2008年元旦礼拝 2008/01/01
『雲が上るとき』

民数記9:15-23

 主の2008年を迎えました。新年明けましておめでとうございます。今年も主にある兄弟姉妹方とともに、こうして主を礼拝することから新しい年を歩み出せる幸いを、心から主に感謝するものです。この年、教会にとっては主の御心を受け取って大きな一歩を踏み出していくことになりますが、そのためにもまず私たち自身が主の御心に従順にお従いしていく群れとして整えられていくことが必要です。そこで今朝は年のはじめに荒野を旅する神の民の姿から、主の御心に導かれて歩む教会の姿を教えられていきたいと思います。

(1)神の臨在の雲(v.15-16)
 15節、16節。「幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた」。民数記という書物は、エジプトでの長い奴隷生活の末に、主なる神がモーセを民の指導者にお立てになり、その力強い御手をもって民をエジプトから助け出してくださった、あの出エジプト記の出来事に続く民の姿、すなわちイスラエルの民が、約束の地カナンに至るまで荒野で旅を続ける姿を記したものです。エジプトを脱出したイスラエルの民は、主なる神が約束してくださった祝福の地カナンを目指して旅立ちましたが、実際にその地に辿り着くまでには実に四十年という長きにわたる時間を必要としました。この間、彼らは主の御前にしばしつぶやいたり嘆いたり、不平不満を口にしたりという、幾多の困難を経験させられたりもしました。いったい自分たちがどこに向かっているのか、そのことにすら疑いを抱くようなこともあったかも知れません。けれども実はこの荒野の四十年の日々が、そのままイスラエルの民に対する主なる神の特別の訓練の時、主の御心に従うことを教えられる時であったと言えるのです。  さて、以上のような背景を踏まえて、今日の9章の御言葉に目を留めておきたいと思います。今日の御言葉は、彼らの一見脈絡なくさまよい、さすらうばかりに見えるこの荒野の旅路が、実は主なる神の確かな守りと導きのうちにあったことを示している箇所です。この主なる神の守りを象徴的に表していたものが「雲」でした。この雲はイスラエルの民が進む時には彼らを敵の手から守り、彼らが定住するときには、その中心である幕屋をおおうもので、幕屋の中に収められていた神の箱と同様に、主なる神御自身の聖なるご臨在を表していました。そしてこの臨在の雲は、昼だけでなく夜も火のようになって民の前にあり、片時も離れることなく彼らの上にとどまり続けていたというのです。こうして彼らはいつでも、どこでも、誰であってもはっきりと、主なる神の守りを毎日その目で確かめることができたのです。臨在の雲はいつも民とともにあった。主なる神のみこころをたずね求めていくにあたっての大前提は、主なる神は絶えず我らとともにいてくださるお方であるという、主なる神に対する確信と信頼であるということなのです。

(2)立ち上がる勇気、とどまる忍耐(v.17-22)
 17節、18節。「雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた」。さらにこの雲の存在は、主なる神の守りと臨在のあかしであるばかりでなく、老いも若きも男も女も含めた大群衆を約束の地へと正しく導くための唯一の道しるべでもありました。雲が上れば彼らは大移動を始め、雲が止まれば彼らはそこに定住しました。そして再び雲が上るまではそこに止まり続け、そしてまた雲が上ればすぐさま彼らは旅立ったのです。彼らはこの雲に我らを導きたもう神の御心を見出し、その雲に導かれて荒野の旅を続けていったのでした。
 主なる神の定めたもう時は、しばしば私たちの時の尺度とうまくかみ合わないようなことがあります。降って湧いたような唐突な時の訪れがあるかと思えば、もう忍耐の限界を越えてしびれを切らし、ようやくといったような時の訪れもあります。イスラエルの民にとっても、この地に留まり続けたいと思うような時に雲が上ってしまうこともあったでしょうし、あるいはすぐにでも旅立ちたい、外の場所に移りたいと思う時に、いっこうに雲が上る気配もないというような時もあったと思うのです。やっとその土地で落ち着いた生活が始まろうとする矢先に、雲が上ってまた他の土地に旅を続けて行くことは、多くの民にとって、殊に年老いた者、病気の者、幼子を抱えた者にとっては困難極まりないものだった違いありません。また一体次はどこに行くのか、落ち着く当てもないままに出発して行くのには大きな決断と勇気が必要だったでしょう。しかし彼らはそれがたとえ昼でも夜でも、一日でも二日でも、そこがどんなに自分達にとっての快適な場所であったとしても、雲が上ると直ちに旅立って行ったのでした。
 さらに19節から22節。「長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は主の戒めを守って、旅立たなかった。また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った」。自分なら「なぜ神は私をこんなところに置かれるのか」、「自分の計画とまるで違う」、「こんな人生を歩むはずではなかった」、こんな言葉が次々と浮かんできます。けれども民は雲が上るまでは決して旅立ちませんでした。雲が止まり続けている限りは一年でも二年でもその地に止まり続けたのです。そこには深い忍耐が必要とされていました。

(3)主の命令によって(v.23)
 このような彼らの決断と忍耐を支えていたものはいったい何だったのでしょうか。それが次の御言葉に見事に言い表されています。23節。「彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った」。彼らは主の命令に従った。実に単純に、しかし徹底的に主の命令に従ったのです。彼らは雲が動き出すのはいつで、次に向かう先はどこで、そうなるのはなぜか、ということは一切知らされていません。御心は神のみがご存じであり、彼らはただ雲の動きに従うだけです。しかし民はこの旅の最終的な目的地は約束の地カナンであるということ、そして自分たちはそこまでの旅路をこの雲によって導かれて行くのだというは知っていました。そして何よりも彼らの確信の基いは「この雲は神のご臨在である」という信仰にありました。だからこそ彼らは自分たちに知らされている事柄の中に、神の御心を見い出し、その御心神の命令と受けとめて従順に従っていったのです。
 この年、私たちは主なる神の御心をたずね求めながら、その御心に従って歩んで行きたいと願いつつこの場に集っています。その際に、私たちはかつてイスラエルの民の上にあった雲のように、今、私たちの前に開かれているこの聖書の御言葉の中に、主なる神の私たちに対する御心がはっきりと示されていることを覚え、この御言葉に従順に、かつ徹底的にお従いしてまいりたいと思うのです。私たちに神の御心とご命令を一貫して示し、語り続けていてくださる神の言葉なる聖書。ここにこそ私たちは全き信頼を置くものでありたいと願います。今年も毎主日ごとに、朝に夕に神の御言葉が繙かれます。毎日、御言葉は私たちに語りかけてくださいます。私たちはこの神の生ける御言葉を通して、私たちの上に雲は上っているか、止まっているか。それを見極め、従い、そのようにして信仰による歩みを歩み出してまいりたいと思います。



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