年末感謝礼拝説教 2006/12/31
『キリストの愛に根ざす』

エペソ3:14-19
 
2006年の大晦日を迎えました。元旦礼拝から歩み始めたこの一年を主の日の礼拝をもって締め括ることのできる幸いを主に感謝します。またこうしてこの年、53回の主の日が守られて礼拝を捧げる自由が与えられ、御言葉による養いと主にある交わりが与えられたことを主に感謝したいと思うのです。そこで今朝は今年導かれてきた主題の御言葉に目を留めながら、一人一人の主の御前での歩みを振り返らせていただきたいと思います。

(1)下に根を張り、上に実を結ぶ
 今年私たちはII列王記19章29節から31節の御言葉を掲げて歩んでまいりました。「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする」。四十年という歴史を積み重ねてきた私たちの教会が、新しく歩みを踏み出すにあたり、この年のはじめに願ったことは、もう一度信仰の原点に立ち返り、御言葉に聞き従う姿勢を確立しようということでした。今年1月の新年聖会で私はこの箇所から次のように申し上げました。「あらためてここから新しく歩み始めようとする時に、何か自分たちの力で造り上げ、建て上げていこうというのでなく、ひたすら神の語りかける御言葉に聴くことで養われ、神の注いでくださる恵みに依存して、そこから力を得てまた立ち上がっていくことを学ぶ大切な時なのではないかと思います。その意味で、この年あらためて御言葉に聴き、親しむという信仰の原点から初めて行きたいと思うのです」。
 今こうしてはじめに願ったことを思い返す時、お一人ひとりの御言葉の生活、祈りの生活がどのようであったか、私たちの信仰の根っこの部分がどれほどに深く、広く、張り巡らされることができたか、そのことを顧みて、主の御前に悔い改めと感謝をもってこの年を締め括り、また新しい年へと思いを新たにしたいと思います。当然のことながら今年の主題は今年限りのものではありません。いつでも信仰の基本的なところを大切にしたいと思うのです。どれほど信仰生活を長く続けたからと言って、もう御言葉を読まなくても大丈夫、祈らなくても大丈夫というのようなことはあり得ません。いつでも最初から新鮮に素直な幼子の心で御言葉を聴き、御言葉に教えられていく者でありたいと思いながら、今年の4月のセミナーでご紹介した宗教改革者ルターの言葉をもう一度繰り返しておきたいと思います。「あなたがキリスト者になろうと思うなら、キリストの言葉を受け入れるがよい。また、これを学びきってしまうことが決してないことを知るがよい。まだABCもできないぐらいだということを、あなたは私といっしょに告白しなくてはならないだろう。誇るに値するというのなら、私にも誇るところがある。なぜなら、私は日夜これを学んできたからである。しかし、この教えに関してはいつも生徒のままである。毎日私は初級の生徒のようにはじめるのだ」。

(2)内なる人が強められる
 さらにこの朝、エペソ人への手紙3章を読んでいただきました。これも今年の新年聖会で学んだことですが、「下に根を張り」という御言葉を私たちは御言葉に根ざすということ、そしてそこからさらにキリスト御自身に根ざすこととして学んできました。このことをあらためてエペソ書3章に記されたパウロの祈りから受け取っておきたいと思います。
14節、15節。「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすへてのものの名の元である父の前に祈ります」。パウロはここで天地万物を創造し、それを支配しておられる唯一の神が、異邦人とユダヤ人の違いはもちろんのこと、地上のあらゆる人種、民族、言語、思想の一切による区別も差別もなく、そればかりか実に天上と地上の者をも一つの家族として下さり、しかもそこに加えられるちっぽけな存在の一つに過ぎない私たちの、いや私の「父」となっていてくださる主なる神の御前に、自由に祈りの翼を広げて祈っています。神を父に持つ者の自由さがこの祈りには溢れています。この手紙もパウロが獄中で記した手紙の一つですが、そんな事実を読む者に忘れさせるほどの自由さがこの祈りにはあるのです。
 ここでパウロが祈っていること。それはまず16節にある「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」との祈りです。私たちはしばしば祈りを捧げる時に、私たちの熱心さを基準にしたり、主なる神が祈りに答える力を本当にお持ちなのかとその力を測ったりすることがないでしょうか。みこころを求めているつもりが、その結果次第では「私の祈りが足りないのでは」とか「これは神様でもお出来にならないのでは」というように思ってしまうのです。しかしここには、祈りはそのような私たちの思いの強さや弱さによって左右されるものではなく、むしろ主なる神がその栄光の豊かさに従って答えてくださるという実に確かな約束に基づくものであることが示されています。つまり私たちが主に祈る時、主の素晴らしさやご栄光の豊かさを覚えれば覚えるほどにそれに比例して祈りの確信も深められて行くことができるのです。この確信に基づいて捧げられる祈りとは、「あなたがたの内なる人が強められるように」というものでした。内なる人が強められる、それは私たちの見えない信仰の人としてのあり方が整えられ、豊かにされていくこと。私たちの信仰に基づく価値観、人生観とそれによるところの洞察力や判断力が整えられていくこと。絶えず御言葉によって決断していくという信仰の勇気が強められていくこと。つまりそれこそが「下に根を張り」という御言葉と共通する信仰の基礎、土台に関わることと言えるのではないでしょうか。そしてその内にある人が強められるとは、まさに私たちの内に住んでいてくださる聖霊の神による御業、聖化の御業を指すに他なりません。自分の頑張りではありません。私にその力があるのではないのです。私のためにキリストの命を捨てて下さるほどの愛を示してくださった父なる神の愛がもたらす聖霊の力なのです。この聖霊の恵みにますます信頼していきたいと思います。

