年末感謝礼拝説教 2008/12/28
『よい忠実なしもべ』

マタイ25:14-30
 
2008年最後の主日を迎えました。恵みの中にクリスマスを過ごし、その余韻を味わいつつ、新しい年へと歩み出そうとするこの週、マタイ福音書に記されたいわゆる「タラントのたとえ」から一年の締め括りの御言葉をいただいて、主の御前に信仰の足取りを確かなものとさせていただきたいと思います。

(1)委ねられたもので生きる
 この年、私たちの教会は、ヨハネ黙示録2章10節の御言葉から「終わりまで忠実に歩む教会」を主題に掲げて歩んでまいりました。年が明けてから残る21章、22章を読んで終わることになりますが、昨年一年間の御言葉の説き明かしの中で、迫害の時代に生きるヨハネとアジヤの教会の姿から、いかなる時代の状況の中にあっても終わりまで忠実に主にのみ従う教会のあり方を学び続けて来たわけです。当然のことながら、教会が一年ごとに掲げる主題は、その年限りということではありません。むしろ一年ごとに教会の営みを積み重ねる中で、私たちはさらに太く、しっかりとした信仰の基礎を築き上げていきたいと願っているのです。そこで今朝は「終わりまで忠実に歩む」という信仰の姿勢を、主イエス・キリストがお語りくださった一つのたとえを通して再確認いたしましょう。
 そこでまず14節をお読みします。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです」。この主イエスのたとえ話は24章から始まった、終わりの時についての一連の説教の中で語られたものです。特に24章の後半から25章の終わりにかけて、主イエスは「天の御国はこのようなものだ」という言葉をもって、いくつものたとえを語られました。それらすべてを通して大切な真理を教えようとされているのですが、今日は特にタラントのたとえ話に集中して考えておきたいと思います。ここで主イエスは天の御国を待ち望む信仰者の有り様を主人としもべの関係で描き出そうとしておられます。たとえの主な登場人物は主人と三名のしもべたちの計四名。主人は三人のしもべたちにそれぞれ自分の財産を委ねると、旅立っていくのでした。聖書はしばしば神と人間の関わりを「主人としもべ」の関係で描き出します。主人とはその家の長であり、財産すべての所有者です。しもべはその家で主人に仕える者であり、財産の管理と運用を任せられたものです。つまりしもべの生き方とは、主人から委ねられたものをそれに相応しく適正に賢く管理運用するのであって、やがて最後にはそれを主人にお返しする立場であることが示されています。それにあてはめてみると、私たちも裸で母の胎から生まれ出て、やがてはまた何も持たずにこの地上を去って行く者であり、その間の地上の生涯において手にしたものはすべて神から委ねられたもの、与えられたもの、恵みの賜物であることをわきまえ知ることが大切でしょう。私たちはいつしかたくさんのものを抱え込み、しかもそれらが自分の力で生み出したもの、得たものと思い違いをしがちですが、家族も子どもも、仕事もお金も、健康も安全も、何よりも信仰そのものを神から与えられ、委ねられていることを覚えたいのです。

