年末感謝朝拝説教 2012/12/30
『喜びが全きものとなるため』

Iヨハネ1:1-5
 
 祝福にあふれた2012年のクリスマスを過ごし、今年最後の主の日を迎えました。一年の主にある歩みの締めくくりに、主イエス・キリストの御言葉に聴いて、恵みを深く味わいたいと願います。

(1)永遠のいのちのことばを見る
 今年、私たちの教会は「交わりに生きる教会」を主題に、一年間歩んでまいりました。年の初めの新年聖会以来繰り返し教えられて来たのは、「主との交わり・主にある交わり」ということでした。主イエス・キリストとの交わりが深められていくことで、主にある互いの交わりも豊かにされていき、主にある交わりの中に生きることで、主との交わりの絆が強くされていく。そういう一年の歩みを祈り願いながら歩んでまいりましたが、皆さんの歩みはいかがだったでしょうか。昨日よりも今日、今日よりも明日、少しずつでも確かに主イエスに近づけられ、そして主イエスにあって互いに支え合っていく交わりを続けて祈り求めていきたいと願うのです。
 今年、私たちの教会の礼拝に初めて足を運んでくださった方が63名おられます。平均すると毎週1名以上の方が来てくださったことになります。本当に感謝なことです。オープンチャーチやチャリティコンサート、平日に訪ねてくださった方を入れればそれ以上の方々がおられます。先週のイヴ礼拝でも、近くにお住まいの方が教会の前を通ってチラシを手にとってくださり、当日お出でくださいました。今年になって礼拝に集うようになってくださった方が、「まだ神様のことはよく分からないが、神様を信じる教会の人たちの集まりは心地よい」と言ってくださいました。目に見えない永遠なるお方のお姿が、目に見える教会の交わりを通して映し出されていく。まさに今日のヨハネの御言葉が語ることが起こっているのです。1節から3節。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、―このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。

(2)体験から経験へ
 この手紙を書いたヨハネは、「いのちのことば」を耳で聞き、目で見て、手でさわったと言います。またヨハネはこの「いのちのことば」を「御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのち」と言いました。このヨハネが聞いて、見て、さわった「いのちのことば」、「永遠のいのち」とは、紛れもなく神の御子イエス・キリストのことです。ヨハネはこのイエス・キリストを彼は一生懸命多くの人に伝えたいと願ってこの手紙を書いている。けれどもこの手紙を受け取ってヨハネの言葉を聞く人たちは、イエス・キリストの言葉を直接に聞いたわけでもなければ、その姿を見たわけでもなく、ましてその姿に触れたことなどない人たちです。そういう意味では、この手紙の読者たちは私たちと同じところにいると言ってもよい。聞いた人と聞かなかった人、見た人と見なかった人、触れた人と触れなかった人。そこには体験した人としなかった人との大きな隔たりがあるのです。
 震災から一年九ヶ月が過ぎました。被災地とそれ以外の場所では、この体験の差がどんどん広がっているように思います。特に今回の選挙で自民党が政権を取り戻し、すぐにも原発再稼働への舵が切られていく姿を目の当たりにすると、いったい私たちの社会はあの311の出来事から何を学んだのだろうか、とやりきれない思いになります。今も三十万人以上の人々が不自由な仮住まいの生活を送っているのに、年末の世の中はもう震災など過去のことになってしまったかのような浮かれぶりです。体験した人と、しなかった人との溝は埋められないほどに広がっているかのように思えます。
 しかし今日の御言葉を通して私たちはあらためて教えられるのです。主イエスを体験したヨハネが、体験していない人々に手紙を書く。彼はその溝を超えられないとは思っていない。必ず伝わると信じている。いったいそれはなぜなのか。いったい何が鍵なのでしょうか。ヨハネはここで「私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます」と言いました。「あかしをする」。先週のクリスマス礼拝で、洗礼を受けた兄弟たちが救いの証しをしてくださいました。正直に、赤裸々な、しかし本当に真実な証しでした。けれども私たちはその言葉を聞いて、彼らが人生において体験した事柄を同じように知ることはできません。それはその人その人の固有な人生の出来事だからです。けれどもそのような隔たりを越えて私たちに伝わってくる証しの力がある。それが一人一人の人生の違いを超えて、そこで生きて働いていてくださるイエス・キリストが証しされるということです。イエス・キリストを見たヨハネと、見ていない人々との間には体験の違いがあることは事実です。でもだからイエス・キリストのことが伝わらないかというとそうではない。ヨハネが生きておられるイエス・キリストをあかしする。そのイエス・キリストが人々の中にあかしされる。そして人々はイエス・キリストと出会いを果たす。そこで体験がより深く、より普遍的で、より広く、より確かな経験へと変えられていくのです。ヨハネが「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」と語ったときの「交わり」とは、まさにこのイエス・キリストというお方の経験といってよいでしょう。

