年末感謝礼拝説教 2007/12/30
『愛し、もてなし、仕え合い』

 Iペテロ4:7-11
 
2007年最後の主日を迎えました。毎週の主日に教会に集い、朝に夕に主を礼拝し、賛美と祈りをささげ、主のいのちの言葉によって養われ続けて今日を迎えることのできる幸いを主に深く感謝するものです。
 今年、私たちの教会は、ガラテヤ書5章13節の御言葉から「互いに仕えあう教会」を主題に掲げて歩んでまいりました。そこで今朝は「互いに仕えあう」という信仰の姿勢をペテロの手紙の御言葉を通してあらためて教えられ、私たちの主の御前での歩みを振り返らせていただきたいと思います。

(1)心を整え、身を慎み(v.7)
 7節。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」。一年の終わりの礼拝においてこの御言葉をまずしっかりと心に刻みたいと思います。「終わりよければすべてよし」と言われます。どうもこの言葉はそれまでの一切のことを「終わり」の中にうやむやのままひとまとめに丸め込んでよしとしてしまうという、少々投げやりな響きで使われることが多いように思います。しかし聖書が語る「終わりの事柄」は私たちの人生の最終的な精算の時、裁きの時、主人に申し開きをする報告の時であり、そのために、終わりの時の近づきを知るキリスト者の基本的な生活の構えは、絶えず目を覚ましているということでした。万物の終わりが近づいて来ている。今まさに終わりの時が来たらんとしている。この時の緊張感の中で、主にある者の日々は一日一日と続けられ、今日のこの2007年12月30日に至っているのです。このような終わりを知る者としての日常生活は、万物の終わり、世界の終わりの接近に恐れおののき、慌てふためき、浮き足立つのでなく、さりとてどうせすべては終わるのだといって刹那的になり、自暴自棄になり、投げやりになるのでもありません。初代教会の時代のキリスト者たちは、迫害の続く時代の中で、主イエス・キリストの再び来たりたもう再臨の時、万物の終わりの時の迫りを今日の私たち以上にリアルに感じながら生きていました。そのようなキリスト者たちの取るべき人生態度として、聖書は「祈りのために、心を整え、身を慎みなさい」と教えるのでした。
 終わりの時の近づきを知る者として心を整え、身を慎むという人生態度について、この手紙では二つの現れ方をしています。一つには再び来たりたもう主イエス・キリストへの待望の姿勢ということです。1章13節。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」。いま一つは今なお続く悪しき者、サタンとの戦いの覚悟の姿勢ということです。5章8節、9節。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」。このように主にある者たちは、終わりの時を知るゆえに、主イエス・キリストの訪れを待ち望みつつ、悪魔との戦いにも気を緩めず、浮き足立たず、心を落ち着け、神の前に思いを整え、また投げやりになって自堕落で放縦な生活に陥ることなく、身を慎みながら生きるようにと導かれているのです。
 さらにここで「祈りのために」と言われていることにも注目したいと思います。終わりの時を知る者の日々の生活が「祈り」へと方向付けられているのです。私たちは祈ることをしばしば消極的なことととらえがちです。他に何もできないのでせめて「祈り」を、と言ってみたり、すべて為す術がなくなったところで最後の抵抗の手段として「祈り」にすがってみたりすることはないでしょうか。しかし聖書は主なる神への積極的な服従としての祈りを教えています。終わりの近づきを知るがゆえに祈る。それは残された気休めやあきらめの手段ではありません。この手紙を記したペテロは終わりにおける祈りということを記しながら、あのゲッセマネでの主イエスの祈りの姿を思い起こしていたのではないでしょうか。終わりが近いからこそ主の御心に積極的に従う祈りに向かって自らを整えていく。来る年、私たちの生きる姿勢もまたこのように整えられていきたいと思うのです。

