平和主日朝拝    2019/08/11
『義と平和は口づけし』

詩篇85:1-13

 暑い夏の朝、私たちは今年もこの8月第二主日を「平和主日」として覚え、御言葉に聴き、平和のための祈りをささげ、午後には教会セミナーを通して学びの時を持とうとしています。新しい隔ての壁、新しい分断の谷が次々に建てられ、広がりつつある時代にキリストの平和を告げ知らせ、平和を作る神の子どもとして召された者たちの責任を思います。この朝、ともに詩篇の御言葉に教えられながら、キリストの平和に生きる思いを新たにさせていただきましょう。皆さんお一人一人に、またこの社会に主の祝福と平和があるように祈ります。

(1)分断の時代の中で
 今、私たちの国の政府と隣国、韓国政府との関係が拗れています。昨年秋、韓国の最高裁判所にあたる大法院が、戦前、戦中に日本の企業に強制徴用されたいわゆる「徴用工」に対する補償を命じる判決を下したことに端を発して、すでに戦時下の補償問題は1965年の日韓請求権協定により国家間で解決済みとする日本政府と、国家賠償請求権は消滅していないという韓国政府の主張がぶつかり合い、そこから日本政府が半導体の輸出規制、貿易に関する優遇対象から韓国を外すという措置に出て、韓国側がこれに反発。今までにないほどに両国の摩擦が高まってしまっています。新聞、テレビの世論調査では、今回の日本政府の措置を支持する声が多いようですが、私たちはこういう時こそ、落ち着いて事柄の背景を捉える必要があるでしょう。また「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」で展示されていた従軍慰安婦を象徴する少女像の展示が、これを問題視する名古屋市長や官房長官の発言に後押しされる形で主催者に批判が殺到し、中止されるという出来事がありました。表現の自由が脅かされるという、民主主義社会の根幹に関わる問題とともに、いまだ過去の歴史と真摯に向き合うことのできない私たちの社会の課題を突きつけられています。
 今年1919年は、三・一独立運動から100年という韓国においては重要な節目の年です。1910年に日本が朝鮮半島に進出し、韓国を日本の植民地として併合しました。そこでは創氏改名によって民族の尊厳を踏みにじり、ハングルの使用を禁じることで言語を奪い、天皇制国家の中に強制的に組み込むことで歴史や文化を奪い、神社参拝強制によって信仰までも奪っていきました。そして1919年の3月1日、日本の植民地支配に抵抗し、独立を叫ぶ運動が韓国各地で一斉に起こり、日本官憲によって鎮圧させられた出来事、それが三・一独立運動です。その後、ますます朝鮮半島支配は徹底され、特に1931年以後のいわゆる十五年戦争下で日本軍による従軍慰安婦問題が起こっていきました。このような過去を正しく知ること、罪責を受け止めて心からの赦しを請うこと、その謝罪が心からのものであることを証しし、隣人に対して信頼を回復する努力を続けること。それらのことに私たちの社会はどれほど真摯に取り組んで来ただろうかと思います。過去の自らの過ちと向き合うことを自虐史観と呼び、傷つけてきた隣人たちになお憎悪の言葉を投げかける。こういう時代に、この国に生かされている教会の立てる証とはいかなるものであるかを深く問われるのです。

