
12節、13節。「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる」。
 迎えた2016年の歩み。この一年の間に、どのような出来事が待っているか私たちには分かりません。明日のことが見通せればそれに対する心構えができるのに、と思います。しかし主は私たちに日ごとにご自身に信頼することを求めておられます。出エジプトのイスラエルの民が毎朝ごとに降る天からのパン、マナによって養われて生きたように。主イエスが「日ごとの糧を今日与えてください」と祈るようにと教えてくださった祈りのように。「明日のことを思い煩うのはやめなさい」、「明日のことは明日が心配します」と語ってくださる主イエスの言葉に導かれ、今日も生きておられる主なる神の御愛と御真実に信頼して、一歩一歩、歩んでまいりたいと願います。
 その際に、私たちが繰り返し心に留めたいのが、今日の御言葉です。神の言葉は私たちが思う以上に私たちの現実をよく知り、私たちの現実を超えて働き、そして私たちに祝福をもたらしてくださる、この上なく確かで、信頼するに値するものだということを。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。−主の御告げ−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」。この御言葉を握りしめて、新しい年の歩みをここからスタートしてまいりましょう。



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