(2)委ねられたものは多い
 次に15節を読みます。「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた」。ここには主人がしもべたちに託した財産には五タラント、二タラント、一タラントと差があって、その差は「おのおのその能力に応じて」配分されていたと記されます。よく説明されるように、この「タラント」とは今日、芸能人を指して使う「タレント」の語源となった言葉で、「あの人にはタレントがある」などというように、しばしばその人の秀でた能力、特別な資質や才能を指すこともあります。とにかくそれぞれのしもべたちに委ねられた財産には差が付けられていたのです。
 たとえ話を読むときに大切なのは、読み手である私たちはこの登場人物たちの中のどこに自分自身を見つけるかということです。主イエスが敢えてたとえで語られるのは、その物語の中に読み手である私たちを巻き込んで、私たちが自分自身の姿をその物語の中に見つけ出すためであって、ただ他人事、余所事のように読んでしまってはせっかくのたとえ話の醍醐味が台無しになってしまいます。そこで皆さんにもしばし考えていただきたいのですがいかがでしょうか。私は五タラント預かったしもべだ、という人はそう多くはないかもしれません。自分を顧みればそれほどたくさんの能力が与えられているとは思えないと言う方が多いのではないでしょうか。案外一番多いのは自分は二タラント預かったしもべだと言う方なのかもしれません。すべてにおいてほどほど、標準、一番選びやすいところです。そして物語の結末を知ってしまっている以上、なかなか選び辛いのが一タラントのしもべではないかと思います。しかしその結論をひとまず脇に置いて読んでみれば、多くの方が、他の人と比べてみればやはり自分などは人よりも秀でているとは思えない、自分などは一タラントのしもべだと思われるのではないでしょうか。しかし本来の「タレント」という言葉はお金の単位を表すもので、一タラントは六千デナリ、一デナリは労働者の一日あたりの労働賃金ですので、今の私たちにあてはめてみると、仮に一万二千円と換算して一タラントは七千二百万円、二タラントでは一億四千四百万円、五タラントになると三億六千万円ほどになります。これを多いと見るか普通と見るかはそれぞれの見方によるでしょうが、プロスポーツ選手でもない限り、私たちの感覚からすれば大金ということになり、それは当時、このたとえを聞いた人々の感覚とそう遠くはないと思われます。
 少々細かい話しをしましたが、要するにここで大切なのは、主人がしもべたちに委ねた財産は「多かった」ということです。一タラントの人も、二タラントの人も、五タラントの人も、基本的に預かったものは大きなものなのだという事実を覚えておきたいと思います。後に主人が二人のしもべに「あなたはわずかなものに忠実だった」と言葉を掛けておられますが、実際にはそれは決してわずかなものではありえない。主が私たちに委ねてくださっているものは大きい。これを忘れてはならないのです。それを忘れるとき、私たちは他人との比較の中で優越感に浸ったり、劣等感に苛まれたりといった実に窮屈な生き方に陥ってしまうのです。

(3)自由な応答の中に生きる
 さて、このようにしてそれぞれ主人から財産を預かったしもべたちはその後どのようになっていったのでしょうか。16節から18節をお読みします。「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した」。このように最初の二人はそれぞれ財産を元手に商売をして、その財産を倍に増やすことに成功します。ところが最後の一人は預かった財産をそのまま土の中に埋めたというのです。そうこうするうちに主人が帰宅して精算が始まります。19節から23節。「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと精算した。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して行った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ』」。このように五タラントのしもべ、二タラントのしもべは主人が帰宅して精算の場に臨んだ際、それぞれ全く同じ言葉をもって賞賛を受けることになりました。では第三のしもべはどうなったのか。24節から30節。「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だと分かっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っている者までも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです」。
 この実に対照的な結末を迎えたしもべたちの明暗を分けたポイントはいったい何だったのでしょうか。この箇所からは実に様々なことを思い巡らすことができるのですが、この朝、申し上げておきたいのは、彼らに委ねられたタラントの多さ少なさということが問題なのではない。そうではなくて、彼らがどのような心で主人に接していたか、つまりしもべの主人に対する心の有り様が問題なのだということです。このたとえで共通しているのは、主人がしもべたちに財産を分配した際に、何の指示も命令も、ましてノルマも与えていないということです。私が帰ってくるまでに財産を倍増しておけと命じていったのではないのです。しかし二人のしもべたちは、それぞれ主人の意を受けて一生懸命に働き、その能力をそれぞれ遺憾なく発揮して、それぞれに相応しい実りを得るに至りました。だから主人も五タラントのしもべと二タラントのしもべの優劣を何ら拘らず、二人にそれぞれ全く同じ賞賛の言葉をかけておられるのです。つまり彼らは主人のために生きることを喜びとする人々であった。何かを命じられて、何かを課せられて、それこそ奴隷根性で働くしもべたちではなく、彼らを生かしていた根本的な力は主人に対する愛と信頼、尊敬によって動かされた自由の心でありました。いや実は、主人こそが彼らを喜びとする方であることを彼らはよく知っていたのです。「主人の喜びをともに喜ぶ」。この主人の心こそが、同じくしもべたちの心でもあったのです。他方、一タラントのしもべは主人を「ひどい方」と見て、主人を「恐れて」いました。それゆえに彼の中には日頃から喜びはなく、すべてが義務感と恐怖心、そして不満や反発の心によって動かされていたのでしょう。
 ここには主なる神に仕える私たちのあり方が映し出されています。私たちはこの年もそれぞれが与えられた賜物を用いて、主に仕え、主にお従いして来ました。それぞれが重荷を負って主と主の教会のために具体的に犠牲を払い、多くのものを捧げておられたことを思います。そこでこの朝、あらためて私たち自らの心の有り様を深く省み、私たちが主に従う歩みはどのようなものであったのかを振り返っておきたいと思います。私たちは主に愛され、主に喜ばれ、主に生かされる者として、その愛のゆえに感謝をもって主に仕える自由なしもべとして忠実に生きるものなのです。