(2)過去の回顧と現状の認識
 そのような中で、今朝与えられている御言葉が詩篇85篇、特に10節、11節に心を留めたいと思います。「恵みとまことはともに会い、義と平和は口づけします。まことは地から生え出で、義は天から見下ろします」。ある翻訳聖書には「回復と平和のための祈り」とタイトルが付けられています。この詩篇は南ユダ王国がバビロン帝国によって滅ぼされ、捕囚の民として連れ去られ、その後、苦難に満ちた日々を過ごした後にようやく捕囚から解放されたイスラエルの民が、神の恵みを感謝のうちに振り返りつつ、そこで今、直面している困難について神に救いを求める祈りです。
 「恵みとまことはともに会い、義と平和は口づけする」。他の翻訳聖書では「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけする」、あるいは「義と平和は抱き合う」と訳す聖書もあります。「出会う」。「口づけする」。「抱き合う」。これらの言葉が特に心に響きます。心がすれ違い、互いにきちんと出会うことができず、あやまった先入観と相手に対する恐れや疑心暗鬼、それらが産み出す憎しみによってわかり合えない社会が私たちの周囲に拡がっています。所詮、世の中はそんなものだという諦めの心が私たちのうちにも浮かんで来ます。けれども聖書は、慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけすると語る。詩的な表現ですが、だからこそこの言葉によって引き起こされるイメージを私たちは大切に受け取りたいと思うのです。
 詩人は1節から3節で、かつて自分たちを捕囚から解放してくださった神の恵みの御業を振り返っています。「主よ、あなたはご自分の地に恵みを施し、ヤコブを元どおりにされます。あなたは、御民の咎を担い、すべての罪を、おおってくださいます。あなたは、激しい怒りをすべて収め、燃える御怒りから身を引かれます」。そしてこの恵みの振り返りに基づいて、4節から7節では、今、置かれている苦難の中で神の赦しを請い、救いを求めています。「帰って来てください。私たちのところに。私たちの救いの神。私たちへの御怒りをやめてください。あなたはとこしえに、私たちに対して怒られるのですか。代々に至るまで、御怒りを引き延ばされるのですか。あなたは帰って来て、私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民があなたにあって喜ぶために。主よ。私たちにお示しください。あなたの恵みを。私たちにお与えください。あなたの救いを」。
 詩人が今どのような困難に直面しているのかは定かではありません。しかし彼の中には、過去において父祖たちが犯した罪への報いが、今、自分たちの上に注がれている。そのような認識を持っていたようです。彼らは過去に大きな罪を犯し、その裁きを受けました。そしてそこから赦され、救い出されて回復を遂げた。しかしそこでなお困難に直面するとき、過去の自分たちの罪を思い起こし、そこで詩人がすがるのは神の恵みのほかにないのです。私たちはこの朝、この詩人の歴史の認識、時代の認識というものを受け取りたいと願うのです。私たちの国もかつて大きな戦争の経験を通して大変な苦難を自らも味わい、また近隣諸国にも味わわせて来ました。そして戦後、このような悲惨な戦争を繰り返さないという決意を持って平和憲法を定め、戦後70年の歩みを続けて来ました。私が属する日本同盟基督教団も、戦時下の自らの教会の戦争協力と偶像礼拝、そしてアジア諸国への侵略の罪を悔い改めて、憐れみの中でこれまでの年月を過ごして来ました。しかし今たちの社会は、その戦争への道を再び歩もうとする危うい道に立っています。そのような時に、私たちもまた「主よ、お示しください。あなたの恵みを。私たちにお与えください。あなたの救いを。」と祈らざるを得ないのです。