(3)あかしの力
 そしてここに、私たちのあかしすること、伝道することへの力の源、勇気の源があるのです。私の見たこと聞いたことは断片的であり、不確かなものであり、それについて語ろうとする私の言葉にも限りがあり、私の体験も乏しいものである、それらをもっていくら語っても、大事なことは伝えられないのではないか、「あなたはあなた、私は私」と言われてしまって終わるのではないか、と恐れます。けれどもそういう私がその限界の中でイエス・キリストをあかしするとき、あかしされるイエス・キリスト御自身が私の小さな体験を超え出て、人々の人生の中に入っていってくださる。あのヘブル人への手紙が「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることがない」と記したように、イエス・キリスト御自身が私たちのあかしを通し、しかしそのあかしを超えて、人々の中に生きて働いていってくださる。そうやってイエス・キリストが一人一人との出会いを果たし、新しい交わりを作り上げていってくださるのです。
 私たちはこの体験を経験へと広げ、深めて、確かなものとしてくださる主イエス・キリストを信じたいと願うのです。皆さんは「あの人にイエス様を知ってほしい」とどれだけ真剣に祈っておられるでしょうか。家族のため、友人のため、同僚のため、祈り続けておられるでしょうか。自分の言葉では伝わらないと最初から諦めてしまってはいないでしょうか。今日の週報の「牧師室だより」にも書きましたように、家族のため、友人知人のため祈り続けることをやめてはなりません。実際に、主イエス・キリストはこの年も私たちを通して、私たちを用いて、生きて働いていてくださいました。私たちの祈りや願いはすぐに途絶えそうになったり、潰えそうになりますが、しかしイエス・キリストはそういう私たちを通して御自身をあかししようと、私たちに期待を寄せ、私たちを尊い者としてその存在を用いていてくださるお方です。そしてまるでジグソーパズルがその一つのパーツだけでは何の図柄か分からなくても、忍耐強くパズルを組み立て続けていくことによってやがて大きな絵が見えてくるように、私たちの小さな言葉、ささやかな体験、取るに足らないと思えるような営みの一つ一つを集めて、大きな大きなイエス・キリストの愛のお姿を描き出してくださるのです。
 
(4)喜びが全きものとなるため
 そしてヨハネは記します。4節、5節。「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです」。私たちの喜び。それは私たちのこの小さな存在と、ささやかなあかしを通して、イエス・キリストがあかしされ、人々がこのイエス・キリストとの出会いを果たし、交わりを持つようになることです。先週のイヴ礼拝の終わった後、おおよその片付けを終えて、妻と子どもたちと山村役員と、三階で準備してくださっていたカレーを食べながら心地よい疲労感の中でしばらくの時を過ごしました。誰ともなしにそれぞれの口をついて出て来たのが、「誰それさんが来ていてよかったね」、「誰ちゃんが来てくれてよかったね」、「点火係の男の子たちがよかったね」、「聖歌隊のみんなの歌がよかったね」、「聖書の朗読がよかったね」、「初めての方が来てくださったね」という喜びと感謝の言葉の数々でした。
 教会の喜びとは、何かイベントが計画通りうまくいったとか、目標が達成されたとか、多くの人を集めたとか、信者を何名獲得したとか、そういうものではないのです。もちろんそういうことから来る喜びが全く否定されるべきとは思いませんが、しかしそれらが私たちの喜びであったり、達成感であったり、満足感になっていってはならないのです。そうではなくて、大切なことはいつでもイエス・キリストが目を留めておられるひとりの存在、イエス・キリストが愛してやまないかけがえないひとりの存在、イエス・キリストが十字架にいのちを捨てるほどに愛してやまないひとりの存在です。名前を持つ、固有な、かけがえない、取り替えられない尊い存在であるそのひとりの人。その人がイエス・キリストの光のうちに迎えられることほどの喜びはない。地上でひとりの人がイエス・キリストと結び合わされる時に起こる、天上での天の御使いたちの大歓声が聞こえてくるような交わり、ひとりの人の存在を皆が喜びとする交わりを私たちは来る年も建て上げて行きたいと願います。暗闇の中に身を潜めている人々に、希望などないと人生を諦め掛けている人々に、人間に絶望し、神を疑う人々に、光のもとに行こうと声を掛け、荷物を一緒に背負い、道案内をしながら、光のもとへとともに歩む、そのような歩みを今日ここから新しくスタートしたいと願います。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです」。このよき福音の知らせを携えて2013年へと歩みを進めてまいりましょう。

 



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