2006年元旦朝拝説教 2006/01/01
『幸いな人』

詩篇1:1-6

 2006年、新年あけましておめでとうございます。こうして新しい年の始まりを、主への礼拝をもって迎えられる恵みを感謝いたします。今朝は旧約聖書、詩篇第1篇の御言葉を通して、主の道を歩む人生の幸いについてご一緒に教えられていきたいと願います。

(1)二つの道(v.1-2)
 1節。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」。「幸いなことよ」と歌い始められるこの詩篇1篇は、私たちに真の幸いの道を指し示す、詩篇150篇全体の入口のような役割を果たすものと言われています。詩篇の中にはこの「幸いなことよ」という賛美の声が繰り返し登場してきますが、そのいくつかを実際に開いて見ておきたいと思います。続く2篇12節、「幸いなことよ、すべて主に身を避ける人は」。32篇1節、2節、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」。33篇12節、「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は」。34篇8節、「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は」。40篇4節、「幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は」。41篇1節、「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される」。65篇4節。「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は」。84篇4節、5節、「何と幸いなことでしょう。あなたの家に住む人はたちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は」、12節、「なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は」。94篇12節、「主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は」。112篇1節、「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は」。119篇1節、2節、「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を訪ね求める人々」。128篇1節、「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は」。144篇15節、「幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は」。146篇5節、「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は」。
 こうして見てみますと、確かに詩篇1篇が詩篇全体が指し示す幸いの道の入口であることが分かりますし、またこの幸いが新約聖書のマタイ福音書5章で主イエス・キリストが語られた「幸い」の教えにも流れ込んでいることが分かってきます。つまり聖書の教える幸い。それは絶えず主なる神御自身との関わりの中で、さらに具体的にはこの主なる神が与えられるみおしえやさとしを通して与えられるものであることが分かってくるのです。そのことを踏まえながらもう一度1節と2節を読んでみましょう。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」。ここには主なる神に背いて生きる罪の道と、主のおしえに従って生きる幸いな道という二つの人生の道が記されています。ここで「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない」ということは、裏返せばそのまま真の幸いが、それらではない何ものかによって歩み、立ち、座するものであることを示しています。そしてその鍵になるものが「主のおしえ」と言われるのです。主のおしえ、主の律法、御言葉。主のおしえに従って歩む人生は私たちにとって重い軛ではなく、主の御言葉を日ごとに口ずさむことは私たちにとって大いなる喜びであると、この詩篇は詠います。主のおしえに歩み、主のおしえに立ち、主のおしえの上に座することが真の幸いな人の姿なのです。

(2)二つの道の有様(v.3-4)
 続いて今日の詩篇は主のおしえに導かれて生きる人生の幸いな有様を、再び「悪者」というもう一つの姿との対比で描き出します。3節、4節。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ」。亜熱帯気候のパレスチナにおいて、青々とした緑を茂らせる樹木の存在は貴重であり、そこに木があるということは、そこに豊かな水の存在があることを証ししています。水源となるガリラヤ湖やヨルダン川からそれぞれの町や集落に水を供給する水路。その水路の脇に生い茂る樹木に、詩人は湖の幸いな人の姿を見たのでしょう。それらの木々が季節になると豊かに実をい実らせ、その葉が枯れず、豊かに生い茂ることができるのは、その地中に張り巡らされた根が水路から供給される水分、養分を絶えず吸収しているからです。幸いな人生という時に、私たちはしばしばその目に見える現れ、その木の見事な枝振りやたわわに実った果実のばかり目を向けがちですが、肝心なことは、そのように豊かに実を実らせるのためには、その木が一体どこに根差しているかが重要なのです。どこに根差しているかがどんなに実を結ぶかを決める。そこに私たちも真の幸いの秘訣を見出したいと思います。一方、
そのような根を持たない木の行く末は4節にある通りです。中身のない籾殻は空に放り挙げられ、風とともに飛び去っていく。そこに空しい人生の姿が映し出されていると言えるでしょう。
 今年、私たちは「御言葉に根ざす教会」を主題に掲げ、第二列王記19章の「下に根を張り、上に実を結ぶ」の御言葉を与えられて歩み出そうとしています。この主題については例年のように22日の新年聖会で改めて詳しく学びたいと思っていますが、ともかく、私たちが個人の生活においても家庭や仕事、教会の歩みにおいても主にあって豊かに実を結ぶことを期待をするならば、だからこそ一番の根本のところに心を傾けることが必要でしょう。私たちは一体どこに根を張っているか、ということを絶えず見つめなければなりません。豊かに水をたたえた主の水路から豊かに汲み取ることを願い求めて行きたいと思います。

(3)二つの道の行く末(v.5-6)
 最後に、詩篇は二つの道の行く末を語ります5節、6節。「それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる」。悪者の道。それは滅びに向かう道であり、正しい者の道。それは主のおきてに根ざし、主のもとに集い、主の御心に従って歩む道です。私たちはこの正しい道を歩み、主なる神が下さる真の幸いにあずかりながら、幸いな人としての人生を歩む者でありたいと思うのです。この朝、この国の多くの人々は一年の幸せを願って多くの神々のもとに出向き、それぞれが考える幸せが叶えられることを求めて偶像の前にひれ伏しています。しかし聖書が教える真の幸いな人とは、主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人の姿であり、それこそ真の幸いなのです。この幸いを与えられて、この幸いの中に歩み、立ち、座するために、私たちはこの年も、しっかりと主の御言葉に根ざし、主の道を歩み続けたいと願います。ホセア書14章9節。「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまづく」。まことに主が備えていてくださる主の道は平らなのですから、この道を御言葉に導かれて進む私たちでありたいと願います。



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