(3)主は平和を宣言される
 そこで詩人は主の恵みにすがりつつ、そこで主の御声を聴き、一つの確信へと導かれていきます。8節、9節。「聞かせてください。主である神の仰せを。主は御民に、主にある敬虔な人たちに平和を告げられます。彼らが再び愚かさに戻らないように。確かに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは栄光が私たちの地にとどまるためです」。私たちの神は平和を告げる神、シャロームを宣言される神です。私たちが再び愚かな振る舞いに戻らないように、神の平和、シャロームを宣言なさるのです。私たちは、まことの平和は神からしかもたらされることがないと信じています。それは人間の努力によって平和を作り出すことができない罪の現実を知っているからです。私たちの内側には敵意があり、猜疑心があり、疑念があります。平和よりも争いに向かう心、信頼よりも疑いに向かい心があります。それは人間の罪の現実です。ですから私たちは、平和よりも安全を求め、ことばよりも剣を求め、開かれた門よりも、高くそびえる塀を張り巡らそうとするのです。
 最近、岩波現代文庫から『ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想』を上梓された宮田光雄先生が、かつて『いま日本人であること』というエッセイ集の中で、平和を構築するのに抗うものの一つに、私たちの中に根深く存在する「敵・味方思考」があると指摘され、平和の実現に向けて、この思考を克服することの重要性を語っておられます。「われわれに敵対する《敵》があると思い込み、彼らがわれわれにいつか襲いかかるだろうと信じて、われわれがそのように振る舞いつづけていれば、おそらく彼らの側でも、われわれに対して、事実上、敵意を持つようになり、ついには、われわれにたいして襲いかかるように促されるかも知れない。当初においては、そうした意図はなかったのだけれども。さらに、われわれは侵略者を《敵》という用語で、いわば単数形で一括して思い描くことが多い。しかし、実際には、そこには、何百、何千万もの人びとがいるのである。彼らは多くの市民、農民、労働者、老若の男女をふくみ、何千、何万という異なった集団や組織からなっている。つまり、そこには、いかなる政治的・社会的構成が存在しているのか。誰が統治し、いかに統治されているのか。民衆のなかでわれわれに対して敵意をもつ層はどれ位であり、潜在的な同盟者たりうる層はどれ位あるのか。現実主義的な政策を立てるためにも、こういった細別化された認識をもたねばならないであろう。それだけではない。《敵味方》的思考に欠けている最大のものは、《敵》のなかに人間をみる基本的な感受性である。むしろ、そこでは、《敵》として役割を演じている相手の中にも自己と同じ喜怒哀楽という人間的情感の担い手を見分けねばならない。つまり、敵対関係において克服されねばならないのは、《敵》の人格ではなく彼が現実に演じている《敵》としての役割なのである。この細別化の視点は、《敵味方》の固定的区別にはるかにまさって、状況変革の動態的な可能性を開くものといわねばならない。それは、人間の可変性にたいする信頼にもとづいているからである。《敵》を抹殺する代わりに《敵》を《味方》に変えることによって、侵略者という非人間的体制を克服することを狙っているのである」。これは国家間の問題にとどまらず、私たちに人間関係にも当てはまる大事な指摘です。キチンと出会い直すこと、人格として出会い直すことの大切さを思います。これこそ、キリストが十字架で成し遂げてくださったことの実りであるのです。

(4)義と平和は口づけし
 主なる神がもたらされる平和は、人間の限界を越えて私たちを新しい地平に立たせるものです。「恵みとまことはともに会い、義と平和は口づけします」。異なる考え、異なる人間、異なる文化、異なる歴史、それらのものが行き会い、そこで固い抱擁を交わす姿です。また11節では「まことは地から生え出で、義は天から見下ろします」と語られて、地から生え出でるまことと天から下る義によって実現する、神による平和のヴィジョンの姿が生き生きと描き出されています。
 このヴィジョンの実現を目指して、私たちは今日、ここから進んでまいりたいと願います。13節、14節に「主が良いものを下さるので、私たちの大地は産物を産み出します。義は主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします」と締めくくられます。過去の回顧と現状の認識から、さらに未来への展望が開かれていくのです。しかもその未来は、私たちが空想する未来ではなく、主なる神が実現される確かな約束に基づく未来の姿であり、それはまさに神の国の完成の姿です。そしてこの真の平和の実現する神の国をもたらすために、私たちのもとにお出でくださったのが、今日、今、ここで私たちが礼拝している神の御子イエス・キリストなのです。エペソ書2章14節から17節でパウロはこう言います。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。またキリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました」。
 私たちが求める平和。それはキリストによってもたらされる平和であり、何よりもまずキリストの十字架の贖いによって成し遂げられた神との和解による平和です。このキリストの十字架の贖いによって罪赦され、神の愛で愛された人が「新しい人」です。そしてこのキリストによる神の愛の中に生きる時、その新しい人は敵意を超えると聖書は語ります。そういう人が今、この時代に必要なのです。そしてそこにキリスト者の使命があり、教会の使命があるのです。



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