(4)終わりまで忠実に生きる
 このたとえ話が主人の帰宅と精算の場面で終わるように、私たちにもやがて終わりの時がやってくると御言葉は教えます。ヨハネ黙示録20章でも学んだように、その終わりの日には、全ての者が天の御座の前に立って審判を受けるというのです。キリスト者の人生観を形づくる最も大切なものの一つが、この「終わりの時」を意識して生きるということであろうかと思います。このたとえでは、主人の旅立ちから帰宅までがどれほどの時であったのかは記されていませんが、しかしその財産を倍に増やすまでということを考えて、また聖書の語る労働観からしても、日々の地道な営みの積み重ねの末のことと考えるのが相応しいとすれば、かなりの年月が経過していたと考えるのが適当でしょう。そうであれば当然、その間の日々に何の問題もなかったことはあり得ない。苦しみの続く時、試練をくぐる時、思わぬ災難に見舞われる時、悲しみに押し潰されそうになる時、途中ですべてを投げ出してしまいたくなる時、徒労感に襲われて疲れ果ててしまう時、そういう時が一度ならずあったに違いない、あるいは、そのような苦しみの日々のほうが数えてみれば多かったということであるかもしれない。このたとえの直前に語られた、花婿を待つ十人の娘たちのたとえの結論である13節で「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時をしらないからです」と言われているように、主人を待つしもべも主人の帰宅の時は知らされていない。しかし知らされていないということをもって彼らはあきらめず、投げ出さず、腐らずに、むしろ主人の帰りを待ち望みながら日々の働きに勤しみ続けたのです。むしろそれが何時かは知らずとも、しかし必ずその時が来ることを知り、しかもその時に主人を喜んで迎えたいという希望の中で、彼らは毎日毎日、主人の帰宅を心待ちにしながら日々の働きに勤しんでいったに違いないのです。
 先日、入院中の蒔人君のお見舞いにいった折に、帰りがけに長濱姉とともに御言葉を開き、祈る時を持ちました。その時に姉妹が「今年の主題の御言葉をあらためて読み返し、終わりまで忠実に生きると言うことが本当に難しいことだと教えられています」と証ししてくださいました。もし忠実であることが私たちの力によってのことであったなら、一体私たちの中のどれだけの人が「終わりまで忠実に歩む」ことができるでしょうか。恐らく誰一人として終わりまで歩み通すことはできないと思います。では、いかにしてその道が開かれるのか。それは私たちの忠実さを越えて働かれる主イエス・キリスト御自身の父なる神の御心に対する忠実さと、私たちに対する真実さのゆえです。主の真実が支えていてくださるのではじめて、私たちもまた主に対して忠実に生きることがゆるされるのです。
 終わりまで忠実に生きる信仰。それはいつも決死の覚悟であることをひけらかすようなオーバーアクションな生き方ではありません。むしろ実に淡々と、終わりを見据えつつもしかし日々己れの与えられた分を弁え、己れのなすべき分を果たし、しかもその営みの全体が自由と喜びによって支えられながら、一日一日を積み重ねていった果てに、主がお出でくださる時が来る。そしてその時に主は私たち一人一人の名を呼んで「良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」とのお声を掛けてくださるのです。その日を待ち望みつつ、主の御真実に支えられて、私たちもまた終わりまで主に忠実にお従いする群れであり続けたいと願うものです。

 



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