(2)互いに愛し、もてなし(v.8-9)
 「祈りのために」とはもう少し広い文脈でとらえるならば「礼拝のために」と言い換えてもよいでしょう。主のみからだなる教会に連なる私たちの礼拝の生活ということです。この祈りのため、礼拝のための生活ということを聖書はここでさらに具体的に展開していきます。それが8節から11節前半にかけて記される「互いに」という勧めです。そこで終わりの時の近づきを知り、再臨の主を待ち望む礼拝と祈りの方向性の中で、何よりもまずすべきことが教えられます。8節。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」。この言葉、直訳してみますと「互いに対する愛を熱いものとして保て」ということです。互いに愛を熱く保つこと。このことについて竹森満佐一先生がこう記しておられます。「熱い愛というのは何でしょう。この熱いというのは『伸ばした』という字です。そこから『緊張した』という意味になります。・・・熱い愛というと温かい愛のように思われるでありましょう。あるいは熱心な愛とも考えるでしょうか。しかしここで言われているのは、緊張しきった愛、したがって打てば響くような愛のことであります。愛は温かいものでもありましょう。しかし温かさが愛の本当の姿でしょうか。温かさだけを求めていると、愛に失望するでありましょう。わがままなことを求める者に対して、本当の愛は決して温かく、甘くはないでしょう。かえって冷たいかも知れません。愛する方も、いつも温かいというわけにはいかないでしょう。愛は、どんなことにもすぐに正しく応じることができることでありましょう。気ままな人間の喜びそうなことではなく、神のお喜びになることが行われるようにすることであります」。
 熱い愛とは、人間中心の愛、互いにもたれ合いなれ合うような水平に伸びきった弛緩した愛でなく、主なる神の御前に張りつめた愛、立ち上がった愛だというのです。そうしてみると続く「愛は多くの罪をおおうからです」という御言葉の意味もまた新しい光を放ってくるでしょう。罪をおおう愛とは相手の罪を暴き立て、あげつらうことでないのはもちろんのこと、さりとて罪を隠す愛、罪をうやむやにする愛、罪を不問に付す愛ということでもありません。むしろ主イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに自らが罪赦された者として互いに相手の罪を赦すということです。教会は罪赦された罪人たちの集まりであり、主イエス・キリストの十字架の贖いのもとにある赦しを与える赦しの共同体です。私たちが「互いに」ということを考える際の一番のことは互いに赦しの愛をもって愛し合うということなのです。
 次に9節。「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」。互いへの愛が生み出すわざとして「親切にもてなし合うこと」が勧められます。私たちはしばしば相手のためにすることと、相手からしてもらうことを天秤にかけてバランスが取れるようにと腐心することがあります。そして自分がしたことに相応することを相手がしてくれないと、何となく不平、不満が心の奥底に澱のように溜まってくると言うことがあるのではないでしょうか。表面上ではにこやかに微笑み、歓迎の言葉を口にしながら、心のどこかに不平の心、つぶやきの心が潜んでいる。そういうところに御言葉は互いへの愛ということを突きつけてくるのです。互いに親切にもてなし合うこと、それは主イエス・キリストの赦しの愛によって満たされることなしには与えられないものです。まず私を親しくもてなしてくださる主、神との祝宴に招き、仕える者のようになって足を洗い、私たちとともに親しく食卓についてくださるお方、天にあって私たちのために場所を備えていてくださる主。この主イエス・キリストの私たちをもてなしてくださる深い御愛に満たされて、来る年も互いにもてなし合う交わりにあずかっていきたいと願います。

(3)互いに仕え合え(v.10-11)
 そして10節から11節。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい」。ここで聖書は神から賜物を与えられた私たちを「恵みの良き管理者」と呼び、その賜物を用いて互いに仕え合うことを命じています。ペテロはここでも主イエスがかつてお語りくださったあのタラントのたとえを思い起こしているのかも知れません。主なる神が私たちそれぞれにふさわしく賜物を託していてくださり、それを用いて主と主の教会に仕え、互いに仕え合うことを期待しておられる。私たちはその恵みの良き管理者なのだというのです。教会は実に様々な賜物が与えられ、主にある兄弟姉妹たちの熱心かつ忠実な奉仕によって建て上げられるものです。その奉仕には優劣はありませんし、実際に体を動かす奉仕も、ひたすらとりなしの祈りに励む奉仕も同じく主の御前にあっては尊いものです。この年、ここまでの歩みの中でお一人一人のそのような黙々とした忠実な奉仕が捧げられ続けてきたことを思い、あらためて主にあって感謝と敬意を表したいと思います。さて、そのような多様な賜物による奉仕の中でもペテロは特に教会の務めとしての「語る人」と「奉仕する人」に注目します。「語る人」とは具体的には教会に立てられた御言葉の奉仕者、牧師のことを指しています。牧師は「神の言葉にふさわしく語れ」と命じられる。この言葉を前にして、私自身、この一年の自らの御言葉の奉仕について深く思い巡らしています。神の言葉にふさわしく語る、神の言葉として説教する。生ける主イエス・キリストを差し出し、救いを与える言葉として語る。本当に自分はそのように語ってきたのか。毎主日、毎月、そして毎年のことながら、絶えずこのことの前に悔い改めさせられ、さらに主の御心に近づくために精進しなければならないと思っています。
 「奉仕する人」についても同様のことが言えるでしょう。主が仕えられたように互いに仕えること、主に仕えるように互いに仕えること。それは自分の力によってでなく、神が豊かに備えてくださる力によって為す働きだと教えられています。互いに自分の蓄えを削り取って与え合うならば、あっという間にそのような愛の業は尽きてしまうでしょう。そうではなくまず神の愛によって愛されていることを認め、その愛を喜び、神が注いでくださる愛によって豊かに満たされて、そのようにして互いのために、そして主のために喜んで捧げ、喜んで労苦し、喜んで仕える者とならさせていただきたいと思うのです。
 こうして私たちの互いに愛し、互いにもてなし、互いに仕え合うことの究極の目的は何でしょうか。それによって私たちが互いに称賛し合い、互いに自己満足に耽るためでしょうか。互いに満ち足りて、それで完結してしまう内輪の交わりのためでしょうか。私たちが互いに仕え合うことの究極の目的。それは神の栄光のために、というただこの一点です。11節後半。「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」。愛のない私に愛を満たしてくださる主、不平、不満の心を抱く私に隣人へのもてなしの心を与えくださる主、仕えることよりも仕えられることを願う私に主にあって互いに仕えることを教えてくださる主。この主イエス・キリストを通してただ神があがめられること。この一点に私たちの眼差しを向け、心を注いで来たこの一年の歩みを、今、主の御前に感謝と悔い改めをもって締め括り、迎える2008年、ますます万物の終わりが近づいてくる中で、心を整え身を慎んで歩んでまいりたいと思います

 



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