(3)キリストの愛に根ざす
 さらにパウロの祈りは核心部分へと続いて行きます。17節から19節。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神御自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」。パウロは前の16節で、父なる神があなたがたの内なる人を強くしてくださるようにと祈りました。そしてここでは、キリストがあなたがたの心の内に住んでいて下さるようにと祈っています。聖書はしばしば救いにおける私達のキリストとの関係を「キリストが内に住む」と表現します。ではキリストはどのように私達の所に来て下さるのか、どうしたら私達はキリストを住まわせることができるのか、そしてキリストが内に来て下さるとどんな変化が起こされるのかということを考えてみたいと思います。主イエス・キリストは父なる神と共にご自身を愛する者の所に来て、その人の内に住んで下さると言われました。主を信じるとは主を愛するということであり、主を愛する者の内に主ご自身が来てくださるというのです。罪の中にいる私たちが主を呼び求め、主の十字架を仰いで、その十字架が自分のためであったことを信じ、このお方を私たちのもとにお迎えする時に主は私たちの内に来てくださるのです。このようにしてキリストを受け入れた時、「キリストが住んでいて下さる」とあるように主は私たちの元に来て、そして私の中に住んでくださるのです。私の内にキリストが生きておられ、住んでいて下さる。これがクリスチャンの姿です。神を無視して自己中心な人生を歩んでいた私たちが、もはや私のためでなくキリストのために生きる者に変えられる。キリストの御心を私の心として歩んでいくキリストとの堅く深い交わりの歩みが始まっていくのです。ここでキリストが住んでいてくださるというのは、間借人や客人としてでなくその家の主としてという意味です。つまりキリストが私の人生の主人となってくださるということです。であるならば、キリストが私たちの内にあって文字通り主人として、家長として第一とされ、王座にいて下さらなければならないのでしょう。主を第一とすること。これがクリスチャン生活の基本であります。またこれはキリストがいつまでも共にいて下さるという約束でもあります。決してキリストは私たちを捨てず、また離れることがない。キリストと共に歩む人生ほど確かなものはないのです。
このようにキリストを内にお迎えした者たちの歩みは、それがゴールではなく、キリストの愛に根ざしつつそこから成長し、さらにキリストの満ち満ちた様にまで満たされていくと御言葉は語ります。パウロはここで「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができるように」と語ります。人間が経験したことも、知ることもない愛を知るようにというのですから考えようによっては不可能な祈りです。しかしパウロはこれを知ることができるようにと祈るのです。ではそれはどうすれば知ることができるのか。パウロはこのほとんど不可能に近い願いを実現させるためにもう一つのことを願います。それは「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つ」ということでした。つまり「キリストの愛」の広さ、長さ、高さ、深さを知るというのです。それもまた難しいと一瞬思いますが、しかしこれは私たちにもよく分かることなのです。なぜならば、今その愛を私たちは確かに注がれて、その愛で愛されているからなのです。この大いなる愛で愛されている。まずこの事実を喜ぶ者でありたい、愛されていることがどんなにうれしいことか、ありがたいことか、励まされることか、慰められることかを思う存分に味わい知るものでありたいと思うのです。そして最後に、この愛によって「神の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」という祈りがささげられます。これが私たちの信仰の歩みの一つの到達点です。「神の満ち満ちたさまにまで満たされよ」。神が私たちを満たして下さる。満たし続けて下さる。信仰の成長のゴールの時まで、少しづつ少しづつ、しかし確実に満たし続けて下さるのです。神に満たしていただけるように私たちの器が空けられて行かなければなりません。そこに神が私たちをご自身の満ち満ちたさまにまで満たして下さる。下に根を張り、上に実を結ぶ歩みを、信仰の成長と成熟をさらに祈り求めつつ新しい年へと向かってまいりたいと願います。

 



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